第12話
息苦しさで気が付くと、私は川を仰向けで流れていた。あわや、窒息というところで体をよじる。空には昨日同様、美しいグラデーションが広がっている。
川の中というものは地上よりも暖かかった。単に、服が冷えて寒いだけかもしれないが、砂漠の上より暖かい。その為、水から出ることが出来ないでいた。体も思った通りに動かない。参謀だって、働きすぎで、動けずにいる。このまま流れ続けると、何処にたどり着くかも分からない。気付いたときには海なんてこともあり得る。私は嘗て、ここまで死というものを身直に感じたことがなかった。
しかし、そのまま死ぬことを、私は良しとしなかった。
参謀はお休みであったが、猫田さんへの未練は私の生存本能に火を入れる。恐らく、このまま死んだら、未練で猫田さんに取り憑く幽霊か、妖怪に変貌を遂げてしまう。常に一緒にいられるなら、それもいいかもと思ったが、結ばれないから却下である。およそ、洗練されていないことが瞬時に分かる、大きな音で水面を叩きながら、岸へとにじり寄った。
最早、悪足掻きとも言える泳ぎで進む距離は、自分でも僅かだと思うもので、岸が遠ざかっているように錯覚する。そこへ丁度目覚めた参謀がやって来て、状況を整理した後、恭しく頭を垂れた。意味を問うと、「死んだのでは」などと宣う。これは断じて三途の川では無い。無いはずだ。無いはずだよな。昨日の仕事で、きっと、参謀は疲れているのだ。もう一度、眠るよう、頬を殴って促した。
自分を信じて必死にもがき続けると、腕が遂に岸へぶつかった。何とか肘ぐらいまでを水から岸へと上げると、私はいよいよ本格的に動けなくなってしまった。霞掛かった視界によると、周りには何も無くて、建物が一軒孤立しているくらいである。ほんのもう少しだけ手を伸ばし、体を岸に上げるだけで良いというのに、それが難しい。服は水を吸って重さを増している。腕、というか、全身に力が入らない。流されないようにするだけで精一杯だ。息をしようとすれば、水が鼻に入って痛い。上を向くと、朝日が目に刺さる。良いことが見あたらない。
唯一の救いは、岸の上に猫田さんがいることである。まだ、少し霞んでいるが、彼女であろう。何故、彼女がここにいるかは分からないが、彼女がいることこそが、三途の川で無いことの証明だ。猫田さんは驚いた様子で私へ近づき手を伸ばす。それに対して、私は出来る限り体を彼女から遠ざけた。泥と川で汚れた私などに触れては汚れてしまう。それでもなお、近づいて来る猫田さんは、私の手を掴んで、全身を地上に引き上げた。秋の朝は夜の延長だから、とても寒い。
「大丈夫……じゃ、無さそうですね。待っててください」
そう言う猫田さんの声は、いつもの彼女らしく無い。去っていく彼女の背中を追っていると、孤立した一軒に入っていった。霞が晴れて、改めて見ると、何だか見覚えがある。高校時代から、昨夜に至るまで、大変なお世話になった気がする。そして、戻ってきた猫田さんは、猫田さんではなかった。彼女の着る制服はつい昨日見た気がする。まるで、顔見知りになってしまった女性店員さんである。
「本当に大変ですね」
間違いなく、女性店員さんである。昨日、聞いた声と語調であった。雰囲気がそっくりだとは言え、猫田さんと間違えたことは、生涯に残る失態である。
「良かったらこれ」
差し出されたのは、白い器に入ったスープであった。湯気が立ち上り、旨味を凝縮したような香りが、とても美味しそうである。
「飲めますか?」
体を起こそうとした彼女は私に触れて、反射的に手を引いた。それほどに冷たいらしい。一度、分かってしまえば、覚悟が出来るらしく、彼女はゆっくりと私を起こして、口に器を触れさせる。暖かい。甘い液体が口を通り、喉を通り、確かな感覚として、胃の中に落ちた。鳩尾の下から温度が広がっていく。
「おいしい……」
「それは良かった。唇が紫を越えて青色です。店まで歩けますか?」
「恐らく……」
正直に言ってしまえば自信など無い。だが、何としてでもたどり着かないと死んでしまう。今一度言うが、私は死にたくない。女性店員さんに支えられながら立ち上がろうとすると、店から人影が表れ、左右見回してからこちらに気付いた。
「あ、居た居た。遅かったな」
暢気に手を振った友原は台車を押していた。地面の空き地でもお構いなしに進み、目の前に停車される。店員さんの手助けもあって、何とかよじ登ることが出来た。汚れを気にする友原とは大違いだ。何とか全身を乗せた途端、台車が突如として動き始める。台車とは言え、安全運転など何処かに置いてきてしまった友原の運転では、免許試験なんぞ受けようものなら、門前払いであろう。店の前までに命を手放すところであった。
一度、店内へ戻った猫田さんのような店員さんが、毛布を持って来てくれた。くるまりながら店内に入る。私は物理的にも精神的にも暖かくなった。
ボックス席の一つに陣取っていた友原の目の前に座ると、店員さんがコーヒーを持ってきてくれたので、一口啜る。でないと、死んでしまう。
「ここの人は随分と優しいな」
私が震え声で話すと、友原はさも当然という顔をした。
「そりゃそうでしょ。だって、川に落ちた人が流れ着くんだもん。第二の保健室みたいなもんだ。寒くて死ぬから暖かいものを頼むし、儲けもでる」
「なるほどな」
「知らなかったのかよ。こんな時期に何の勝算もなく川に飛び込んだら、最悪、死ぬぞ?」
自分の悪行を棚に上げて、そんなことを悠々と言ってのけるこいつに熱々のコーヒーをかけられたなら、いかに心が晴れるであろう。ただ、それは道徳を学んだ人間のすることではない。基本的にはあくまで高潔に生きなければ。コーヒーももったいないし。
震えつつも紳士らしく微笑んだ私は、彼の胸ぐらを掴んで軽く引き寄せる。そういえば、道徳は復讐の為に捨てていた。胸ぐらを掴むくらいなら、昨日の同じ頃にもやったし、実に道徳的である。
「全くだ。死ぬところだった」
「まあまあ。落ち付けいて。人が見てるから」
「安心しろ。客は俺たちだけのようだし、そんなに強くは引っ張ってないから、大喧嘩には見えないだろうよ」
「昨日の反省だね」
「そういうことだ」
大きく道を逸れた会話の結果、後々、一発殴って良い権利を獲得し、私は彼を解放した。またもや、美味いスナック棒菓子に騙されかけもしたが、今回はそうもいかない。二人とも、ほぼ同時に席へ座り直した。
「それで、上手くやったのか?」
「もちろん。でもね、本番は当日だ」
「当日?」
「時間も無かったし、ちょっと作戦変更した」
「どんな風に?」
「だから、当日分かる」
私が尋ねると彼は、得意技とも呼べる不穏な笑みを浮かべた。
「学校を変えてやるんだ」
いつもであれば、私は彼の笑みにあまり良い印象を受けないが、この台詞には、悪のカリスマらしく、ついて行ってしまいそうになる何かを感じる。
彼の革命宣言に、私は痺れた。
それからしばらく、車が通りをひっきりなしに往来し始めるまで、店で緩やかな時間を過ごしていると、店の外に見覚えのある制服姿の男達が見えた。警備隊である。暗くても追われても、散々、私に付きまとった男達の制服を見紛うことは無い。友原はともかく、私を追ってきたのであろう。なんて、執念深い奴らだ。そんなことでは、彼女の一人も出来まいに。
「外に警備員がいるぞ」
聞こえないとは思うが、つい、小さく話してしまうというのは、人間の性なのだろうか。友原に耳を近づけさせて話した。
「俺は見つかってないからそのまま出られる」
「私は出れない」
「じゃあ、置いて行こう」
「また、裏切るのか」
「またってなんだよ」
「私を囮にしただろう」
「その件は一発殴るで手を打ったでしょ」
「てめえ」
「冗談だって。それだけの元気があれば行けそうだな」
彼は立ち上がるとお会計へ向かった。私の財布が川の水でどうしようも無いためだ。今のところ唯一の店員さんである、私を助けた彼女が対応する最中、友原が話しかけると、驚いた様子を見せてから首を縦に振った。
「何と言ったんだ」
「大したことじゃない。『絶対に言わないで欲しいんですが、彼は人権もあったもんじゃないところにいたんですが、命辛々に逃げてきたんです。でも、追っ手が来てしまったみたいで。裏口から逃げさせては貰えませんか』って」
「何処が大したことじゃないんだ」
「間違ってはないだろ」
そう言いつつ抱えた彼のリュックは、片側の肩紐の下が荷物を入れる本体から外れてしまっている。背負えないことは無いであろうが、バランスが悪い。本体も初めの大きさを失い、上半分が潰れてしまっていた。彼も警備員と激闘を繰り広げたのかと思ったが、、見つかっていないと言っていた。
「中身はどうした」
「これは作戦通り使っただけ」
要領を得ない回答に首を傾げながら、彼について行くと、従業員以外立ち入り禁止を暗に示す開閉式の間仕切りを越える。
「なんだってお前はこの店に裏口があるとか、どこにあるとかが分かるんだ?」
「俺は悪のカリスマらしいからな。この店には良くお世話になった。何だったら、店長にも顔が利く」
「恐ろしい奴だ」
調理器具の擦れ合う音を聞きながら通路を抜けて、従業員用の裏口から出ると、本当に店の真後ろで、すぐ目の前には、私を救ったとも、苦しめたとも言える川が流れていた。しかし、それ以外は何もない。そうだ、この店は何もない場所に一軒だけ立っているから、隠れ場所も無いではないか。
「どうするんだ。周りに何もないから、見つかってしまうぞ」
「言ったでしょ。何度もお世話になってるって。逃げ方もちゃんと用意してある」
そう言うが早いか、彼は抱えていたリュックを川へ放った。激しい水音を立てて、着水する。友原が外れた肩紐を持っているから、流されもせず、その場でぷかぷかと浮いている。
「何をしているんだ。気でも触れたか」
「そんなわけ無いだろ。俺の悪戯は、逃げるまでが悪戯だ」
遠足のような事を言う友原が「見てろ」というので、リュックを見れば、機械音とともに、段々と膨らみ、ついには、人一人くらいなら乗れそうなボートが現れた。
「なんだこれは」
「悪戯を嗜むものとして、これくらい用意しておかねばな」
私が唖然として呟くと、友原は得意そうに語った。
「川を下れば最寄り駅の近くに出るんだ」
「だが、一人しか乗れそうに無いぞ?」
直後のことであった。
「居たぞ!」
忌まわしき笛の音を轟かせながら、私を追い回す警備員が店の角から顔を出す。何だか、既視感である。
警備員の姿を確認した瞬間、ボートをつなぎ止める紐を私に押しつけた友原は、「ちゃんと回収しろよ」とだけ素早く伝えて、警備員に向かって手を伸ばした。
「助けて! 連れて行かれる!」
「なっ!」
迫真の演技であった。友原の言うことを信じたのか、どうせそうでなくても近づいてくるのだろうが、警備員を前に私は戦略的撤退をする他に無い。校外まで追ってくる学校の警備員とは、如何なる用件なのか。
「お前、覚えてろよ」
負け役怒りを押し殺した私の苦言に、彼は薄く笑う。
「後で礼はするさ」
舌打ちをしながら、私は友原を置いて、軽やかにボートへ飛び乗った。警備員達は私を追おうとするが、友原が絡みつく為、追うに追えない。悔しそうに流れる私と友原を交互に見ていた。
その様子は、私に柄にもない言葉を叫ばせた。
「さらばだ!」
聞こえていないようで、言ってから恥ずかしくなった。
後のことは、殆ど、語るに及ばぬ事であるが、一応、書き記しておく。帰るまでが、ちょっとした私の逃走劇である。
リュックボートに乗って無事に駅までたどり着いた私は、水の滴るリュックを抱えて電車に乗った。これで、もし、服が乾いていなかったらと思うと、恐ろしい。
二日続けての疲労と、座席から伝わる、心地よい相変わらずの揺れに、私は泥のように眠った。仮眠程度の時間とは言え、その疲労回復効果は、決して無碍に出来ないものがある。今なら、何でも盗まれ放題と言うほど、眠りこけた。
自分の最寄り駅に着いた時には、既に、太陽が燦然と輝いていた。幸い、濡れたリュックと、乾いた跡の有る服を来た男から、更に身ぐるみ剥いでやろうという、血も涙もない人でなしは居なかったようで、何一つ無くなった物は無い。私はバスを待ってから、無事に家へと帰宅した。
辿り着くと同時に、冷たい畳へと倒れたのは言うまでもない話である。濡れた友原のリュックは、乾かそうなどと殊勝な考えも浮かばず、玄関に投げたままだ。次の日にでもやろう。
私には悪友が一人いる。主に、私を酷い目に合わせる悪友が。
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