55 最初の火花
二十分ほど並んで、ようやくプールのあるドーム内に入ることができた。
俺といっちゃんは男子更衣室を出て、売店近くのパラソルの下に座る。他の三人とはここで待ち合わせすることになっている。女の子は男より着替えに時間がかかるのだ。
今日はよく晴れている。透明な天井から、雲ひとつない青空と太陽が拝める。ガラス張りのドームになっているおかげで、室温は汗が噴き出さない程度の暑さに保たれていた。
気分は真夏。
ぱーっと裸になりたいところだけど、水の中に入るまでパーカーは脱げない。俺には人前で脱げない理由があり、体育の時もこそこそ壁を背にして着替えている。彩加には一度、見られてしまっているけれど。
その悩みは「彼」も同じである。
「ぶー。つまんないなー。ボクも和にぃと泳ぎたいなー」
着替えなかったいっちゃんは、俺のそばにくっついてぶつぶつ言ってる。こてん、と頭を俺の肩に乗っけてくる。他の三人がいないうちに、思う存分甘えようってことらしい。
「それは承知でついてきたんだろ?」
「だってセンパイたちに先越されるの、不安だし」
白鷺家は歴史のある古い家柄である。
逆子(さかご)で生まれた女子は、十八歳までは男子として生きねばならない。さもなくば一族全体に不幸が降りかかる――みたいな話を、以前聞かされた。そういう迷信に従わなきゃいけないのが、演劇部の花形スター・白鷺イサミの立場だった。
「実はね、和にぃ。この下は水着なんだよ」
「ふうん」
視線をやると、ウインドブレーカーを羽織ったTシャツ越しに、うっすらと水色の生地が見えた。
「まぁ、最近は男性用のブラジャーもあるっていうしな」
「水着だってば、もう!」
衣服がオーバーサイズなせいで、ぱっと見はその見事なふくらみがわからないけれど――こうして密着すれば、当然、伝わってしまう。
「ねぇ、和にぃ?」
いっちゃんは俺の右腕を引き寄せると、そのセンシティブな水色をぷにっと押しつけた。
「センパイたちが来るまで、誰もいないところに行こ?」
「…………」
「泳げないなら、せめて、水着見て欲しいよ。……お願い」
そんな切なげな表情をされると、水着でなくとも、女の子だと周りにバレてしまいそうなんだが。
「わかったよ。行こうか」
「……えへへ。和にぃだーいすきっ」
見た目男同士で腕を組んで歩き出した。周りからじろじろ見られてしまうけど、先進的カップルということで良いだろう。これからの普通(スタンダード)を世間に示しているだけ――と、自分に言い聞かせる。
プールサイドを歩いていると、南側にある人だかりから、大きな歓声が沸き起こった。
「あそこ、なんだろう」
「野外ステージみたいだね。イベントとかやってるのかな?」
アイドルのライブか? もしくはダンスか?
それにしては、音楽が鳴っていない。
代わりに聞こえるのは「シッ!」「シッ!」と息を吐き出す音と、革が擦れる音、そして肉が肉を叩くような打撃音だった。
まあ、つまりボクシングジムやフルコン空手の道場みたいな音がしているわけで――。
「例の清原っていう兄弟かな。動画撮ってるのか」
「いいから、行こ?」
俺の腕を引っ張っていこうとしたいっちゃんの肩が、前から歩いてきた男の肩にぶつかった。
「ごめんなさい!」
謝ったいっちゃんの表情におびえが走った。
目の前にいたのは、今話に出たばかりの清原三兄弟、その一人だった。
背の高さからして、おそらく三男だ。
「あら残念。興味ないかな、オレらのこと」
甲高い声だった。
茶色に染めたパンチパーマ。
日焼けした素肌に無造作に羽織った柄シャツ。
高価そうなネックレス。
ここまでは典型的な「深夜のド○キにたくさんいる人」なのだが、ここからが非凡だった。
異様に太い首。
ゴツゴツした耳と、低く潰れた鼻。
顔には無数の傷がある。
にっと笑った唇から覗く前歯が不自然に白い。
部活やスポーツで格闘技をやっていても、こうはならない。
格闘技を「職業」としてやりこんだ人間の貌(かお)だった。
両脇にはグラビアアイドルみたいな二人の女性を連れて――いや、従えている。あざとすぎる紐のようなビキニからは、色気よりも下品さを感じる。そういう女性を、アクセサリー代わりにぶらさげる男のようだ。
「オレは興味あるんだけどなぁ。君のこと」
「えっ? あ、あの……ボク、男なんで」
苦笑いしながら後ずさろうとしたいっちゃんに手が伸びて、Tシャツの衿(えり)を掴んだ。
「キャッ!」
その悲鳴は、まぎれもなく、か弱い女の子のもの。
シャツがひっぱられたせいで、水色に彩られた深い谷間が曝け出される。
「へへ……。そのでけー胸で、ボクオトコノコデスーは無理があんだろ。なあ、オレらの動画出てみたくない? 芸能界にもコネあるから。な?」
ニタニタ笑いながら、今度はいっちゃんの手首を掴もうとする。
……はあ。
しょうがないな。
「おっ? カノジョを守るナイトくん登場?」
おどけたように三男は言った。「こわーい、殴んないでぇー」。頭を抱える仕草をする。グラビア女二人が、大きな声で笑った。
殴るなんてとんでもない。
人気者らしいんで、握手してもらうだけさ。
俺は無造作に右手を突き出す。
男は、俺の手を払う。
パリング――。
打撃系の格闘では基本中の基本だ。
路上のケンカでは大げさな動きで「かわす」輩が多いが、かえってスキができたり、転んだりする。相手の打撃は「いなす」「払う」のが基本。職業格闘家らしい、手堅い動きだった。
だが、パリィするということは、手と手が触れるということだ。
俺には、それで十分。
「っぐぅ!?」
男の手首を掴む。
男は当然、振りほどこうと、引っ張る。
その、人体に元来備わっている反射に「合」わせて、「気」を送り込む。
合気。
「おっ、重(おも)っ!?」
男の膝が地面につく。
そりゃ重いだろうな。
両肩に、俺とあんたの体重が、まとめて乗っかっているようなものだから。
普通の相手なら、これで終わらせるところだけど――。
あんたは、駄目だ。
いっちゃんを怖がらせ、彼女の秘密を覗いた罪は「重い」。
「っ、がふ!」
さらに気を送り込む。
男は前のめりに倒れ、受け身をとることもできず、顎をガツンとコンクリートにぶつけた。
まだまだ。
「がふっ、がががふふふふふふふふふふふふふふふふ!」
手負いの犬のような唸り声とともに、ぽたぽた、よだれが落ちる。顎の肉が地面の上でひしゃげる。前歯がガリッとコンクリートを噛む。手首の関節が曲がっちゃいけない方向に折れ曲がっていく。
もう少し「気」を入れたら、格闘家はしばらく休業、二週間ほど左利き生活――。
というところで、パッと手を放した。
「ぐあう」
清原三男は地面に這いつくばったまま、ぜえぜえと息をしている。地面には染み出した汗がじわりと広がっていった。
これで今日、明日はおとなしくしているだろう。
「行こう。いっちゃん」
「う、うんっ」
いっちゃんの手を取って(もちろん普通に)、歩き出す。
呆然と突っ立っていたグラビア女優二人が、あわてたように道を開ける。彼を助けたり介抱したりする様子はない。「アクセサリー」はそんなことをしない。異性を惹きつけるといっても、その中身は色々らしい。
地べたから声がした。
「てめえ覚えてろ。兄貴たちにチクるからな」
「……」
なぜこの手の人種は、いつも同じ台詞しか言わないのだろう。「覚えてろ」。そんなに記憶力が悪いと思われてるのだろうか?
――実はその通り。
最近、物忘れが激しくて。
脳のメモリがもったいないから、秒で忘れた。
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