第11話

 ようやく、舗装された道へとたどり着いたのは、会議からもう少し後のことである。段々畑を上り始める為には、一度、一階まで降りなければ行けない。何分、四階近くまで校舎側面より山頂を目指していた所から、再び、一階に戻る必要があったのだ。斜面を殆ど真横に進みつつ、あまり、舗装されている道に近づきすぎてもいけない、絶妙な距離感で道を進んだ。

 本来の舗装されている道を通る時間の、一体、何倍の時間をかけたのであろうか。時間と労力に対して成果が全く見合っていない。割に合わぬ。

 いざ、段々畑へ上ろうという時、問題が発生した。上る手段が無いのである。

 塀を乗り越えられたから、学校の一階分くらい上れるだろうと考えていたが、よく考えれば、そんなはずもない。ここは学校であり、城などではないのだから、教室の天井が、塀なんかより高いのは明白である。

 高くそびえる校舎の壁に私たちは、ほとほと困り果てた。

「どうするんだ」

 小さな声で私が尋ねる。すぐそこの校舎の角を曲がれば、正面玄関なのだから、今まで以上に声量を絞った。友原から返事はない。聞こえていないのかと、顔をのぞき込むと、彼はどうにかしようと思案しているようで、未だ、諦めていない、闘志が見て取れる。目つきが悪のカリスマ時のものであった。

「仕方ない。今回は妥協しよう」

「どうする。急げ」

「ここから別行動だ。待ち合わせ場所だけ決める。下の二十四時間営業の店だ。いいな」

「おい、待て。何をしようというのだ」

 矢継ぎ早に話す友原に、私の中で半ば眠っていた参謀が危険信号を出した。この寒気は登山による汗が冷えたからだけでは無いだろう。

「安心しろ。お前がすることは、たった一つだ」

 たくらみを称えた笑みの後、友原は確実に見つかるであろう声を出した。

「誰か! 不審者だ!」

 やはり。

 校舎の角から顔が表れ、懐中電灯を向けられる。既に友原の影はなく、影か本体か分からない、私だけが光の中に残されていた。

「こんな時間に真っ黒な格好とは間違いない!」

「いや、私は……」

「話は中で聞こうか」

 問答無用で警備員が近づいて来るので、思わず後ずさりしてしまう。それを私が逃げようとしていると捉えた彼は、私へ向かって突進してきた。逃げるのが先か、追うのが先かという、全逃走者の問題は解決していない。ただ、不審者と認定された私は、追われるので、逃げるほか有るまい。

 私の逃走劇が始まった。


 警備員に追われるまま、舗装された校舎横の登山道を駆け上がった。

 背後の彼はホイッスルを鳴らしながら私を追う。夜中に笛を鳴らすと如何なる災害が身に降りかかるか、彼は知らないのであろうか。次々に膨れる増援とともに、追ってくる様子は、一つの生き物のようでもある。

 この道は、如何なる嗜好か、体力、筋力、精神力やら、力という力を使う。舗装されているのに、突然、地面に飛び石を置いただけの場所がある。舗装できなかった亀裂を乗り越えるべく、丸太をそのまま渡しただけの橋がある。崩落した足場の代わりに、真上の木に巻かれたロープで越える。こんな所を通れるのは、日々、体育で乗り越えた在校生か、もしくは、障害物を乗り越えるテレビ番組の選手くらいの者であろう。次第に追ってくる生き物が悲鳴を上げながら段々と体を崩していく。これなら、逃げられるかもしれない。

 しかし、この正気を失っているとしか思えない道もいつまでも続くわけではない。最後に立ちはだかる、角度、段数、一段の大きさ、その全てが我々の為には作られていない階段を駆け上る。一瞬だけ、背後を見ると、巨大であった生き物は、その身を半分まで削っていた。上々だ。その一方で、付いて来られる者が居ることに、戦慄している自分も居た。

 登り切ったら小道がある。この道を校舎側に曲がれば、裏口があり、反対側に曲がると、私は行ったことが無いから分からない。また、小道のすぐ横には裏口の方向から、未知の領域へと川が流れている。山なのだから、川の一つや二つ、合って当然だろう。対岸には広い運動場が広がっている。ただ、川幅が異常に広い為、運動場へ渡るには、基本的に裏口から更に進んだところにある橋を渡ることになる。折りたたみのゴムボートでも有れば別かもしれないが、そんなものを持っているはずもない。

 つまり、選択肢は三つ有る。校舎に沿って、裏口へ向かうか。見たこともない景色を求めて、反対側へ駆け出すか。意を決して、川へと身を踊らせるか。

 瞬時に私は、可能性の低い選択肢を消す。裏口には警備員がいる。未知の先は行き止まりの可能性がある。汗が流れて丁度いいと言うものだ。服もそのまま私は川に飛び込んだ。

 衣服を着用したまま水の中を泳ぐことは、実に大変である。その点において、我々は登校中にこの川に落ちて、朝から制服を濡らすことが有るため、自主的な訓練がなされている。夏場はまだ良いのだが、冬は生死に関わる。水の中から出ようものなら、その瞬間から、服は凍り初め、唇を青くして震えることを覚悟するが良い。冬の保健室は解凍作業で、我慢大会のような熱気に包まれるというが、親の圧力を思い出さないよう、保健室を避けた続けた私には、本当のことなど知りようもないことだ。

 無論、秋であっても、この川には注意が必要である。冷たいのはもちろん、何より、流れが速い。かつて、温水プールが壊れた際に代用しようと目論んだ教師が、油断した瞬間、流れていった。これなら、後続の警備員達も、追っては来れぬだろう。押し流そうとする川を掴んでは、必死に逆らい、負けてもただでは負けまいと前へ進み、自然の理に逆らい続けた。我が家の泥鰌達に出来て、私に出来ないはずがない。

 どうにか対岸に触れて、これ以上流されないよう、早々に陸地へ上がって、後ろを振り返ると、笛の音も、懐中電灯の光も、何処にも見えなかった。とりあえずは振り切ったようだ。

 ひとまず、安堵し、より確実に警備員から逃げるべく、前を向けば、それほど流されずに済んだようで、広大な運動場が広がっていた。運動場と聞いて、読者諸君が如何なるものを想像をするかは分からぬことだが、恐らく、それではない。言い切ってしまって、差し支えなかろう。私が経験してきた中で、この学校以外で、見たことがない運動場である。

 我が母校が誇る正式な運動施設の内、この場所だけは、かの運動部員達にも忌み嫌われ、皆に「砂漠」と呼ばれて畏れられていた。正式名称を深土運動場と言い、天然運動場科土砂属の設備である。その生態は、基本的に、晴れの日、砂煙を巻き上げて、全身を土色に染め、雨の日、沼地となって、靴下に二度と落ちぬ汚れを刻む。褒める箇所が一つも見あたらない。もしも、同じものを想像していたら、私と同窓生か、この学校に来たことのあるものではないか。違ったら済まない。非礼を詫びよう。

 砂漠というと、誰しも暑いであったり、熱いであったり、とにかく、焼けるようなものを想像かと思うが、実の所、常に熱い奴らではない。昼間は確かに熱い奴らだが、夜は、何があったのか、思わず心配してしまうほど冷え切ってしまう。

 それは、我が母校の砂漠もそうである。特に冬へ向かっている影響もあるのか、猛烈に寒い。水に浸った服が端から音を立てて凍っていく。足の感覚は無くなって、砂漠の小さな窪みに躓いた。全身、砂にまみれて、目にも入って痛い。目薬では無いのかと、怒った目が役割を放棄して、私は暗闇に閉ざされた。

 ただ、そんなことに、構ってなど居られない。あの登山道を私に付いて走れる強者警備隊のことだ。いつ、どのような手段を用いて、やってくるかもわからぬ。這ってでも前に進まなければ。

 冷たい地面なんぞに体を押しつけているから、より凍る。方向もわからない。文字通り手探りで前へ進んでいると、仕事を放棄した眼球が瞼を越えた光を感知した。警備員の笛の音とともに、足音も聞こえる。無理に働かせようと、眼球の意志を無視した大脳参謀の支持によって、僅かに開いた瞼の間から、景色を拾う。川の向こう側から警備隊が懐中電灯を向けていた。

「おい、大丈夫か」

 そして、私は背後から押さえられた。というより、抱え起こされたようだ。話し声は殆ど聞こえない。砂漠には少数精鋭で来たようだ。

 各部からの情報収集の結果、大脳参謀は現在までの経緯を導き出す。彼が言うには、警備隊は迂回をし、その間、私は手探りで進むうちに、川の方へと戻ってしまったとのことであった。詰まるところ、彼らが来るまで、私が時間稼ぎをしてしまったということになる。見るに耐えない。眼球も仕事放棄したくなるというものだ。

 しかし、大変優秀な我が参謀は、そこで諦めるような、柔な参謀ではない。嘗て、神童の右腕を担っただけはある。この場合の解決策を三つも提示してくれた。

 一つ目は、素直に投降することである。

 これでは、犯罪の言い逃れは出来ないし、ほぼ間違いなく、刑務所送りだ。参謀曰く、全ての罪を認めて、贖罪するべきでは無いかという。そんなことをしていては、彼女と私の差は縮められないばかりか、完全に交流は途絶える。

 自主断交など一番あり得ぬと、参謀の目の前で、作戦資料を跡形も無く引き裂いた。

 続いては、友原を犠牲にするというものだ。

 警備員達の人数から推測するに、校舎自体の警備は、薄くなっていると思われる。そこで私が計画のあらましを伝えようものなら、警備隊の注意は逸らせるはずだ。その隙に逃げるもよし。仮に注意を逸らせなくても、あわよくば、司法取引のように減刑されるやも知れぬ。取引に使うもよし。友原は私を囮にしたのだから、今度は私が彼をどうにかしても、何も言えないはずだ。

 ただ、この作戦には、大きな欠点もある。既に友原が捕まっていた場合が。その場合、詳しい作戦も知らない私は、全くの役立たずであり、注意も逸らせないし、取引もできない。悪のカリスマたる彼をして、捕まるなんてことは、まずあり得ないと思うものの、万が一の可能性としてある以上、そう、易々とは、実行できない。

 何より、友原は私の親友なのだ。あいつは私を売り飛ばしたが。参謀との協議の結果、本作戦は保留として、会議机に置かれた。

 最後に参謀が気乗りしない様子で差し出して来た作戦を読んだ私は、机の友原犠牲書を直ぐさま破り捨てた。最も、危険の高い作戦ではあるが、これなら、二人とも犠牲にならなくて済む。これしかない。

 ここまでの脳内会議で、どれだけ時間が過ぎたかは、昨晩から、寒さにさらされてばかりで、体内時計が凍り付いてしまっている為、分かりようもない。まだ、取り押さえられたばかりのような気もするし、既に引き連られているような気もする。少なくとも、砂漠にいて川が見えていることだけは間違いない。

 参謀との作戦を実行すべく、私は、渾身の力を以て口笛を吹いた。凍えているせいで音は掠れてしまい、口笛とは呼べない、すきま風の音であった。その行動は警備隊の皆様には、大変、奇異に見えたらしく、私を掴んでいる男が尋ねて来る。

「何をしている」

 裏の意味として制止命令を含んだ警備の言葉にも負けじと、私は無我夢中に口笛を吹き続ける。その内、どうしようも無いと判断されたらしい。彼は笛を鳴らして応援を呼んだ。それは私にとって、好都合であった。

 しばらくすると、私達を照らしていた光の一つが砂漠を舐めて、悲鳴が上がった。私を照らす光のいくつかが、初めの光と合流する。

 遠くて良く見えないが、光は川縁を照らしていて、黒々としたものが川のようにうねりを作っていた。光が分かれて黒い川の先頭と、起点となる川縁を照らす。勢いは止まることを知らず、速度そのままにあふれ続けて、こちらへ向かってきた。

 正体に気付いているらしい、川の向こう側では、慌ててこちらに何かを伝えようとしているのだが、統制がとれていないから、情報が混乱している。川向こうに聞き返すが結局分からない警備員も、向かってくるから私の体を掴んで逃げ出す。

「夜に笛なんか鳴らすからだ」

 黒い川について、大凡、見当が付いていた私は、警備員に向かって皮肉を言った。

 寒さで震えていたが、聞き取れたらしい。警備員も警備員で走っていたから、相当に聞きづらいながら、私に不満をぶつける。

「関係、ない、だろ!」

 その間にも黒い川は迫ってきていて、ついに、私達を飲み込んだ。流れは私達の体を覆い、進入した服の中を這い回る。先を行く警備員達からは悲鳴が上がって、私を掴んでいた手も離される。

 黒い川の正体は、蛇の大群であった。

 夜中、口笛を吹くと、蛇がやってくるという話を聞いたことがあるだろうか。

 ご近所迷惑になるから躾として広まったと言うが、私が聞いたところによると、本当であるらしい。ある国では笛で蛇を操る人間が居るくらいだ。蛇にそのような生態があっても文句はない。全てはどこかの細長いものについてなら、いくらでも話を脱線させることが特技のような小学校教師が言っていた。修学旅行中に教えられたものだから、皆、試さずにはいられない。夜半、窓をめがけて飛び立つ、群れなした蛇には恐怖した。

 参謀の第三案は蛇を呼んで、警備員の隙を付くと言うものであった。上手くいったようで、隙を付くどころか、警備員達が遠く流されていく。私は冷たいから蛇の動きが鈍るのやもしれない。

 もしも、蛇がいなかったら、蛇が来なかったら、蛇が毒を持っていたら、警備員が蛇に強かったら、警備員の足が速かったら。最も色々な意味で危険性の高い賭であったが、今回は蛇の住処である川が近いということと、警備員が少数精鋭なんかで来てくれたお陰で、上手くいったようだ。ご都合主義も良いところだが、今は自らの幸運に感謝をしよう。

 ただ、この作戦には、ここから先が書かれていない。強いて言うなら、流れに身を任せろとだけ書いてある。

 私は指示通り、嗜好を放棄した。決して、内からこみ上げる寒さと、まとわりつく蛇の冷たさで、意識を手離してしまった訳ではない。

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