第9話

 最寄り駅から我が六畳一間は、歩いてもそう時間がかかる場所ではない。ただ、身の疲れから、歩みはまさしく牛歩と呼ぶものであり、たどり着いた頃には、空からグラデーションが消えて、薄い天色、一色となっていた。

「おや、泥鰌。餌を上げよう」

「スナック菓子はやめろ」

「お邪魔します」

「自覚しているなら帰れ」

 私が扉を開けるそばから、我が家へ押し入った友原は、玄関に生息する泥鰌達にスナック棒を砕いて入れた。少し水槽を突いて遊んだ後、彼は順番が逆の挨拶をしながら部屋に押し入る。中央に胡座で陣取り、万能ポケットから、何やら、いくつかのものを広げていく。

「嫌だね。ここは友原家の所有物だ」

「ここがお前の家、所有でなければ借りたりしなかったというのに」

「なら、もっと割高のお部屋に住むと良いさ」

 呻くことしか出来ない私に向かって、友原は得意げな顔でこちらを見てきた。実に憎々しい。こういった大人な事情からも、友原との縁は腐っていても切れないのである。

 軽口を交わしながらにコップを二つ用意し、冷蔵庫で程良く冷えたお茶と、蛇口から汲みたて鮮度抜群の水道水を注いで畳へを置いた。

「畳が腐るぞ?」

「だったら、この上に置かせろ」

 友原が広げた紙製の何やらの上にコップを置き換え、それらを挟む形で彼の目の前に腰を下ろした。無論、友原の近くにあるコップが、透明度を誇るようにしている。

 友原の何やらは何処かの地図のようで、見たことがあるような気もする。等高線が引かれているから、恐らくは山であろう。中腹から山頂近くには建物が作られている。

「何なのだ、これは」

「高校の地図」

 そうだ。これは、つい少し前まで私が夜を明かした、母校の地図ではないか。

 大凡、どの学校も目指しているが、達成出来る人など、教師も含めて極一部であるから大々的には言わないけれど、実の所、暗に校訓としている『文武両道』なんてほとんど幻の四字熟語を、我らが母校は漏れないどころか、そこに道徳を足すため、両の一文字を抜いた『文武道』を校訓としている。この原因は、直接会ったこともない創設者が武芸によって、道徳を学んだ為というが、真偽の程は定かでない。そんな創設者の理念を継ぐべく、長い歴史において、校長は体育会系の人間が多いのだが、どこをどうはき違えてしまったのか、段々と校長の方針は、「運動すれば道徳も学べる」に変わってしまい、それを正当化する校訓が手を組んだらどうなるかというと、運動系の部活に種類が豊富で人数も多くなり、いくつもの運動場やら専門的設備やらも完備されることになる。

 そのため、山頂から始まった小さな高校の敷地は、増設に増設を重ねて、いつしか、山一つ分にもなったという。その話を聞いた時、私は西ヨーロッパにある世界規模で認めらた遺産の修道院を思い出したものである。

 そんな修道院を友原はどうしようというのか。

「お前がいたのはここだろ」

 友原が用意していた何やらの内、私の似顔絵と思われるものが、適当に描かれた碁石を校門に当たる箇所へ置いた。

「そうだ」

「やはり。俺はこっちにいた」

 美化しすぎて最早原型をとどめていないが、友原自身と思われる似顔絵の碁石を校門とは校舎を越えて、真反対の山の麓に置いた。そこには確かに道があり、校舎へと続いている。

「なんだそこは」

「あの学校、最寄り駅がいくつかあるだろ。俺はいつも、こっちから帰ってたからこっちにいたんだ」

 なるほど。そういえば、そんな話もあった気がする。

「そういうことなら、猫田さんには言わないでおこう」

「当然だ」

「ただし!」

 唐突に大きな声を上げて、友原が私を指さしてきた。

「今夜、もう一度付き合え」

「待て、何だってそうなる。いつもの悪戯にしても、お前が固執するなんて珍しいだろ。何がしたいんだ」

 私の必死の抵抗に、彼は不穏な笑みを浮かべた。

「聞いたら、共犯だぞ?」

 その一言によって、友原の浮かべている不穏な笑みには、これから起こそうということが、確実に危険であることを保証する箔が付いた。

 正直に言ってしまえば、私は今すぐにでも逃げだし、家で震えていたい所なのだが、彼には私を強制的に手伝わせることを可能にする鬼札を持っている。それに、ここが家であるから、逃げることは出来なかった。

「どうせ、手伝わされるんだ。聞かない方が怖い」

「流石、兄さん!」

 言うが早いか、友原は加えて数種類の地図を用意した。やはり、端から引き込むつもりではないか。

 今度の地図は、先程のような学校を大きく上から描いたものではなく、もっと近づいて、施設から施設へ移動出来る道が描かれたものと、更に近づいて、校舎と施設の内部構造の地図であった。

「こんなものどうするのだ。悪戯しようも無いだろ」

「残念ながら今回は悪戯じゃない」

「じゃあ、なんだ」

「復讐だ」

 説明前にもう一度不穏に笑う彼に、私は選択を間違えたのではないかと身震いした。


 既に触れたように、我らが母校は進学校という割には、運動に力を入れ、というより、力を入れすぎて全力を出しているきらいがある。その全力は、施設だけに限った話ではない。なんと、武芸たる体育が他の学校より多いらしく、放課後は多くの生徒が運動部に所属しているから、授業外で武芸に磨きが掛かるようになっている。

 それでも校訓によって『文武道』を極めたいらしいので、毎日、文事たる時間と密度が見合っていない授業で、みっちりと埋め尽くされていた一日を生徒に要求し、定期的に自主参加制の、道徳的な海外映画を字幕上映会を開くので、言語学と申し訳程度の道徳が学べてしまう。生徒に自由を与えず、考える隙も与えない。実に人道的な学校であった。

 ただ、全員が全員『文』も『武』も『道』も極ることを望むと思ったら大間違いだ。であれば、私のような武芸から遠く離れて、今や、大気圏を突破しそうな人間はいないであろうし、道徳の道から進んで外れ、徳など掃いて捨てる友原のような奴がいるはずない。二兎を追うものなんとやらというが、三兎も追えるはずはないのだ。

 結果、大体の生徒は文事か武芸のどちらかに傾いて、知識を付けて知恵をつけない自分は頭が良いと思いこむ文事に傾いた馬鹿と、運動部という一大勢力に含まれることで自分は偉いと思いこむ阿呆が量産される。中には文武両道を行く生徒もいたが、残念ながら道徳は持ち合わせていないので、どちらかに傾いている馬鹿と阿呆より質の悪い畜生だ。前者は自力で高難度の大学に進むし、後者は運動によって推薦を勝ち取って同じく名の通る大学へと進学し、両方を併せ持った輩もどちらかで大学へ行く。

 運動に主軸を置きながらに進学校として有名を馳せるているのは、こんな仕組みがあったのだ。

 進学校とは、一体何だったのであろう。我が中学が信じ、母も信じたその有名は、一体、如何なる光を放っていたのであろう。私のような、全員が全員、自分が偉いと思って人を見下す、半紙よりも薄い誇りも持っているおかげで、それを反面教師に、校訓の中で最も重要であろう、道徳を学んだ、最も高潔な人間が、何処にも行けぬことこそが、その仕組みの間違っている証明である。

 友原もその壊れた仕組みについては、常々懐疑的であった。自分から校訓の全てを逆へ進む人間であるから、彼は卒業できただけでも奇跡なのだが、自慢の悪戯による反抗も空しく、私と同じく理不尽に見下されたことは同じであり、彼はその復讐を学校全体に向かってしようという。道徳の欠片もない。

 しかし、よく考えれば、私も理不尽な彼らと方向が違うだけで、同じく薄っぺらな誇りによって、気付かれぬように見下してきた者である。彼らの薄い誇りを憎めばこそ、今の生活の一部が有るのではなかったか。自分の憎む相手が、自分の中にもいる矛盾に、私は気が付いてしまった。

 今こそ、道徳も捨てて、友原と同じ道に落ちる時である。私は私を憎んで生きていきたくなど無い。持たざる者だけが、持つ者を下すことが出来る。

 悪しき母校の伝統に名を残すのだ。

「具体的に何をしようというのだ」

「これだ」

 友原は万能ポケットより、一冊のパンフレットを取り出す。数年前に行われた、高校の学園祭パンフレットであった。我々の母校の学園祭は、全国でも、恐ろしくつまらないことに定評があり、あまり良い思い出がない。

「今、準備期間中でしょ。その資金を盗みます」

 平然と言ってのける友原の言葉は紛れもなく犯罪行為であり、いつもの悪戯の延長を考えていた私にとって、軽々と予想を越えて、道徳を守ってきた故に、理解が後から追ってきた。

「思いっきり犯罪ではないか」

 未だうら若き私は、猫田さんと結ばれることを筆頭に、やりたいことで、部屋が埋め尽くされている。国家権力にお世話になっている暇など無いため、私は犯罪行為を酷く畏れた。

「そんなこと言ったら、夜の校舎に入るだけで犯罪だ。それに何も俺たちの懐に入る訳じゃない」

「じゃあ、どうするのだ」

「適正に還元する」

 彼の言葉には、私も同意するほか無かった。


 学園祭が散々たる主な原因も、校長による運動部優遇にある。

 費用は出し物によって変わってくるため、適正金額がクラスと部活ごとに、教職員の間で協議されるはずだ。私の高校においてもそれは変わらないが、何分、内約がおかしい。

 運動部の展示は当日、模擬試合をすることで、基本的に宣伝の散らしをするのみで済む。だというのに、配給される費用は、どれだけ散らし刷れば使い切れるのか疑いたくなる金額であった。仮に、本当に全てが散らしに回ったとしたら、確実に資源の無駄であり地球の敵だ。

 では、準備期間中の運動部が何をするかというと、散らし作りと日課の練習以外は、クラス毎に決められた企画の準備に当たる。またの名を、クラス内運動部勢力戦争企画という。クラスで最も発言力、及び、人数の多い運動部が主導となる企画であり、大体、似たり寄ったりの企画が並び、負けた者達は「皆で決めたこと」を合い言葉に、従わなければならない。それが飲食店やお化け屋敷であれば、まだ、賑わうかもしれないが、飲食店は申請やら届け出、お化け屋敷は痴漢問題が起きると、学校側が渋るので、結局、椅子が置かれているくらい休憩所か、何処かで見たような研究発表で企画が進む。そんなだから、予算があまって、内装が混沌となってしまって、休憩所は入れば疲れるし、研究は主題が分からない。

 要するに、食べて不快な闇鍋のようなのだ。

 この闇鍋学園祭の予算は主役の二大企画によって、十中八九が食いつぶされてしまう。余った文化部は、最後に拾って貰うことすら無い鍋中身の如く扱われ、予算がほとんど降りない。本当に必要な備品すらも買えず、どうしても貧相な発表となってしまう。

 その悪しき文化が数年やそこらで変わることもなく、今、我々がこうしている間にも、しっかりと伝統は守られているとのことであった。

「私腹を肥やせし悪鬼羅刹から、文化の誇りを取り戻すのだ!」

 そう息巻く友原の演説には私も感動してしまった。やはり、悪のカリスマと呼ばれた男は健在であり、人の上に立つに値するであろう。思わず拍手してしまう私を、彼は手で制す。

「じゃあ、計画を立てよう。大まかな作戦は立ていたけど、昨日の下見があったからより綿密に出来る」

「私の情報しかないではないか」

「まあまあ。人通りはどうだった?」

 朝方、大脳参謀から受け取った記憶を参照し、所感をそのまま述べる。

「一向に無い。寝てしまったが、起きている限り、見た記憶はない」

「じゃあ、そっちから入ろう。俺がいた方は、車だらけだ」

「警備員であったり、夜勤は平気なのか?」

 友原が再びのポケットから資料を取り出す。いったい、どれだけのものが入っているのであろう。

 資料は日付が横軸、名前が縦軸に書かれた表であり、名前と日付が交差する升目に、時間が書かれている。

「警備は定期的に交代している。仮眠室がここ。職員室の真下だ。今の時期は警備が厚いみたいだけど、交代中は手薄になる。そこを狙う」

「待て。こんなものどこで」

 通常では見ることさえ叶わない、持ち出し禁止の代物ではないだろうか。

 情報を受けた大脳参謀が、ひとまず、警報を控えめに鳴らし始めたが、脳内で行われる会議が進めば進む程に、警報の音量は大きくなっていく。

「何て言えばいいんだろう。俺の師匠筋? ……まあ、協力者だ」

「協力者?」

「ああ。詳しくは言えないんだ。でも、信頼に足る」

 その説明で、友原は信頼に足らないことがよく分かった。

 厳重警戒警報に参謀が手をかける。

「学校に入った後はどうするんだ?」

「今夜のお楽しみということで」

 やはり、信用できない。厳重警戒警報、発令である。悪いことは言わないから、私達の為にも、どうかやめてくれと、脳味噌が一丸となって、私を止めた。彼らの声と警報は、未だ嘗て無い程の嫌な予感として、私の中をかけずり回っていた。

 そんな内情を露程も知らぬ友原は、わざわざ遠くに置かれたお茶を手にして私の前に掲げる。

「乾杯しようぜ」

 しかし、参謀達の言うことに従う訳にはいかなかった。というか、従うことができない。ここで断ったとしても、「約束しただろ」と言われ、最後には、どうせ、恋心を利用される。最早、逃げ場など無い。

 仕方なく透明なコップを手に取り、私と友原はコップを鳴らして中身を飲み干した。

 胃の中に落ちる冷たい水の感覚に、参謀達は気落ちした。

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