第4話

 急いで階段を駆け上がり、厨房に走り込むと、想像を絶する光景が広がっていた。

 窓の一つが割れて、風が吹き込んでいる。皿を割ったと思っていた音は、窓が割れた音であった。一体、何事か。訳は、入り口付近で呆然とし、私の横に立っている大学生の後輩が知っているだろう。

 茫然自失の後輩に声をかけ、目の前で手を振り、肩を揺らし、背中を叩けば、彼は自分の記憶を疑うかのように、一言だけ呟いた。

「泥鰌……」

 割れた窓の前には、流し場がある。そうだ、泥鰌達はそこで待っているのだ。もしも、窓ガラス片など入ろうものなら、赤く染まった泥鰌達は別の赤さで染まってしまう。蛇口からは水が流れ続けて、一見すれば変化は無いけれど、その下のボウルはどうか分からない。

 そう思うが早いか、私は後輩など知ったことかと、押しのけるようにして、泥鰌達の元へと駆けつけた。

「大丈夫か! えっと……泥鰌!」

 こういう時に名前の一つでも呼べれば良いのだが、残念ながら一匹たりとも名前を付けていなかった。走り寄る途中、自分で気付いて、酔った泥鰌と同じくらい赤くなった。

 怖いながらも、流し場の中を覗けば、泥鰌の黒でも、酔った桃でも、恐怖の赤でも無く、澄み渡る流水だけが、ボウルの中に満ち満ちていた。水の行く先、シンクの中にも居なければ、排水口のゴミを受け止める水切り籠にもいない。あの、細長く愛らしい姿は、どこを見ても消えてしまっていた。

「先輩。一大事です」

 気付くと、はっきりと意識を取り戻した後輩が、私の横に立っていた。

「それは分かる。泥鰌はどうした」

「そっちですか」

 割れた窓は人など通れぬ、後から買い取ったビルとの間にあるものであった。もう一つのビルの背がもっと高かったのなら、景色どころか採光すら出来ぬ無用なものになっていたに違いない。

「あいつ等の命と、下に落ちても被害の少ない窓、どっちが大事だ!」

「食べようとしてた人がそれを言いますか」

「それは……」

 正論過ぎて思わず黙ってしまう。生まれてこの方、人を言い負かすことは数多あれど、自らのぐうの音が出なくなるとは考えてもみなかった。ため息を一つついた彼は、流れ続けていた蛇口を捻って止めた。

 急流、激流を登る魚をご存じであろうか。かつて、その魚は滝に挑み、何度、滝壺に落とされてもあきらめず、ついに登り切って、龍に変貌して天に昇ったという。その伝説は日本でも出世祈願の故事として吹き流しになるほどである。その名を鯉という。

「信じられないとは思うんですけど、あいつ等、窓から飛んでいきました」

 鯉の滝登りとはよく言ったもので、泥鰌達は水道から垂れる水を登り切ったらしい。まさか、泥鰌達がそこまで鯉の血を残していたとは思わなかった。細心の注意を払いながら割れた窓から下を見ると、足がすくむような高さの下には、光るガラス片があるだけで、泥鰌達はいないようだ。窓ガラス片は厨房にほとんど落ちておらず、こちら側から外へ割れたことは明白であり、『泥鰌の水道登り』は間違いないようだ。

 確かに、細長いが故、「鯉のぼりみたいだな」なんて思った瞬間もあったけれど、そこまで再現しなくても良いではないか。ちょっと、思っただけじゃないか。誰も本当に昇ってくれなんて頼んでない。むしろ、昇られると困ってしまう。お前らも『人の嫌がることを進んで行う』が信条の、自己犠牲精神満載の泥鰌なのか。だったら、素直に喰われてくれれば良いではないか。

 私は泥鰌達に対して憤った。しかし、同時に、子供が巣立っていったような嬉しさと、もの悲しさをあわせたものを感じたのも事実である。

「先輩、どうするんですか?」

「どれを?」

 私は疲れていた。本日は余りに異常が多すぎた。泥だらけのフロアに、泥鰌、無くなったダート、鰻おじさん、私情中の私情ではあるが、猫田さんの来店に、窓が割れるという、一つが解決しても他が解決しないという、全てが丸く収まるには、大変な労力と技量を要する自体に陥っていた。

 正直に言って、私の思考は停止しかけていた。もはや、どれから手を着けて良いものか、検討も付かない。

 丁度その時、私の頬に冷たいものが当たった。

「雨?」

 割れた窓から空を見上げると、いつの間にわき上がったのか、灰色の雲が空一面を支配し、遠くで雷鳴が轟いていた。今日は一日、雨は降らないとの予報であったが、外れたのだろうか。目の前を、一滴、二滴と、雨粒が地面に向かって落ちていく。断続的なそれは、すぐに目では数え切れない線となった。

「とりあえず、窓、塞ごうか」

 私と後輩は、資源ゴミ回収の日まで積んでいる段ボールを数個引っ張り出し、ビニールテープで窓に留めた。時間の問題だろうが、これで一時の間は雨風をしのげる。

 作業直後、受付と厨房を繋ぐ内線が鳴り響いた。急いで私が受話器を取ると、向こう側からは、後輩一人の声では足りず、なんだかにぎやかな音が漏れてきた。

『先輩、助けて!』

 私が訳を問う間もなく、内線は途切れてしまった。それだけで、彼の一大事を表すには充分であった。急いで受付に戻らなければ。

「すまないが、受付が忙しいらしい。ガラスは細心の注意を払って、箒で掃いておいてくれ。後は頼む!」

 私は今日何度目かの、受付に駆け下りた。


 外にある非常階段を下る。うねる雲によって濡らされた階段を、文字通り滑り下りる。臀部の肉が削げ落ちそうだ。一階踊り場で尻が落ちないよう押さえて、室内と非常階段を仕切る扉を開いた。

 先ほどまで閑散としていたはずの受付は、いつの間にか人でごった返し、ちょっとした街の縮図かのようになっている。猫田さんと鰻おじさんを除く、全員が全員、頭から服まで、私と同じくずぶ濡れで、突発的な雨に避難してきたのだ。

 重い扉の閉まる音で私に気付いた後輩が、「先輩」とすがるように呼ぶから、避難されたお客様が一斉に、にらむような視線を向けた。まるでこちらを批判するな視線であった。雨に濡れ、足を滑らせ、数段を臀部で下り、濡らしたパンツで痛みを和らげている、まさしく『人の嫌がることを進んで行った』というのに、何故にそのようないわれ無き非難の視線に晒されなければいけないのか。私が何か悪事を働いたか。誰もが嫌がる自己犠牲もない行いをしただけだ。私だってこんなことしたくはなかった。しかし、お客様を思えばの行いである。今なら冤罪を受けた人の気持ちがよく分かった。余りに不条理ではないか。控えめにいって、そんな態度のお客様など、心の底から甚だ大層案内したくは無かった。

 殺伐とした砂漠が如く不毛な私の心にとって、猫田さんの心配そうな表情だけが唯一の救いである。もし、彼女が居なければ、全員、雨の中に追い出すか、私が今一度雨の中に身を踊らせていたところだ。いっそ、濡れてしまえば、パンツも気にならなくなるが、代わりに人間の尊厳も流れていってしまう気がして、彼女に感謝した。皆も彼女に感謝すべきだ。ありがとう、猫田さん。私はがんばります。

 尊厳を失わなわずにすんだ幸運のみで、憤怒の形相を笑顔で覆う。高校時代は『鬼』と呼ばれ、仏頂面には定評があった。鬼なのに仏様の顔とはこれいかに。私はなるべく仏様のお顔に近付けた。拝見したことはないので、あくまで想像上の仏様である。誤って、仏様の仮面をはぎ取らないよう、細心の注意を払いつつ、避難客を心の中で鼻で笑った。

 受付に入り、後輩から事情を聞くと、大方の予想通り、雨が降ってきた途端、皆、一斉に来店されたらしい。ここまで人が多いと、順番に案内するための受付表への記入さえ困難であり、後輩一人の仕事量を遙かに越える事態を前に、私を呼んだのであった。

 手始めとして私は、彼ら全員に受付表の記入を願い出た。現在、フロアは相も変わらずの泥まみれである。加えて、貸し出し用ダートも、猫田さんの分か、鰻おじさんの分しか用意がない。受付表には、貸しダートの有無を記入する欄も完備している。一発で把握できる。更に、状況によって順番が前後する旨を伝えておくあたり、私の優秀さがにじみ出ているとしか言いようが無い。

 しかし、グループ毎に記入をお願いしている間にも、お客様は避難しにいらっしゃる。どうしたって、案内ができるような状況ではなかった。そんなことを言っている今も、人は増え続けて、とても仕事が追いつかない。こんな時は誰を鼻で笑うべきか。

 必死で働いているというのに我々がお客様を案内できるのは、ナマケモノも驚いて自分が働きすぎなのではないかと考えるだすと思われるほど、緩やかなスピードであった。自前のダートを持っているお客様を、極僅かに空いている、綺麗なフロアに通すくらいしかできないのだから当然である。急な雨を見越して自前のダートを用意する人間がどれだけ居るというのか。であれば折りたたみ傘を用意する。

 貸しダートを使うことができるやもしれなかった猫田さんは、待ち席で可愛らしく、もとい小さく座っていた。後輩が初めの方に避難してきたお客様へ、貸しダートが全て出払っていると説明してしまったがために、フロアに通すこともできず、外の大雨に放り出すこともできずにいるのだ。大変、心苦しい。私としては精神の安定剤となるので、非常に幸せである。

 雨は強くなるばかりで、避難客は増えこそすれど、減ることはなかった。このままでは、泥まみれのフロアを待合所として解放しなければいけなくなる。それも時間の問題であった。私の額に伝う水滴は、濡れた髪によるものでは無かった。


 ほとんど、空いている台がなくなった頃、本来、来るべき時間よりだいぶ遅れて店長がやってきた。

 いつも何かしらビニール袋を手に提げた状態で店にやってくる店長は、店内回線の機械で空室状況を把握しつつ出勤後、昼食とも呼べないような栄養源を接種すべく、フルコースでも食べているのかという時間、事務所に引きこもる。その籠城は鉄壁を誇り、店における最高権力という矛と、中の見えない事務作業という盾の、矛盾無き最高武装を引き剥がすのは容易でなく、事務所の鍵を使って城ごと破壊すれば、異常解決理論の軍勢が押し寄せる、難攻不落と呼ぶに値する代物であった。

 今日も今日とてそれは変わらないらしく、コンビニで買ったらしい傘と、同ビニール袋を持って現れ、フロアにお客様を通しあぐねる我々を射抜くが如く視線で一瞥すると、そのまま事務所に入って行く。私たちの気持ちも知らないでいい身分である。事実、いい身分であるから何もいえない。

 しかし、彼はすぐに受付へと戻ってきた。いかなる場合も習慣を崩さず、出てこないように思われた店長は、ビニール袋を持ったまま事務所を後にして来たのである。

「これしか集まらなかった」

 コンビニの袋から取り出したものは、インスタントな食料であったり、体に悪そうな食料の数々では無く、相当数のダートであった。

 そういえば、電話で話したではないか。

 事務所へはタオルを取りに行ったまでのことであったのだ。疑って、すまない。あなたは、やはり、やるときはやる人間だったのですね。これで、猫田さんを待たせることもなくなるというものだ。

「フロアがありません」

 しかしながら、まだ、問題があったことを後輩によって突きつけられた。

「受付は俺、一人で十分だ。厨房も二人居れば何とかなるだろ。後は、お前がどれだけ速く片づけられるかだ」

 指摘にも慌てることなく、店長が余りに適切な指示を出す。今日ばかりは尊敬してしまいそうである。伊達に店長では無いらしい。

 どよめきが起きたのは、万事うまく動き始めそうであった、その直後である。

 余りに激しい雨量を前に、排水溝の処理速度が追いつかず、路面の水が新たな領地を求めて、ついに自動ドアの下から店内へと侵略を開始したのだ。外の人通りは無いが、限界寸前まで詰め込まれた順番待ちのスペースにおいて、空気も読まずに役割を全うしてしまう自動ドアが開く度に、水は好機だと攻め込み、我々の領地を奪っていこうと狙いを定めていた。路面より、数段高くなっている店に進入を始めるとは、よっぽどのことである。

 このまま、為す術なく水浸しになるかに思われたが、局面を変えたのは、我らが将軍、店長であった。

「このままでは、水没する。ドアを閉めろ」

 英断であった。

 かつて、店長の話しに付き合い聞いた、あまり使うことの無い情報目録の中には、売り上げの出し方の項もある。曰く、集客数と一人当たりの客単価を足したり掛けたりし、そこから支出やら何やかんや、私のような末端の末端、さらに末端、情報も金も回ってこないであろう、末端には一切預かり知らぬものを引いたり割ったりすると、算出されるとか何とか曖昧に記されていた。

 こんな大雨にして、集客も見込めない日においては、集客数がものを言うのではないのか。結局、貸しダートが僅かで単価ゼロの人も出るであろうから、意味がないのか。どうなのだろう。

 私に経営は分からぬが、少なくともこれが全く会社の利益に繋がらず、我々、労働者にとってとの利益になることは言える。ありがとう、店長。

 我らが店長の指示通り、ドアを閉鎖しようとしたおり、外を見ると、ベネチアも驚くであろう有様で、車道で車が走らず浮かび流れ始めている。空の灰色の雲は初めより黒々とし、時折、その身に雷を光らせながら、地面に向かい来ようとしているようであった。

「さて少年よ。君はあれをどう思う?」

 気付くと、すぐ隣には憎き『長屋の住人』が立っていた。

「私は少年という歳ではありません」

「いいや。君は少年だ」

 まるで動く気配が無かったというのに、一体、何だというのだ。喧嘩を売りにでも来たというなら、私にもそれ相応の対応があるというものだ。自慢ではないが、私はこの方、喧嘩で負けたことはない。喧嘩をしたことがないのだから、当然である。拳を人に向けこそすれど、当てたことのない人生を歩んできたが、いざとなれば最安値まで負けてもらってから万引きしてやるという所存である。

「であっても、あなたにそんな呼ばれ方をされる義理はありません」

 自動ドアの電源を切り手動で閉める私の悪態を聞きつつも彼は店内に戻った。

「確かにそうであるが、呼ばない義理もない」

 彼の言うことにも一理ある。

「そして、実のところ、私が君を少年と呼ぶのは、遙か昔からなのだが、覚えてはいまいか」

「見当も付きません。あった記憶もございません」

「それは残念だ」

 口ではそう言うものの、彼はそこまでの悲しみというものを見せず、どこ吹く風と言った様子だ。街に流れる強風を受けたとしても、彼だけはその場に立ち続けられる、もしくは、乗りこなしてしまいそうである。

「さて、私は君から鰻を貰ってはいない。つまるところ義理はないのだが、我が同居人と知り合いであり、雨宿りをさせてもらうよしみがある。そこで、どうだ、少年。少しばかり、話を聞いてはくれまいか」

 何がいいたいのか、いまいち、つかめないが、鰻の話を聞かされるくらいであれば、『少しばかり』話を聞いた方がいいであろう。

「同居人によると、君は色々と博識なようだ。だから、本当に少しの助言でいいだろう」

 彼の同居人は私のことをよく分かっているようであった。どこであったかなど、分からない同居人とやらとは、仲良く話すことができそうだ。

「春、天に昇る」

 制服の雨水を払いながらに施錠する私へ鰻おじさんは、なんだか格言じみた言葉を残して、もう、話すことはないとばかりに元の位置で元の体勢に戻る。

 首を捻る私は、彼の横を通り過ぎ、店長に報告した後、俯く猫田さんの為にも泥の清掃へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る