第23話

 プレハブ小屋を出ると、私は道無き道の登山を開始した。黒猫が進むんだから、仕方あるまい。

「黒猫が教えてくれるし、仕掛けは行けば何となく分かる。もしも、俺がたどり着けなかったら、お前が作動しろ」

 友原はそう言い残して、先に出て行ってしまった。私は素直に従い、黒猫を追う。実行委員に良いように使われ、追われ、あまつさえ、結局実体も分からないが友原の作戦も失敗なんてことになったら、それこそ、目も当てられない。どうにか足場が状況が悪すぎる山を進み、あわや暗闇で見えなくなる黒猫を探し、たっぷり時間をかけて登りきった頃には、既に夕闇が空を塗り始めていた。

 たどり着いたのは、よく知った裏口を通る小道であった。私を溺死させかけた川も、凍死させかけた砂漠も健在である。そして、私の直ぐ近くで眉間に皺を寄せる、実行委員達も。

 これには場所が悪かったとしか言いようがない。私が山林を抜けた先は、裏口から更に進んだところにある、小道から砂漠へ渡る橋の殆ど目の前であった。出入口に実行委員の影あり、十分、注意されたし。なお後夜祭の会場の出入口も含む。私は黒猫が向かう通り、裏口の方向へと走り出した。

 教師ですら廊下を走ると謳われた、広い敷地の広い校舎の端から端まで、短距離陸上競技くらいの距離がある。外に置いても、同じことだ。黒猫が何処に向かっているのかは未だ分からないが、裏口までは出入口が無い以上、少なくともそこまでは走らなければならないはずだ。小道の舗装状況は比較的良好で、私が行っていることは、完全なる陸上競技である。階段などではなく、平地で行う陸上なんて、いつぶりであろう。思い出そうとして、短距離走の燦々たる結果を思い出した。

 実行委員と私では、お互いに気づくのに僅かな時間があった。下手をすれば実行委員は私が私だと気づいてすらいなかったかも知れない。しかしながら、私の小動物的本能が、脳の指令なんかを飛ばして、一目散に走らせ始めていたお陰で、かなりの距離を稼げていた。走っていなければ追われなかったのではないかなどと愚かな疑問は抱かない。そんな過去のことは川にでも流してしまった。ただ、ここに来て、全逃走者、最大の疑問に、私なりの回答を見たのは、言うまでもない。

 猫の疾走というのは、人間よりも遙かに速く、倍以上もの速度が出るという。私は見事に黒猫に置いて行かれてしまっていた。黒猫は裏口まで半分の距離を軽々と走り抜け、悠々みゃあと鳴いて私を応援しているかのようだ。可愛いではないか。

 追いつけそうもないと悟ったのか、後を追う実行委員は笛を鳴らした。なんだか、既視感を覚える。すると、大方の予想通り、前方、裏口から実行委員Tシャツを着た男達がこちらを覗いた。確実に状況なんて分かるはず無いのに、彼らは私に向かって走ってきた。彼らには捕食者としての本能が備わっているのだろうか。

 一度、騒がしさを増した裏口を見て、挟まれたと分かったのだろう、黒猫は校舎の壁に向かって走り出した。窓などではない、どう見たって壁にである。一体、どのような目的があってなのか、どんな勝算があって、そも、目的などあるのか。いくら身軽な猫とは言え、質量がないわけ無く、校舎に向かっていったら質量の壁を前に、ぶつかってしまう。逃げられようもない物理法則であるはずなのだが、黒猫は校舎へと吸い込まれていった。

 私のみならず、前方から迫り来る実行委員達も驚いている。黒猫が消えた壁を目の端に捕らえて走っていると、今度はその壁から、明らかに生気が抜けたような女性の顔が現れた。長い髪を垂らし、間から見える真っ白な顔は、恐怖映画のワンシーンのようだ。

 顔が左右に首を振って、私を捕らえた。背筋が凍る。今度は壁から手が伸びてきて、私を手招いた。壁から首と手が出て、手招くなんて恐怖でしかない。それでも、後ろから実行委員が追いかけてくるから止まれず、前の実行委員なんかより、圧倒的に恐怖の顔に向かって走った。

 近づくにつれ、手招く青白い顔は何か言ってることが分かった。呪いの言葉かとも思ったが、どうやら違うらしい。

「……こっちです」

 消え入りそうな声で呼んでいた。呪いの言葉ではない。私は藁にもすがる思いで、その言葉を信じた。十分に込められているであろう、呪力な何か、人類には分かりかねる力に当てられたのだ。そうでなければ、信じるはずもない。ただ、少なくとも友原よりは信用できそうである。私は恐怖に耐え、壁に向かって走った

 壁にぶつかる直前、なんと、壁がこちらに向かって開いた。単純な話であった。恐怖の光景は、心霊現象でも何でもなく、生徒の一人が扉から顔を出しているだけであったのだ。よく見るとあの幽霊顔にも見覚えがある。

 私と入れ違いに外へ出た顔色悪い生物部員は、なにやら液体物を実行委員に撒いた。怯む実行委員を後目に、彼女は素早く室内に戻って、扉を閉める。乱れた呼吸を整えながら、扉を背もたれにして床に座った。

 実行委員達が罵声を浴びせながら扉を叩く。私達は息を殺して扉を押さえた。やがて、罵声に混じって、少し前に聞いた、不吉な羽音が聞こえて来る。そういえば、蜂は匂いにも敏感だと書いてあった気がする。続いて、悲鳴が聞こえ、扉を叩くものはいなくなった。彼女がにいっと笑っていたのを、私は見逃さなかった。

「行きましたね」

 扉に付いた窓から外を覗いた彼女が呟いた。

「貴方も協力者?」

 私が尋ねると、彼女は再び、腰を下ろした。

「ええ、一応。文化部は殆どが協力者です」

「ここは?」

「生物準備室です」

 彼女が言う通り、準備室には私が追った黒猫以外の生物は一匹もいない。代わりに棚があって、原色の液体が入ったフラスコが陳列されていた。

「虫のフェロモンを化学部と共同で抽出するくらいしか出来なくて」

 十分凄いと思うのは私だけであろうか。しかし、彼女の表情は暗い。

「だから、頑張ってください」

 彼女は生物室に繋がる扉をがりがりやる黒猫を撫でる。

「頑張ります」

 私は生物室への扉を開く。

「ありがとうございました」

 最後に礼を述べた。

「お役に立てて何よりです」

 彼女は楽しそうに笑った。


 細心の注意を払いながら生物室から廊下へ出た。黒猫は颯爽と裏口とは反対方向へ駆け出す。皆、後夜祭に出払っているのか、廊下はおろか、実行本部でさえも、もぬけの殻であった。堂々、本部のある橋を通り抜けて、黒猫は階段へと向かう。

 自分の歩幅に合わない階段を、黒猫は全身を使って上へ上った。私も黒猫を追って階段を上る。毎日のように上っているんだから、黒猫を見失いようもない。猫だけを見つめて、上へ上へ。

 黒猫が疾走を止めたのは、七階であった。踊り場にある、職員室と階段とを区切る出入口の前で、黒猫は歩みを止められた。

「先輩」

 嫌がる猫を抱き抱え、後輩は私を見下ろした。

「お前。何故、ここに」

「ここまでの始末書を届けに来たんです」

「もう一枚、始末書を増やしてやろうか?」

 私は怒りに震えていた。美術部から絵の具を貰い、こいつのふんどしを破廉恥に染めて、後夜祭で火炙りにしてやろうか。それとも、生物部からフェロモン各種を貰い、こいつのふんどしに染みこませ、学校中の昆虫をけしかけてやろうか。

「どうしました。本当に鬼のようですよ?」

「自分のしたことで思い当たることは?」

「そうですね。留置所への入れ方は悪かったと反省してます」

「他には?」

 思い当たらないと言った様子で、後輩は考え始める。呆れた私は、怒りのままに伝えようとして、開いた口から何も出ないことに気が付いた。それもそのはず、彼は私に対して理不尽な仕打ちをしていないのだ。

 私が三毛猫を捕まえてしまった際、彼は証明として手伝うこと要求し、引き替えに猫田さんの様子を調べることを約束した。留置所に私を入れたが、よく考えると、友原の計画を知る学園祭実行委員長として、当然の行いといえば、当然である。無論、私達を追ったのもだ。

 多少、強引であり、利用されてはいるものの、私は彼から理不尽を受けてはいなかった。なんだったら、私が橋から落ちた時は、助言すらしてくれている。 

「が、学園祭を壊すって言ってたろ」

 我ながらよく分からないことを言った。末代までの恥である。このまま行くと私が末代である。畜生。

 私の的の外れた抗議に、目を丸くしていた後輩が高らかに笑った。

「本当に壊すわけ無いじゃないですか」

「え」

 私が驚くから、後輩が更に笑う。笑いたければ笑うが良い。

「当たり前じゃないですか。実行委員長ですよ? それに僕の破壊活動は、もう、終わったんです」

「どういうことだ」

「僕は来年からでも、実行委員が増えればそれで良かったんです」

 彼は私の横に来て踊り場に座った。私も並んで座る。黒猫は諦めたように、委員長の膝の上で丸くなった。

「先輩は少しだけですが実行委員として働いてみてどう思いました?」

「忙しいわな。アルバイトの接客技術がなければ、高校生などにはとても。人手が足りないって言ってたが、その通りだ」

「でしょう。忙しいから、委員会の人数が少ないと思っていたんですけど、違いました。運動部の顧問なんかが、部員に入らないよう強要してるんです」

「それじゃあ、入るかも知れない貴重な人材が削れるじゃないか」

「そうですよ?」

 後輩が悲しそうに声を裏返した。

「なんだって、そんなことを?」

「競技に集中しろって。代わりに費用を多く貰って口止めまでして」

「口止めできてないじゃないか」

「費用を割り振るのは実行委員ですから」

「なるほど」

「どうにか変えようと、先生……長屋の方の先生に頼って、先輩達の計画を利用しながら、自分でも問題を起こしたんです。それで、始末書を沢山出して抗議して来たんですけど……」

「けど?」

「軽く目を通すだけでゴミ箱に」

 私は激怒した。こんなことがあっていいのか。いつも拘束に縛られた生徒達の息抜きでもあろう学園祭。多少、浮かれてしまうのも仕方あるまい。なんたって、祭りなのだから。その浮かれた生徒へ水を差す為の実行委員に水を差して、彼らの気炎を消すなど言語道断である。

 確かに後輩のやり方は間違っていよう。しかし、それならば、教員達の方も間違っている。

「だから、後は、先輩達の作戦の成功を祈るまでです」

 膝で丸くなる黒猫を抱き上げ、後輩は私の膝に乗せた。

「いいのか?」

「ええ。どうせ、ゴミ箱行きの始末書を、もう一枚書けばいいだけですから」

 後輩が悲しそうに遠くを見つめる。

「阿呆か。次の始末書一枚が、学校を変えるんだ」

 私は立ち上がった。

「どうやって友原が何をしようとしているかは知らん。ただ、あいつが学校を変えると言った以上、この学校は変わるよ。あいつは信じられないし、信じたくもない奴だけど、悪戯に関しては信じられるんだ」

 黒猫を踊り場に離す。再び階段を上り始める猫を追う。

「俺達が必ず学校を動かす。だから、お前は先生を動かせ」

 もちろん、私も間違っている。

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