第5話
フロアの大変困った状況を時間が解決してくれることなどやはりなく、一人、立ち向かおうと清掃用具一式ととも武蔵坊が如く仁王立ちをしてみたが、早速、吸い込まれそうな深さである。これを後輩二人は見事に洗浄して見せたことを思うと、引くことはできない。引いてはならない。我が威厳、沽券を守るためにも、最高速度でことに当たらねば。
ただ、余りに膨大で考えることの少ない作業の為、私の頭では鰻おじさんの言う助言が堂々巡りを繰り返していた。
いくら博識であることに定評のある私でさえも、こればっかりは首を傾げる他に無い。どこかで聞いたような気もするものの、何が何のことやらさっぱりである。第一、助言とは何の助言で、その助言は一体どう扱えばいいというのだ。助けることができるからこその助言であり、今の私にとって彼の言葉は、現在地が分からない地図と同じである。我が現在地は何処であったか。地図を回してみても、全く見あたらない。
考えごとをしていようと、私は優秀な男である。どんなに頭のいい機械でも仕事が溜まると発熱してしまうが、私は高速で考えごとをしながら、高速で手を動かし続けていた。それでいて、到底、発熱する気配がないとは、私は私が思っている異常に優秀であるようだ。この時も、もちろん、冷静な表情のままである。今、鏡を見たなら、自らの冷ややかな視線で、凍ってしまうこと必至であろう。
フロアの半分ほどを私が凍ってしまわない限界値まで鏡のように磨いたところで、清掃用具の汚れも限界を迎えてしまった。洗う必要がある。厨房に戻るべく、非常階段に出ると、雨、風、雷は思いの外、強さを増していた。見る限り地下階はすでに陥落し、一階にも手が伸びているようだ。大丈夫であろうか。
重いバケツやらモップやら消毒やらを抱え階段を上るのはなかなか技量が必要である。武蔵坊で居るのも苦労が伴うようだ。今後は弁慶を名乗ろうか。苦しくは無い。苦しくは無いが、尻が痛いので、不思議と顔が上を向いてしまい、必然的に雲が目に入った。よりうねりを増した雲は、なんだか少し苦しそうですらある。
厨房までの長い道中、悶える雲に見入っていると、その身に纏う黄色く輝く一筋の刃が、店に向かって振り下ろされた。近くで爆発でも起きたかと言うほどの爆音を奏でながら、手すりから落とされそうなほどの衝撃が私を襲い、思わず、我が七つ道具を手放してしまった。立ち往生しなくてすみそうである。落ちていった道具たちは大河に飲まれてしまった。
仕方なしに手ぶらで厨房階の扉を開けると、そこは闇、闇、闇、また、闇の一面真っ暗、闇の中であった。
「先輩? 先輩ですか!」
声のする方に向かって行くと、後輩二人が呼ぶ声がした。
「ああ、無事か?」
「俺たちは大丈夫です。何事です?」
雲の一撃をこの目で見てしまった私は、優秀な頭脳から結論をはじき出す。考えるまでもなく口が開いたのはさすがと言わざるを得ない。
「停電だろうな。雷が落ちていた」
ただ、停電しているから起きる事態までは、頭が回っていなかった。
「まずい! お前等、今すぐ、手分けしてお客様に事情を説明するぞ」
「先輩!」
少し遅れて彼らも気づいたらしく、一緒にお客様のいるフロアへ駆け出そうと非常階段へ戻ると、少し前まで受付にいた後輩が私を止めた。
「お客様への説明は俺らだけでできます。先輩は受付に」
「何故だ! 受付には店長がいる!」
「先輩は馬鹿ですか」
「何だと?」
再び、喧嘩を売られた気がする。その押し売り、私が見事、盗み出してやろうか。
「待ちぼうけている先輩の親友はどうするのです!」
彼の言葉に、今にも蒸気を発生させ始めそうであった私の血液は、一気に冷えた。今こそ、鏡で私を冷やすべきであった。
猫の嫌いなものはいくつかあるが、広く知られて居るものとして、水と、大きく低い音がある。猫田さんも同じだ。というか、濡れたくないのに、濡れてしまい、突如として破裂音が聞こえてきたなら、誰だって嫌であろう。私は嫌だ。
「すまない! 恩に着る!」
「いいから、速く!」
停電してしまっている以上、エレベーターは使えない。
私は彼女の元へと階段を駆け下り始めた。
一階の非常階段出入り口がある踊場に立つと、水面はすでに私のくるぶし辺りまで上ってきている。防火の役割もある扉だから、相当な重さがあり、外で活躍中の雷鳴に邪魔されるから、内部の音など一切聞こえない。水の進入も少しは防がれていると思われ、このまま開けると、フロアが水浸しになるのではないかと気を回した、私は必至に扉を叩いた。鉄を叩くのは手が痛いが、幸い、大きな音が鳴るため、ありがたい。中で大混乱が起きていたとしても、これならば聞こえるであろう。
直ぐに向こう側からも同じように叩き始める音が帰ってきた。
「ねこ……店長?」
なるべく口を扉に近づけ、自分にできる最大限の声で話してみた。扉を通り抜ける声量より、跳ね返って来る方が多いらしく、鼓膜が痛い。必要な犠牲だ。
『残念だが、私だ。少年』
私は憤慨した。
「何故、あなたが!」
『店長殿は対応に必死の様相だ。入り口が水槽になりつつある上に、先の雷、停電で混乱していてね』
何となく予感、予想はしていた。鰻おじさんの口振りからするに、浸水被害はひどくないようだが、何はともあれ、彼女は大丈夫であろうか。
『猫田さんは耳を押さえて丸くなっているよ。雷が本当に怖いらしい』
実に心配でならないが、丸くなっている猫田さんを想像して、感覚が溶けていく足も暖かくなるほど、和やかな気持ちになってしまう。
不謹慎だと、頭を激しく振り、扉に数回ぶつけると、鼓膜にかかる衝撃記録が更新された。額も痛い。泣いちゃいそうである。ただし、冷静さも戻ってきた。
「……待て。あなたは何故、猫田さんの名前を」
『何故も何も、彼女のことは、君と同じく知っている。もちろん、君の想い人だということも……』
「彼女がいるのだから、口にするんじゃない」
声量を押さえ、私が言葉を遮ると、彼は
『なんだ。まだ、結ばれていなかったか。初めに呼ぼうとするから、てっきり結ばれたものと』
扉を思い切り叩いた。鼓膜衝撃記録は再び、更新したが、冷静さは戻ってこなかった。いっそのこと、更新できるところまで更新してしまおうか。鰻おじさんがいれば、今後も含めて自分史上、塗り替えられることの無いであろう記録が出てしまう気がする。その時、扉に赤い染みが付かないことを祈るばかりである。そんなことで名を残したくはない。
『そう怒るな。今こそ、良いところを見せる好機では無いのかね』
「どういうことです?」
『なんだ。まだ、助言の意味が分かっていなかったか』
さっぱり見当も付かず、尋ねると、扉一枚隔てた彼が呆れたように話す。
『よくよく思い出せ。同居人の教え子なら、私の助言で分かるはずだ。少年は蒲焼きの作り方が分かるであろう。それは何故かね』
「そんなもの、義務教育だからであろう。猫田さんだって作れる。学校で習うから誰も知っているのではないのですか?」
『専門学校ならまだしも、普通の学校では習わんよ』
彼は笑いながら去っていったようで、次第に声が遠くなってしまった。
足の冷えを緩和すべく、滝のようになってしまった階段を少しずつ上る。
鰻おじさんが言うよう、思い出すところによると、私が鰻の蒲焼きについて覚えたのは、小学校の頃、担任教師によって与えられた知識であったはずだ。だからこそ、私はそれを義務教育だと思いこんでいたのだが、どうやら違うらしい。となれば、我が担任教師はなにゆえ、そんなものを教えたのか。
『我が同居人』
更に鰻おじさんからの言葉を照らしあわせることで、私は教師の正体に行き着いた。彼もまた、『長屋の住人』の一人であったのだ。そういえば、担任教師は何かにつけて、蛇やら鰻やらの話に脱線していったような気がする。
私は担任教師に関する記憶から記憶へ、深く深く古いものへ渡り歩いて行った。鰻おじさんの言うことを信じるなら、担任の言葉の中に助言を助言たらしめるものがあるはずだ。もはや、縋るものはそれしかない。
その間も光り轟く雲の刃は容赦なく街を襲い続けた。頻度は増しているらしく、常に不穏な音を奏でてて、時々、目潰しを食らう。嵐の中にいるようだ。
そういえば、かつて同じような日があり、クラス全員怖がるから、話が脱線したような気がした。
「……ああ、そうか」
ついに私は鰻おじさんからの助言を見つけた。
押し流そうと水の流れる非常階段を上り、私は厨房の中へ戻った。
頭の中では担任教師がかつて話していた内容が流れていく。
『雲にもたくさん種類がありますが、今日のような雨や雷を蓄えた雲を雷雲といって、中には龍がいます』
未だ復旧しない電気系統のせいで闇の中を手探りで進むしかない。
『龍は時々、空を飛び、鳴き声で雷と嵐を呼ぶのですが、いつもは地面の中か、水の中にいるそうで、こんな言葉もあります』
無造作に置かれた備品やら棚にぶつかりとても痛い。
『春、天に昇り』
幸い、目的の場所は、外の雷光に照らされているため、目指すには困らなかった。
『秋、淵に潜む』
私は塞いだ割れ窓の段ボールを剥がした。
説明するまでもないとは思うが、念のため説明しておくと、淵は水が深く淀んでいる場所のことである。まさしく泥鰌が棲んでいそうではないか。
酒で酔っている最中、訳も分からず滝を昇ってしまったばっかりに、突如として龍に身を転じた泥鰌達も、初めは酒の見せる夢だと喜んだかもしれないが、いつか、酒も夢も醒めるもので、どうすれば良いか見当も付かず、元の場所に戻ろうにも、窓は塞がれてしまっていたのだ。もしかしたら、身に余る力をもって、もがき苦しみうねりうねっていたのかもしれない。
ただ、今は、存分にボウルの中でうねればいい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます