三章『自分と部屋、病走』
第13話
風邪というものは、実に厄介だ。
学校、仕事を休みたい時位にしか、誰からも好かれないであろう、彼らに襲われなら、地獄の苦痛を覚悟するが良い。合戦と呼んでしかるべき戦いが、愛すべき体内で繰り広げられるのだ。
寒空の下、何処からともなく大量に現れた細菌、黴菌、病原体は、いつの間にか体内へ潜り込む。そして、気づかれないよう、それぞれが工夫を成した方法で着実に仲間を増やし、体に立ち向かう程の軍となった途端、潜伏した主へ牙を向き始める。一宿一飯どころか、何宿も何飯も食わせてやって居るであろうに、恩を仇で返すとは、正しく、このことだ。
誰もが頭に一人は雇っているであろう大脳参謀は、討ち入りの知らせを受けると、黴菌軍を滅ぼそうと、勇ましく、かつ迅速に各所へ指揮を振るう。咳くしゃみ砲による体外への排出、発熱による焼き討ち、免疫軍による一斉攻撃など、持ちうる防衛手段を十二分に使って、素早い排除、殲滅を行うのだ。参謀の的確な指揮は効率よく敵勢力を無力化するのに必要不可欠であり、大変頼りになる。ただ、それは裏を返すと、参謀無くして黴菌軍と戦うのは、少し、無茶があるということだ。つまり、風邪合戦の最中、参謀に休みはない。本来の休息である睡眠中も、参謀はひっきりなしに働いているのだ。だから、少しは参謀が発する痛みを伴う叫びであったり、夢の中に影響する妄言も許してあげて欲しい。私は許さないが。
不覚にも私は風邪を引いてしまったらしい。
基本的に体が丈夫で有る為、日々の対策も講じていなかった上に、逃走の疲労から玄関で眠りに落ちるという失態。その結果が、部屋の中央、敷かれた薄い布団の上で、ただ衰弱していくだけの、うら若き青年の有様である。
アルバイト先に迷惑をかけるのはまだ良いとして、数多あるやりたいことの一つも出来なくなってしまうというのは、非常に困り物であった。何か良い発想が浮かんで、執筆に取りかかろうにも、参謀が強制的に私を布団に戻すし、食事を取ろうと立ち上がろうにも、参謀が体を押さえつける。
無論、猫田さんと逢い引きの一つも出来やしなくなってしまう。いや、全く、厄介なものだ。連絡が怖いわけでは決して無く、今回に限っては風邪のせいである。
高熱によって体力も無いし、ひたすら寝ているのというに元気も出ない。そんなことだから、殆ど、買い出しにも出られず、食料も最低限度しか無い。あるものといえば、有効に使えず、腐っていく時間くらいのものだ。腐ってしまった物はどうにも出来ないけれど、私だって、望んで腐敗させている訳ではない。だから、同じく菌に食われる運命であるならば、少しでも、腐敗ではなく、発酵させようと、出来る限り勤めてはいた。
眠るのにもやたらと体力を使うし、あまり寝ていると、体が睡眠を拒否し始める。それでも、体は動かないから、私は再び眠りに落ちるまでの間は、時間を発酵させるべく、物思いに耽ることにしていた。しかし、頭も参謀が激務の為、正常に働かない。そこへ参謀の妄言なんかも加わるから、始めに考えていたこと等、最終的には何処に行き着くかも分かったものでは無かった。そして、そのことに気づく度、別の議題へと移っていく。そんな不毛なことを永遠と繰り返しているから、途中までは発酵していた時間も、いつの間にやら腐敗へ落ちて、過程で発生した熱を布団に供給するだけとなっていた。
主な思案は十中、七個が猫田さんとの逢い引きであり、二個が彼女宛の物語。残りの一個は、目に入った何かしらである。始まりだけなら実に生産的だ。
二人でダーツに行くと、最終的な目標であれど、的に向かってダートを永遠と投げ続けるのもどうかと思う。そこで私は完璧な計画を密かに練り続けていた。非の打ち所が無く、確実に私と彼女の仲が進展するであろうものが出来たなら、中々、沸いてこない連絡する勇気も温泉が如く、懇々と沸き出るであろう。最早、練りすぎてあんこのようだが、最終的に素晴らしい和菓子にでもなれば、それはそれで良いではないか。
あんこと言えば、食事はどうしよう。朝から集合すれば、確実に昼食を。昼以降であっても、夕食をともにするかもしれない。その際、自然な流れで彼女の好きな料理の名店にでも連れていけたなら、「彼とは好みが似ているかも」と思われるはずだ。更にそこで私が、「大好物なんだ」等と言えば、味覚の合う合わないに置いては、今度とも問題にされないであろう。
その為には、彼女のもっとも好きな食べ物を知る必要があった。私の知る限り、彼女の情報は中学校で止まっている。当時は、鶏肉が好きと言っていたが、何年前の話だというのだ。今や、お酒も飲める女性と呼ぶべき年齢である。人の好物なんて、ものの数年で変わってしまうのだから、改めて、現在の彼女を知る必要性がある。
にも関わらず、私にはその手段がない。いや、手段はある。いくつかある。あるにはあるが、どれにも、問題もある。
例えば、彼女に直接聞いたとしよう。これで分かるとおり、始めから論外である。好みが似ているかもと錯覚させようというのに、直接聞いてどうする。それに、連絡出来るなら、計画作りに苦労はしていない。論理的に考えろ。
では、共通の友人を頼ろうものなら、友原に頭を垂れなければいけない。彼であれば、猫田さんとの交友関係も良好であり、私には思いも付かないような手腕を以てして、いとも容易く彼女の好物を掴んで来るであろう。何だかそれは癪に障る。あいつにだけは頭を垂れたくない。恋の応援は嬉しいが、本格的な手伝いとなるとまた少し違うのだ。私の誇りが許さない。
かといって、数少ない他の友人知人に頼るのも良しとしない。察しの悪い無粋な同輩逹でも、一発で私の恋心を見抜くであろう。そんなことになろうものなら、一瞬にして、噂は広まり、遂には猫田さん自身の耳にも届いてしまう。結果、直接、好物を教えてくれるかもしれないが、それでは結局、元の木阿弥である。仮に、同輩達が筋金入りの無粋者であり、私の恋心に気づかなかったとしても、自分で聞けと断れるか、やはり、彼ら自身が直接聞いて、彼女に伝わってから、私に答えが返ってくる。阿呆か。
だったら、いっそ、私の好物を彼女に食べてもらうというのはどうであろう。私が彼女の好きな食べ物を知らないように、彼女もまた、私の好きな食べ物を知らないはずだ。これを機に、知って貰うというもの、良いのではないか。
いや、そんなはずは無い。
読者諸君も考えて欲しい。突然、「少し仲が良いかな?」と、疑問符が付くような関係の成人の男性から、「私はこれが好きなんだ。君にも知って貰いたくて」等と、茶目っ気たっぷりに言われたらどうだ。相当に気持ちが悪いではないか。ド変態の所行である。もし、そんなことは無いと言い切れる人間が居るなら、私に好感を抱いている可能性がある。是非ともお友達になって頂きたい。
それに、彼女が私の好物を好きでない、最悪、苦手であった場合、私は如何なる対応をすればよいと言うのだ。まず、間違いなく、食の方向性の違いで、恋愛には至らぬであろう。目も当てられない。
第一、私の好物とは何なのだ。昔から食への拘りが極端に希薄ではないか。根本から破綻している。恥を知れ。
八方塞がりとは、このことであった。
あれやこれや、解決策を一つ出す度、暴言に近い批評をしていたら、遂に大脳参謀が仕事の邪魔をするなと、私を議場から叩き出した。我ながら酷い奴である。彼女の逢い引きに頭を捻る他に何を優先するというのか。
暗い議場外の廊下で、理由を考える。朦朧とする頭が思案を妨害してくるが、火照った顔に手を当て、私は風邪であることを思い出した。どうも顔が熱いのは、恋のせいかと思っていたが、そうでは無いらしい。確かに、優先すべきことである。しかし、少しくらい話を聞いてくれたっていいではないか。
自分の相手にも余談の一つも許せぬ、器の小さな参謀を頭に宿す私は、他人の話を聞くこと出来るのか、途端に心配になった。
彼女とダーツ逢い引き当日になったとしたら、一緒に道を歩く時であったり、つい今し方まで思案に明け暮れるに至った食事中、私は彼女と一体、何を話せばよいと言うのであろう。
会話とは基本的にお互いの共通項から成り立っている。例えば、日常過ごしている限りは接点が無さそうであるが、唯一、同じものを趣味に持つ人間が二人居たとしよう。恐らく、彼ら間には、共通項たる趣味の会話しか無くなるはずだ。もしも、片方がもう片方の他の趣味に興味を抱いていたとすれば、そうもなら無いだろうが、接点の無さそうな二人では、大凡、同じ趣味について深く語ることになるだろう。また、お互いの共通項に対して、どれだけ、深く浸かっているかにもよって、会話の弾み具合というものが、大きく変わってくる。今日の天気について、熱く語れる人間と、私は仲良く話せる自信が無い。相槌くらいしか打てないであろう。そう言うことである。
今のところ、私と彼女の共通項は、物語とダーツ、友原の悪行、及び、中学校までの記憶だ。以外と、四つも有ったが、この内、まともに使えるものは、後ろの二つのみである。
新しい物語は出来ていないし、書き掛けては机の隅に放った物語未満の何かは、彼女に話すに値しない。ダーツに関しても、あくまで彼女と偶然会うために働き始めたのであって、別に上手いわけではないし、さしたる興味が有るわけでもない。
となると、友原の悪行の数々と、中学校までの記憶に花を咲かせることになる。
なんて、心許ない。
友原の悪行は大方、彼女も知っていることであろう。彼の近くにいる人間であれば、何かしらの情報経路を通って耳に入ってくる。どうやったって噂になるから仕方がない。彼について話せと言うなら、いくらでも私にしてきた悪行の数々を語って見せよう。それだけのことを、彼は私にしてきたのだ。ただ、人の悪口で間を持たせることを、私の良心が良しとするかと言えば、そんなはずもなかった。中学校の記憶も同様になるであろう。気づけば友原の話に陥り、彼を貶すことになる。それ程までに、悪のカリスマのカリスマぶりは、強い影響力を及ぼすのだ。
であれば、共通項を諦め、私が彼女と離れてから経験してきた、高校以降について話すとする。一体、何を語れと言うのだ。
高校時代は基本的に語りたくない。有る程度は誇れたはずの成績も落ちて、勉学であったり、身体能力であったり、破廉恥であったり、何かしらを鼻にかけて他者を見下す他人に囲まれ、私は道徳の盾をとって彼らを見下す。そんなだから、何処にも属せず、あぶれ者がたどり着く、私一人しかいない場所から、彼らの理不尽に耐えるだけの数年間であった。後は、時々、友原の悪戯に耐えたのみである。そんなことを語ったって、彼女がとても喜ぶとは思えない。
アルバイトも語れと言えば語れよう。しかし、話は違えど、込められた思いは同じである。飲み物や料理を作っては、お客様の元へ提供し、清掃や受付業務を無心でこなし、正当な苦情を受け止めつつ、理不尽な苦情を内心で馬鹿にする。先輩後輩との折り合いも大変良好というわけでもなく、悪いわけでもない。店長の機嫌を損ねぬよう、太鼓持ちに徹する。殆ど同じ日々を繰り返す永久機関と化しているのだ。何の面白味もない。つい最近あった面白いこと件には彼女も居合わせていたから、語りようもない。
きっと、何回も女を泣かせるような、不埒で不潔で誠実さの欠片も感じられない、私とは全く反対の、破廉恥の権化たる好色漢であれば、その二つどころか一つもいらぬと、話を存分に弾ませるのだろう。ただ、論理的展開を以て、真逆の私にはそんなことが出来ないと帰結する。私にそんな力が有るなら、誰も見舞いに来ず、一人で布団に横たわっている今も無いはずだ。
なにゆえ、私の元には誰一人として見舞いに来ないのであろう。
休んでしまっているからには、アルバイト先の人間なら知っているはずだ。何だったら、動けないからリュックは自分で取りに来いと連絡した為、友原も知っているはずである。しかし、今のところ、誰一人として、私の元を尋ねてくる人間は居なかった。なんたる薄情者達であろう。そんな薄情者達は良いから、猫田さんに来て欲しいものである。私の状況を知るはずもないから、そんなこと、万が一にも無いのだろうが。
それに、話は戻るが、彼女が来てしまったとして、私はどのようにすればよいのだろう。話など出来ぬし、見舞うというなら、礼儀やなんだを考えようも有るだろうが、見舞われる方は、一体、どうすれば良いというのだ。お茶はあるが、菓子も出せぬ。
改めて、風邪など引いたのは何時ぶりだろうと考えてみると、どうやら、中学校以来で有るらしい。もし、同じ周期で風邪を引いているのなら、今のところ片手で数えられる程度しか風邪を引いていないようだ。流石の丈夫さである。
当時、私は如何にして風邪を退治したのであろう。何かを飲んだ記憶だけはある。
まず、言えるのは、薬ではない。父が医師であるから、風邪薬を処方されたはずなのだが、錠剤やら、粉薬やら、液薬やら、処方されすぎて、体が全てを拒否した気がする。人工的な口に残る独特な苦味に耐えかねたのだ。基本的に薬なんて飲まない人生であったから、上手く飲めなかったのである。
しかしながら、こうして私が思い出している今があるということは、何かしらを飲んで治したはずだ。一体、何を飲んだのであろう。
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