秋の日、独走

阿尾鈴悟

一章『彼女と泥鰌、忙走』

第1話

 私は彼女と栄光の為に、独りで走ってきた。

 しかし、未だに叶わないのは、お前達のせいだ。



 この文章を読んで頂けるありがたい読者諸君に、まず、言っておかなければいけないのは、私が少しばかり自己中心的に世界や社会というものを見ているということである。

 そんなものは文中で表せと言う文学の徒よ。どうか、本書を閉じること無かれ。これは私がいかに走り始め、今も走り続けるに至る重要事項なのだ。それに言ってしまえばこれも文中であろう。どうか許して欲しい。

 しかし、自己中心的といっても、あくまで少しばかりであって、それは、幸不幸に関することにおいてのみである。誤解されてはいけない。自分に降りかかる困難と不快は全て、自分が生み出したものではなく、何処からかやってきた理不尽によるもので、その相手に責任を問うことによって、心の平安というものを保ってきた。一方で、自分へやってくる利益に関するものは、自分に寄るものである。自分が行動した結果、誰かから返ってきたのだから、それは、自分のものに違いない。

 そんな、性格の上で成り立った私は、二つの標語をもって人生を歩んできた。

『自分の味方には大きく味方し、最大の味方は自分である』

『自分の敵には最大限の拒絶を持って接する』

 改めて省みると、なんて、最低だろうとも思うが、この二つはどうしようと覆らぬ絶対の掟である。作った当時の私を、今の私が否定しまったら、間接的に今の私を否定することであり、第一項に反してしまう。破棄してしまえば、否定になるものの、今の自分は破棄しているのだから、問題無くなるが、そうしてこなかったのは、結局、この指針が、自分にとって心地よいからであろう。

 では、諸君。長らくお待たせをした。

 それでは、私の走りをとくとご覧あれ。

 あわよくば、拍手と喝采を。



 毎日のように走るのは、陸上競技をたしなむ人間、もしくは、仕事の一部にそれが組み込まれている人間であろう。ただ、私のように、仕事として、ほとんど毎日、階段の上を高速で走る人間は、数少ないと思われる。私でさえ自分が階段を走るまで、そんな人種が存在することを、知らなかったのだ。まず、間違いない。保護して欲しいくらいである。

 基本的な業務がたった、それだけであれば、まだしも、そんなはずもなく、飲み物、具体的に言うならばアルコールの類に、料理の数々の作成、及びそれらの提供から、何か異常があった場合の対処、加えて受付業務、とどめに清掃、と余りに多岐にわたる内容に、私は体だけでなく、記憶力までもが鍛えられていた。

 今頃大学で、お酒も飲める年齢になったことで、思う存分キャンパスライフを謳歌していたであろう私が、かくの如きアルバイト生活に甘んじているのは、なにゆえであるか。



 高校時代、正確には受験も終わった頃、私は青春のツケを払った。そう聞くと、まるで、私が一切の受験に失敗した浪人生のように聞こえるが、そうではない。確かに、勉学そっちのけで、色々とやりたいことをしては来た。だから、私が志望していた大学のいくつかには落ちた。当然の報いである。そこは認めよう。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり。数段、知名度は下がるものの、私は大学に合格していたのだ。なのに、キャンパスライフを送れていないのは、一重に巨大な圧力が私を押しつぶしたからである。

 学生とは基本的に金に困っている生き物である。学生でない今の私でさえ、困ってしまって、わんわんわわんと泣いてているのだから、働く時間も少なく勉学に勤しむ人種はなおさらはずだ。

 だというのに、この国の大学費用はやたらと高い。何処ぞから各種費用を借りようものなら、人生も半ばという頃合いになっても返し終わらず、ついには首が回らなくなり、家族を捨てて路頭に迷うか、北方へ蟹を取りに行くか、夜道で後ろから物理的に首を回され様々な記録から消されてしまうか、などの選択を強いられるほど高い。何にしろ命がかかってくる。

 それでも、大半の高校生が数年の再研鑽を経ようと、最終的に大学へ通えているのは、子供を扶養する親の力が大きい。つまり、学生の運命の割と多くは、親が握っているということだ。

 さて、賢い読者諸君にはもう、お分かりであろう。私が今現在、ほとんど毎日、馬車馬の如く走り回っているのは、私と我が親との仲違いに大きな要因があるのだ。分からなかったらすまない。

 私の母親は教員であった。そのためか、私の教育に力を入れてきた。ありがたいことだが、受け取る側がありがたいと思うかは別である。

 母による教育の押しつけから逃れる為、私は高校に入ってからの成績状況を、必死に誤魔化した。その集大成とも呼べる、あまり有名とはいえない大学の合格通知を見た母は、すぐに父を懐柔し、手付け金の支払いを拒否したのである。

 私は私で、その両親の蛮行を許すことが出来ず、自らで学費を稼ぐと息巻き、アルバイト生活へと陥った。

 頑張ったかと言えば、頑張ってない。とは言え、合格という成果は、誰が何と言おうと成果である。私なりに自分の成績を分析し、ここなら入れると予測して受験した、成果である。



 悲劇の入学金未払い事件から数年、暑さも収まりを見せ始めた秋口のことである。

 私は後輩二人とともに、入っただけで蒸されることも少なくなって、静けさと心地良さだけを残した営業前の店内を、仕方なく目覚めさせようとしていた。

 私のアルバイト先は、全国規模でチェーン展開する、ダーツ業界でも一、二を争う業績を上げている大企業の中の、更に、一、二を争う売り上げを誇る超繁盛店である。だからといって、二桁に近い階数のビル一棟を買い取った上、客数の割にスペースが足りないからと、隣のビルまで買い取ってしまったのがいかがなものか。そのくせ、従業員の人数を大幅に増やすことをしないとは、我々の負担を少しは考えていただきたい。

 昼間はまだ良いが、夜になると、学校帰りから仕事帰りまで、家に帰らない人で受付は溢れ返る。入れ替わり立ち替わり、それはもう、至る所が戦場といって差し支えないことになる。それに向けて我々従業員は朝の内から準備に走らなければならない。昨晩からの汚れがあれば、引き続き清掃をし、大きな袋で来る食材を一食分ずつに別の袋に分け、機械トラブルがあれば、すぐさま直しつつも、ドリンクバーが無い為、お客様の元までいちいち飲み物を運ぶことになる。エレベーターを使おうものなら、お客様が乗れなくなってしまい、店内に階段は無いから、我々は始終、夏、暑く、冬、寒い、ビルの非常階段をかけずり回ることになる。片手で収まるような人数で、これら全ての業務をつつがなく行えと言うのが無茶な話である。

 ともあれ、お給料を貰っている以上は、働かねばならない。一向に貯まらぬ貯金のせいで、辞めるに辞められず、私は店の中でも、位が上がってしまっている。信頼を置かれているからには応えねば。


 営業を開始するには、いくつかの準備を必要とする。与えられた準備時間は僅かなもので、とても一人では終わらない。では、後輩二人を加えた、合計三人で終わるかと言えば、やはり終わらない。だから、基本的に誰もやりたがらない。

 それなのに、今日、こうして来てくれた後輩たちには、多大なる感謝をしていた。彼らは高校生と大学生の青少年である。人手不足に嘆いていた私の為に、どうにか都合を付けてくれたらしい。なんと懐が広い男たちである。「学校はどうした」なんて野暮を働く者は、彼らの覚悟を嘲笑うものと知れ。広すぎる懐からは、金も落ちて行ってしまうのだ。

 感謝するあまり、私は進んで最も大変な準備を買って出た。別に懐の広さを競った訳ではない。それこそ懐の狭さを露呈するようなものである。しかし、後輩たちが尊敬の眼差しを向けて来るなら、特に拒む理由も無い。

 私が担当するのは、やたらと複雑な準備を必要とする厨房である。先に買ったビルの丁度、中央階にあたり、お客様のいない朝くらいはエレベーターに乗り込む。

 一方、後輩たちは、各フロアにあるダーツマシンを起動し、汚れや破損がないかを見て回る。異常さえなければ、厨房よりは簡単な作業である。

 彼らが厨房に駆け込んできたのは、私がエレベーターから降りて、厨房へ入ったすぐ後であった。いくら単純作業の連続とは言え、数が数である。流石に早すぎるのではないか。

「フロアの床が泥まみれになってます」

 慌てた様子の彼らから報告を受ける。

 この時、私の頭の中には、ここ最近、ダーツのある店から恐れられる、ある泥棒の名前が浮かんでいた。

 彼か彼女かは分からぬが、夜間、ダーツ設置店に忍び込んでは、店にあるダートを三本残して根こそぎ奪い去る、不埒で卑劣な輩がいるという。ダートとは的に向かって投げる、ダーツ競技に必要な、羽が付いた手のひら大の矢のことだ。盗まれようものなら、ダーツ店にとって死活問題である。

 泥棒は盗まれたダートの代わりに、泥を置いて行く。泥とはご存知の通り、多く汚いものと扱われる、衛生管理に不要な、水気を多く含んだ土のことだ。汚されようものなら、飲食店にとって死活問題である。

 一体、どのような目的があっての狼藉なのか、死活問題を二つも抱えさせる以外は、何一つ分からない。噂では、ダーツはダートが三本あれば何とかプレー出来るだろうという犯人の考えであるとか、ダートが高騰して高く売れるとか、ダートと英語で泥という意味のあるダートを掛けているとか、色々な憶測が飛び交い、泥が泥を呼ぶ、泥々の泥棒であった。

 ひとまず、後輩に泥の始末を頼んだ。私は急いで受付に戻り、貸し出し用ダートをしまっている引き出しを開ける。そこには、やはり、三本だけダートが入っていた。昨日までヤマアラシを彷彿とさせた無数のダートが、今ではたったの三本だけ。これではヤマアラシも風邪をひいてしまうというものだ。最悪の事態である。そして、残念ながら、ヤマアラシが風邪をひかないようにする手段を、私は持ち合わせてはいなかった。

 対処法がわからないなら、先輩であったり、上司に相談をすれば良い。何事も報告、連絡、相談である。いくら、役職が上がろうとも、社長や会長でもない限り、上は上がいる。私は上司たる店長にお伺いを立てることにした。

 しかし、店長は重役出勤よろしく、お昼以降に店に来る為、電話をする必要がある。ただ、今の時間、店長は確実に寝ており、電話をしてもまともな答えが返ってくるとは思えなかった。

「先輩! トイレが!」

 私の思案をよそに、高校生の後輩が泥だらけで走ってきた。彼について行くと、トイレ一面に、なにやら細長いものが蠢いていた。長いと言っても、その体躯に対してであり、丁度、指くらいの大きさの生き物であった。

 見るからに泥鰌である。

「なにこれ」

「泥鰌です」

 私を案内した後輩が答える。

「それは分かる。どうしてこうなったかだ」

「泥の中に居たみたいです」

 フロアを見渡せば、泥の一欠片も見あたらなかった。彼が言うところによると、後輩二人は泥捨て場に頭を悩ませたあげく、ビニール手袋で泥を掬ってはトイレへと流し始めた。その段階で、色々と言いたいのだが、恐るべきは、泥鰌の生命力である。泥鰌たちは必死に逆流して来たという。確かに泥鰌は身の危険を感じると泥の中へ潜る。それはまあ良い。けれども、トイレの流れにすら逆らえるとは、思っても見なかった。酸素不足にも負けず、激流にも負けない、丈夫な体である。およそ信じがたいが、現実として突きつけられている以上、過程はどうあれ信じるしかないようだ。

「とりあえず、このトイレは閉鎖した方が良さそうだな」

「他のトイレは?」

「まさか、そっちも?」

 それな大惨事である。

 当店においてトイレとは、ダーツ本体にも近い最重要設備である。なぜなら、ダーツをする場だけでなく、アルコールを含んだ飲み物を提供する為、便座を抱えて飲み過ぎの報いを受ける人間が、相当数現れる。トイレが使えないと言うことは、フロアの床が泥よりも酷いもので汚れてしまうのだ。それは、なんとしてでも防がなければ。

「というか、泥が」

 時計を見れば、開店に掛けるだけの時間の半分が経っていた。今のところ、一フロア分の用意しか終わっていない。これは確実に終わるはずのない時間だ。こうなっては、名誉ある撤退を取るしかない。

「このフロアの泥鰌をどうにか、移動してくれ。しばらく、このフロアだけで営業しよう」

「トイレに手を突っ込めと?」

「じゃあ、俺の代わりに機嫌の悪い店長に電話するか?」

 何とか、後輩を言いくるめ、私は急いで店の電話がある、受付へと戻ると、そこには、まだ、扉を開けていないというのに、一人の中年男性が居た。今日は、なにやら異常が多すぎるのではないか。

「私はね。鰻が食べたい」

 何を宣うかと思えば、私に直接は言わないものの、もってこいと言わんばかりに空中に向かって、なんだかありがたい言葉のように、彼は呟いた。

 近年、絶滅寸前と言われるほど鰻がその生体数を減らして居ることは周知の事実であろう。危惧する気持ちはあれど、我が国ではある特定の日には鰻を食べるという風習に加えて、あの無類の味わいである。どうしたって鰻を食すことをやめられるはずがない。今では、専門店、及び、スーパーマーケットの販売価格は向上し、私には手が出しようのない、他とは一線をかくす高級品となっていた。

 この中年男性は鰻おじさんといい、なんだか細長いものの動く気配を感じ取ると、どこからともなく現れて、鰻を要求する、何とも非常識が服を着て歩いているような、悪名高き『長屋の住人』と呼ばれる秘密組織の男である。

 彼らは刻まれた鰻を求める遺伝子にあらがうことのできない人間によって結成させたとも、細長い生物専門の研究組織とも、鰻を食す文化を牛耳ろうとしているとも噂される秘密結社であり、私の前にいるような男から、政府の重役に至るまで、多岐に渡る人脈を持っているものの、他人にとって迷惑であることには違いないことをしている厄介者であった。

 突然の要求に応えられる店などごく少数であり、仕方なく、断ろうものなら、彼らは鰻について、誕生から蒲焼きに至るまでを、まるで経験したかのように語る。さらには、詳細な作り方や、由緒ある歴史を語り、貴重な時間を潰されるという。一方で、もし、叶えることができたなら、幸福が訪れるとも噂されるが、幸福が訪れた店を見たことがない為、真偽の程は定かでない。

 店を開くものであれば名を聞くだけで逃げ出したくなる、世間を騒がせる存在である。勤める店がダーツ店である為、ダート泥棒にばかり気を取られていた。

 しかし、鰻おじさんの理不尽な要求などに屈する私ではない。毅然とした態度で断っても良かったのだが、何分、開店まで時間がなかった。聞くところによると、彼の話は半日にも及ぶという。そんなものを聞いている暇はない。話したいのなら、同じく暇を持て余して居るであろう、ダート泥棒とでも話して、お互いに被害を食い止めて貰いたいものだ。私は警察に頼ることにした。

 今一度、彼に待つよう、満面の営業スマイルで説得しながら、流れるような動きで電話の子機を手に取る。驚くべき紳士的な私の対応には、鰻おじさんもなす術無かった。後ろ手に隠した私は、厨房へと戻った。

 誠に地獄のような店である。

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