第2話

 この店では、どんな場合、たとえ、緊急事態で警察を頼る場合であろうと、一度、店長に電話をかけなければならない決まりであった。緊急であるのに、緊急に連絡が出来ないのは、矛盾であると入店当初から感じていたが、まず、電話をすることなど無いであろうと高をくくって居たのが、今にして恨めしい。ここで、緊急連絡先に電話をしてしまうと、後々、減給であったり、謹慎であったりする可能性もある為、まずは、店長に電話をかけた。

『……もしもし』

 予想通り、というか、予想を遙かに上回る不機嫌さを感じる声色の店長に、ことの次第、ダート泥棒から、泥鰌、鰻おじさんの襲来と、それに対する現在、自分が行った対応を、洗いざらい話した。電話の向こう側では、起きているのか、寝ているのか、よく分からない声がかえって来づけていた為、とりあえず、思う限り全て吐き出した。

『……じゃあ、鰻の代わりに泥鰌出しなよ』

 寝起きの人間とは、実に当てにならない。何を思っての発言であろうか。まともな人間であったら、到底、言うまい。もしも、平静の状態でそんなことをのたまっているなら、よほどの阿呆か、ド阿呆であろう。しかし、矛盾したルールを作る店長なら、阿呆でも納得がいってしまう為、結局、真相は分からずじまいである。

『……鰻一匹、泥鰌一匹って言葉があるくらいだし。平気だ。分かりゃしないさ』

 古来より伝わるありがたそうな言葉を出されると、何だって、そう思えてきてしまうのは何故であろうか。ただ、そんな言葉を作った古の賢人もそんな意図で作ったのではないであろう。第一、鰻と泥鰌が一匹ずつ居たから何だというのだ。魚類という以外、両者は他人であって、栄養価が同じと言うだけで、一緒にされるのは、どちらもどちらのプライドが許さないだろう。

 今回ばかりは、店長の横暴に、さすがの私も憤慨した。もはや、許してはおけぬ。

「良い考えですね」

 簡潔に伝えるが早いか、そんなことで満足しない私は止めとばかりに、もう一言、「さすが店長!」と付け加えると、電話の向こう側の店長は、満足そうに黙ってしまったので、チャンスとばかりにもう一つの問題を言及する。

「ダートの方は?」

『とりあえず、俺が行くまでダートの貸し出し営業はしなくていいや。どっかから借りてくる』

 英断が行われると、『寝る』と言い残した店長との電話は断絶された。営業開始までもう間もなくのことであった。


 鰻と言えば蒲焼きであるが、その調理方法が大きく分けて二つあることは、多くの人がご存じであろう。関東風と関西風である。お腹と背中どちらから包丁を入れるかの捌き方と、調理行程に何も付けずに焼く白焼きと、蒸す行程が入るか否かというところが大きな違いであり、脂のノリが変わってくると言われている。味の決め手とも言えるタレに大きな違いは見られないが、店毎に継ぎ足し継ぎ足しの秘伝のタレを作るそうで、そのあたりで差別化が生まれるらしい。

 とはいえ、全体的にインスタントな食材の多い、当店においては、必然的に調理器具や、調味料というものが乏しい為、その中で蒲焼きを作るには、相当な工夫が必要となってくる。店に蒸し器など無い。使い始めた日には、厨房が蒸気で満たされ、飲食店としてあるまじき、カビの温床となってしまう。

 つまるところ、蒸しを必要としない、関西風が妥当であろう。ここは関東であるが、前提として、鰻の代わりに泥鰌を使っているのだから、そのあたりはあまり気にしてはいけない。もっと、言うなら、泥鰌は泥の文字を関するように、多々泥臭いとの不名誉な称号を欲しいままにしてい為、泥抜きという綺麗な水に数日晒す必要があるが致し方ない。

 ただ、出来る限り、泥臭さを取り除いて上げるのが、泥鰌への唯一出来るお返しであろう。私は脳にわずかに存在する料理の知識を総動員して、何とか臭みというものを取り除き、トイレに流されまいとするだけの力を持つ、生命力を感じる泥鰌を、極上の味へと仕立て上げようと思案した。

 魚の臭みを抜くには酒が効果的であるに加えて、魚を酔わせることで捌きやすくなるらしい。ひとまず、後輩達が格闘するトイレより強奪した泥鰌数匹を良く洗った後、ボウルに開けた日本酒の中へ、泥鰌を放った。するとどうであろう。泥鰌は大きく暴れ、水面を大きく揺らす。一体何が不満なのか。おそらくは食われることであろう。誰だ、酔うっておとなしくなると言ったのは。逆効果ではないか。

 丁度、そこへ、それぞれが両手にバケツを持った後輩達が戻ってきた。鰻おじさんの襲来を知らなかった彼らは、受付を見たらしく、説明を求めようとしていたが、私の慌てぶりを見るや、冷ややかな目を向けてくる。何とも生意気な。であれば、代われと言うものだ。

 簡単な事情を説明すると、時間も時間であることを察し、高校生の方は進んで受付業務へと向かい、大学生は厨房の営業をしてくれることになった。本来、私がするべき業務であるのに、実に出来た後輩である。これで、私は泥鰌の蒲焼きに専念できるというもの。決して、代わることを嫌がっていたわけでは無いと信じよう。

 ボウルの上にまな板を乗せてしばらくすると、文字通り溺れるほどという、一部の人にとっては夢のような状況なのにに、大きく暴れていた泥鰌達は、次第に落ち着き始めていた。少しずつ全身が赤くなっているところを見ると、観念したわけではなく、酒に酔っていると思われた。中には吐きそうになっている泥鰌もいるから、間違いないだろう。いっそ吐かせてしまった方が、泥臭さもなくなるであろうか。

 見た目こそ鰻らしいところもあるが、実のところ泥鰌は鯉の仲間である。顔などをよく見ると、完全に鯉のそれである。それ故、色づき始めていた時から思っていたことだが、さらに赤みを増していくにつれて、どうも、細長い鯉にしか見えなくなってきた。まな板の上に乗せてみると、もう、鯉である。やはり、昔の賢人の言葉は強い効力を持っているようだ。まな板の上では鯉が際だつ。

 酔って大人しくなった泥鰌を捌くに当たり、目の下を千枚通しなんかでまな板まで貫通させて固定する。鰻を裂くときにも行う大切な作業である。これをしないと、体の長い魚は捌きづらいのである。しかし、店には、専用の器具も、千枚通しも、画鋲でさえも無かった。使わないのだから、あるはずがない。それに伴って、すっかり忘れていたのが、鰻を焼くさいに必要な道具である、串もないことに気が付いてしまった。本来、炭火で焼くところを妥協に妥協して、直火で焼こうと考えていたのだから、当然、泥鰌を焼くのにも必要である。

 万事休す。もはや打つ手無し。

 このまま、素直に鰻おじさんの為になる講義を聞く他あるまい。であれば、いっそ、泥鰌達も逃がしてやるべきではないかという考えが、私の頭をよぎる。営業成績の代わりに、多くの泥鰌の命を奪う責任を私が負えるのか、現実に引き戻されたことで、妙に冷静に見えてしまった。

 どちらにせよ、泥鰌達の命を引き延ばすべく、私は酒に浸るボウルをシンクに置いて、静かに蛇口を捻った。細く垂れる水がボウルに落ちている状態ならば、泥鰌達も息ができるだろう。それに、酔いは醒めても、再び酔わせることが出来るが、一度消えた命は二度と灯せない。君たちの運命が決まるまで、どうか、窓から外でも見ていておくれ。私は泥鰌を待たせて、受付の鰻おじさんの元へと向かった。


 受付は予想よりも混んでいなくて、後輩も暇そうにしていた。貸出用のダートがないと、ここまで閑散としてしまうのか。なんだか、やるせない。

 鰻おじさんはといえば、待ち合わせに使うと思われるソファに座って居た。背もたれは使わずに背筋を伸ばし、目を閉じ腕組みで微動だにしない姿は見ているだけで疲れそうである。そのまま疲れて帰ってはくれないであろうか。厳格そうな顔つきから、そんな間抜けなことはしそうにない。黙ってさえいれば立場ある人物と言っても通じてしまいそうで、店長より店長らしいのではないか。やっていることは間抜けであるのに。

 職員室で仕事をする教師のような、近寄り難さと、声の掛け難さを兼ね備える鰻おじさんに話しかけるには、多大な勇気を必要としたが、小さな一歩であるが、私史上に刻む一歩を踏み出そうとした。

「出来たんですか?」

 丁度良く、後輩が小声で尋ねる為、私の足の行く先は、空中で方向転換し、受付へと向いた。刻まれたのは恥辱の一歩であった。そんなことなら、無かったことにしよう。私は初めから、受付に足を向けていたのだ。ただ、受付に向かった理由は明らかになっていなかった。

「串がない」

「串? フライパンで焼けばどうですか?」

「それでは、鰻の蒲焼きらしさが無くなるではないか」

 思わず上がる声量を押し殺し主張する私の拘りを聞いた後輩は、少しばかり思案してから大きく話を脱線した。

「先輩。焼き鳥ダーツって知ってますか?」

「なんだそれは。何か関係あるのか?」

 聞くところによると、一テーブルごとにダーツスペースが付いており、基本的に食べ放題で通される。注文した焼き鳥はポイントと呼ばれるダートの鏃部分に肉が刺さった状態で、一皿三本で提供されるらしい。そして、食べ終わったダートを使ってダーツを楽しむというシステムであった。

 それは、どうだろう。衛生面上はもちろん、タレやら塩やら鶏の脂やらでダートが汚れるから、投げる時に手が汚れ、投げた後は的が汚れる。生であろうと、焼いてからであろうと、肉の刺し易さを考えるとポイントには金属製が使われると思われる。焼き鳥は串から直接食べるのが良いのであり、鋭いポイントを口に入れようものなら、肉の味より鉄の味が広がりそうだ。到底、理解しがたい。

 何を隠そう、彼はそれを泥鰌蒲焼きに活かしてはどうかと提案しているのだ。

「どうです? あ、いらっしゃいませ」

 蒲焼きと焼き鳥では、串で焼くことは同じであるが、最終的に抜くのだから、口が傷つく心配はないし、何より、そのダートを投げる必要はない。もしも、鰻であったら開いた大きさはダートでは足りないであろうが、今回は泥鰌である為、ダートどころか、ポイントでさえ串打ちが出来てしまいそうだ。それに、ダート泥棒が残していったダートのポイントは全て金属製である。どうも、理にかなっているようだ。

「申し訳ございません……」

 踏ん切りが付かずにいると、後輩が謝る声が聞こえてそちらを見ると、フロントデスクを挟んだ彼の向こう側には、真っ黒で長い髪を束ね、くりくりとした目の女性が、残念そうに立っていた。

 私はその女性を、痛いほど良く知っていた。

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