第3話

 彼女は私の小中学校の同期生である。そして、私がこの場所でアルバイトを始める切っ掛けでもある。

 順を追って説明しよう。少し長くなるが、読み飛ばさないことを推奨する。飛ばして後々分からなくなっても、責任は取らない。

 当時、小学校に入ったばかりの私は、担任教師から試練を与えられていた。その試練の名を『自己紹介』という。

 担任曰く、自己紹介前の我々は、国の制度だからとりあえずは学校に入っている、言わば仮入学の状態であり、自己紹介とは、遥か太古の時代より綿々と受け継がれてきた、真の入学の儀式らしい。もちろん、そんなはずはない。ただ、クラスの和を保つための自己紹介である。しかし、純粋無垢の権化である私は、息を吸うか如く教師の言葉を信じた。

 この儀式には向き不向きがある。いくつか要素はあるだろうが、人前で話しても心の抵抗を感じない、もしくは耐えるだけの精神構造を誇る人間は、自己紹介の神から溢れんばかり寵愛を授かっているに違いない。例え、脳内で完璧な紹介を練り上げても、人に見つめられて動けなくなるようなメデューサ要らずの人間では、語る間もなく沈黙してしまう。私は生まれながらにして人前から真反対を目指した人間である。だから、私にとってこの儀式は、試練であった。

 刻一刻と迫る自分の順番を待つ間、私の脳内ではこれから起こるであろう出来事の想定作業が行われていた。義務教育である小学校を退学になり、入学できるまで何度も次の年に挑戦、ようやく入学するも、新しいクラスメイトとは年齢が違い、『人の嫌がることを進んで行う』なんて自己犠牲精神を見事に履き違えた輩にいじめられ、ついには、いじめ問題として偉そうで事実偉い有識者の善意から全国放送へと吊し上げられる。失敗した未来が目まぐるしく浮かび上がった。ついでに足まで浮いてしまった私は、なんとか地に足を付けるべく、クラスで行われる自己紹介へ目を移した。

 動物の尻尾が好きと黒板に書いた変わった教師、欠伸をしていたのに自分の番が来ると何事も無かったように駄菓子が好きという少年、そして次に順番が回って来て立ち上がった少女に、私は目を奪われてしまった。

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花なんて、女性を称える故事があるけれど、彼女はなんだか猫のようであった。だから、仮に猫田さんとしよう。真っ黒で長い髪を二つに束ね、くりくりとした目で前を向く彼女は、これからの学校生活に、期待を込めているような少女であった。

 一目惚れであった。

 その衝撃といったら、天地がひっくり返るどころか、高速で回転しだして、私の意識を途絶えさせるのに十分であった。


 自己紹介での失敗を取り戻し、どうにかお近づきになりたい私は、その後、遠目から彼女を観察し続けた。いきなり会話に踏み切るなどとても出来ず、球技の誘いを断り、変形鬼ごっこ各種の誘いを断り、縄だったりゴムだったりを跳ぶ誘いを断り、運動誘いを断り続けて、ただ万全の対策を講じ続けた。それは最早、研究と呼べる行いであった。長期の休み明けにこのまま発表したなら、最優秀成績を修めるであろう領域にまで踏み込んだ時もある。それでも私は、彼女の観察にのみ力を注いだ。脇目も振らず注ぎ続けた。運動遊戯、何するものぞ。決して運動が苦手であったわけではない。


 研究成果について触れる。

 登校すると、オトモダチの元に取り急ぎ混じり、前日に見たおおむね女児が見るアニメの話で盛り上がり、授業が始まれば、真面目に教師の話を聞いて、自分の学力を向上、授業の合間合間に与えられる休み時間は本を読んで、長く自由な時間が与えられる昼休みや放課後には、再び友人と連れだって、外へと体を動かしに赴く。

 彼女の日常は、ほとんど同じ一日の繰り返しであった。


 正直なところ、研究は難航した。好きなものが多すぎて、情報処理が追いつかなかったのだ。アニメ、本、どれをきっかけに話をすればいいかなど、おおよそ見当も付かない。健全たる男児が女児向けアニメを見ていたら、親に心配されないだろうか。我が家では心配された。

 彼女の好きなことと思われる情報のみが蓄積されるだけで時は過ぎ、学年が上がることになった。その際、私の通っていた学校では文集を制作しなければならないらしく、テーマが自由であったために、自由に羽を羽ばたかせ、そのまま太陽まで飛んでいってしまいそうなほど、突飛で飛躍した文章を作り上げた。恐らく、担任教師の顔を見る限り、そういうことでは無かったらしいが、締め切り間近と、面白いからと、そのまま載せてくれた。実に懐の深い教師である。いつか彼が、好きだという尻尾に覆われるようにと願った。

 できあがった文集が全員に配られたしばらく後、私は朝から相も変わらず、彼女の観察に勤めようとした。教室に入ってきた彼女は可愛らしい仕草でランドセルを机におくと、その可憐な歩みを以て歩き始める。朝はオトモダチと交流を深める彼女だ。いつも通りである。しかし、その方向は、いつも通りではなく、あまり人気のない方へと向かっていた。率直に言うならば、クラスメイトから敬遠されがちであった私の方である。

 もしかしたら、別の誰かに用事があるのかもしれない。周りを見渡して、自分しか居なかった時の、緊張と言ったら。ついに、彼女を観察とは名ばかりの、監視に近い行動を咎められる日が来てしまった。そう思うのも無理からぬ話だ。予定調和よろしく、空いていた私の前の席に腰を下ろした彼女は、「面白かった」と文集を私に向けた。「別のも読みたい」と続ける。

 彼女とオトモダチになる可能性を考えた。

 あまりに彼女は、オトモダチと仲良く話すために、今の今まで気付かなかった。アニメで盛り上がることと読書に興じるのは、時間をつぶしているものだと思っていたが、その手段こそが目的であった。彼女は物語の虜であったのだ。

 かくして、私は勉学、そっちのけとなり、自作の物語を作ることに邁進する。授業以外の時間はもちろん授業中も、拙いながら文章を積み重ね、放課後は図書館に駆け込む生活を始めた。彼女が喜んでくれる顔が見たかった。あわよくば一緒に遊んだりしたいとも思っていたが、そこは箱にしまってから棚に上げてしまう。

 今思えば、面白いとはとても言い難いものではある。それでも、彼女は読んでくれた。更に、やる気を引き出すような感想と、次の話を待ちわびる言葉を添えるから、私の脳と鉛筆は止まらなかった。

 高校こそ離れてしまったが、その後、小中学校を共にし、今のところ我が人生の半分近くにあたる期間、断続的に顔を合わせ続けた私と彼女の関係がどのようになったかと言うと、いいところがオトモダチであった。むしろ、読者と作者の関係だ。私は独自の情報網と考察を重ね、彼女について多少なりとも知っているが、彼女は私についてほとんど知らないに違いない。


 アルバイト先を決めるに当たって、私は彼女と仲良くなれるよう、猫田さんの興味がありそうな職種を探った。あわよくば同じアルバイトを求めて、持ちうる情報網の全て駆使した。本当だったら、物語だけを紡いで生活したかったが、私にはまだそれだけの才能も技術も無かった。

 その結果が、現在も勤めるダーツ店である。

 彼女はよく塾や学校の帰りにダーツを嗜むとの情報を得た私は、実に安易な考えで求人していたダーツ店へと入店してしまった。彼女の最寄り駅近辺にしたことは言うまでもない。彼女にアルバイトをするつもりがないのは悔やまれたが、運よく会える可能性を胸に、どうにか頑張ってきたのだ。


 当初の目的が、まさか、このタイミングで叶うとは。

 大きな皿もかくやと目を開き、顎が床に付きそうになる口を塞げずにいると、私の様子に気付いたらしく、こちらを二度見どころか、三度見した猫田さんも、表情を写したかのように、私と同じ表情をしていた。同じ筋肉を動かしたとしか思えない。それでも可愛らしいのは、彼女であったからだと思われる。

「お知り合いですか」

 我々の様子を察した後輩が尋ねる。

 事情の分からぬ後輩に、簡易的で、必要最低限の説明をするなら、知り合いがもっともで簡潔であろうが、私と彼女の関係性をそれらの称号で一括りにするのは、私の誇りが許さなかった。認めてしまえば受付を挟んだ彼女との距離は、今まで築き上げて来た、といより埋めてきたものを、再び広げるようで、とても憚られる。

 かといって、恋愛関係になりたいけれどその関係には至っていない。恋人と紹介するわけにもいかず、私は悩みに悩んだ。煮詰まりすぎて、箸ではとても食えなくなったところで、「親友」という、オトモダチ以上ではあるが、残念ながら決して恋人ではない、男女間に置いて、絶妙な距離感を示す言葉で後輩へ紹介した。おそらくは、先人も同じような気持ちで生み出したのであろう。紹介し難い恋人であったり、相手に友人以上の好意を示したいであったり。人間関係はかくも難しい。

 ただ、この妙案と思われた紹介にも欠点があった。柄にもなく使うと、意図が露見するのである。

 後輩は、何かを察したかのような表情で、自然かつ彼女にも悟られないであろうさりげなさで、受付における立ち位置を代わってくれた。余計なお世話だが、その時ばかりは後輩に感謝をした。後で何か願いを聞いてやろう。叶えるとは言っていない。

「怖い顔してるから、気付かなかったよ」

 驚きから立ち直った猫田さん。

「ちょっと、悩みごとしてて」

「そうか」

 なんだか気まずい。忙しさにかまけて、しばらく新作を書き上げるてはいないし、こうして話すことも久しぶりだからなのか、沈黙するしかなかった。

 対話をあきらめた私は、とりあえず崩し気味の接客をする。

「時間はどうする?」

 時間を聞きながら、フロントにあるパソコンで、最新のダーツマシンレーンを選択する。

 ダーツの使用台数は限られている。使用状況は店に設置された閉鎖回線で、常に管理し、時間から料金プランまで、お客様の状況をある程度把握することで、素早い清掃による効率的な営業を行えるのだ。

 最新のダーツマシンが設置されるレーンは、本来、少しだけ他機種より多く金額を貰うが、最も安い料金で設定した。店長に見つかったとしても、「今日も格好良いですね」戸でも言っておけば、あまり気にされない。全く問題ない。小言を言われる心配もなければ、減給される痛手もない。彼女は得をし、私は良いところを見せられる。店以外、誰も損をしない。

 しかし、彼女は不思議そうに首を傾げた。店の仕組みも、自分が最新機種に最安値で通されようとしているなんて状況も分からないはずだ。何もおかしいところは無い。訳が分からず、私も首を傾げていると、横で雑務をしていた後輩が助け船を出してくれた。

「貸しダートをご希望です」

 運命の神は私を見放しなさったか。

 彼女と鰻おじさんを交互に見やる。

 いつもの私であれば、考えるまでも無く、手放しで店長の言いつけを無視して猫田さんへダートを差し出していたであろう。ただ、差し出したら、代わりに半日にも及ぶ鰻に関する講説を渡されてしまう。人間誰しも、謀らずとも手が止まってしまうのではないか。少なくとも私は止まった。盲目であった恋も、自らの危機となっては、嫌でも現実を見てしまう。その程度であると認めたくはないが、半日という貴重な時間を、将来使うでもない知識の吸収に使うのは些か耐え難い。

 葛藤の迷宮に入り込んでしまったが、目的地が見つからぬまま、先へ先へ進み続ける私を、囲われた壁の中から解き放ったのは、彼女が来ていると気付いた時と同じく、聴覚からの情報であった。かすかではあるが、儚く鋭い、破裂にも近い高音が耳に入った。

「何か聞こえなかったか?」

「皿でも割ったんじゃないですか?」

 すぐ横の後輩に尋ねると、彼も聞いていた。さしたる興味もないといった様子で、相も変わらず雑務に当たっていた。

 私も概ね同意見ではあるが、注文も来ていないのに、皿を割るというからには厨房での出来事であろう。果たして、ある程度上階の厨房の音が受付まで聞こえるものであろうか。今まで私が受付業務に当たっている最中、そんなもの聞いた覚えはない。

「……ちょっと、待っててくれる?」

 心配が最高潮に達しそうな私は、猫田さんに確認を取った。彼女も音を聞いていたらしく、明らかに正常では無いことを察して、頷いてくれた。人間出来たものだ。鰻おじさんは驚くほど微動だにしていないし、声をかけなくても良い。

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