第26話 TEARは何とかすることにしたのだ。夜明けが近かったが。

 後にTEARに聞いた話である。


 ばたん、とひどい勢いで玄関の扉は開いて、また閉まった。


「FAVさん? お帰りっ」


 まだぼんやりしている視線を動かしたら、湯気が流れてくるのが見えた。

 アルトの声がやや響き加減にFAVの耳に届く。どうやら相棒は風呂に入っているらしい。はあ、と息を大きくつくと、そのまま靴も脱がずにFAVはその場に座り込んだ。


「FAVさん?」


 アルトの声が降ってくる。

 はっとしてFAVは顔を上げると、まだ身体から湯気を立てている相棒が心配そうにのぞき込んでいた。


「何、もう中に入っていると思ったのに… どしたの? てっきり今日はそのままスタジオに篭もるかと思っていたけど」


 TEARは長い髪を器用にタオルでくるみながら、それでもTEARはその場にしゃがみこんで訊ねる。


「…そのつもりだったんだけど…」


 うん、とTEARはうなづく。FAVはそれ以上言わずにふるふる、と首を横に振る。ああこれはなかなかダメージを受けているな。TEARはそのまま立ち上がった。


「まあ靴脱いで、中入って、お茶でも呑もう」


 そうだね、とFAVもつぶやいた。ひどく、足が重かった。ああそうだ、ずっと走ってきたんだ、とようやくその時FAVは思い出した。

 のろのろと靴を脱ぐと、足を引きずるようにしてキッチンへ向かう。前に住んでいた部屋よりは今の部屋の方が大きい。キッチンもちゃんと小さなテーブルくらい置くことができる程度の大きさはあった。

 居住人の数よりいくらか多い椅子の一つにFAVはかけると、頭を抱え込む。ステンレスのケトルが悲鳴を上げ出して、ようやく彼女はその手を頭から外した。


「どうしたんよ」


 TEARはとん、とぶ厚い湯呑みをFAVの前に置く。すると彼女はそれをいきなり取り上げた。TEARはそれを見て慌てて、


「まだ熱いって」


と猫舌の相棒に注意した。


「…あ」

「かなり変だよ、FAVさん」

「…変… 変だろうな、きっと」

「絶対変」

「そこまで言うこたないだろ?」

「変は変って言ってるだけだよ。何、また曲のアレンジ、煮詰まってるの?」


 違う、とFAVは首を横に振る。まあそうだろうな、とTEARは思う。

 FAVは負けず嫌いだから、煮詰まったらそのままスタジオに篭もって、出来るまでするのが普通なのだ。逃げ帰るなぞ彼女のプライドが許さないだろう。

 とは言え彼女の煮詰まりなどHISAKAのそれに比べれは大したことはないから、TEARも黙認しているのだが、その程度がHISAKAと同じくらいになるような様子が見えたら、必ず彼女はスタジオからFAVを引っ張り出すだろう。

 そして気分転換とか何とか言って疲れはてるまで遊ばせるだろう。

 だが、どうも今日のはそういった関係のこととは違うらしい。


「スタジオにMAVOが居た」

「MAVOちゃん? 珍しいね、こんな時間に」

「うん、あたしもそう思った」

「HISAKAも居たの? じゃあ」

「さあ」

「さあって、FAVさん」


 TEARは濃い眉を軽く寄せる。


「知らない。とにかくあたしが行った時には、MAVOしかいなくて」

「うん」

「何か、変だったから、カマかけてみたら、MAVOの奴、タイセイと寝たらしい」

「まさか」


 TEARはどん、と湯呑みをテーブルに下ろした。勢い余って、半分くらい入った茶が飛び跳ねた。


「だから、当初はカマかけただけなんだよ。ところがあいつ、全然顔隠せねーのよ」


 ああ全く、とつぶやきながら、FAVは明るい金と赤の混じった髪をかき回す。ようやく冷めてきた茶を一口含んで、次の言葉を考える。


「何で」

「あたしが知るかよ!」


 そりゃそうだな、とTEARもやや撫然とした表情になる。そして棚に置いてあったティッシュペーパーを一枚抜くと、こぼれた茶をていねいにぬぐった。


「そりゃタイセイがMAVO好きだってことは知ってたけどさ、MAVOがそうするとは思わなかった」

「ショック? MAVOちゃんのことなのに」

「うん」


 それは珍しい、とTEARは思う、この相棒が、ショックをショックと自分に対して素直に口に出すことは滅多にないのだ。


「でも」


 FAVはぶるっと身体を震わせる。


「本当にショックだったのは、そっちじゃないんだ」

「え?」


 FAVは両手で自分の身体を抱きしめる。そして確かに、微かに震えて続けていた。


「それはそれ、で別にいいんだ」

「…? どうしたの?」

「だから、それはいいんだ。MAVOが煮詰まっていたからそういうことに走ったとしても、別にあたしが文句… 口出す筋合いじゃねえ。…そうじゃない、違うんだ」

「何が?」

「すごい、怖かった」

「怖かった? 何が?」


 さすがにこれはただ事ではない、とTEARは感じた。そしてそれまでFAVの正面に座っていたのだが、彼女の横の椅子へと掛け直した。

 確かにかなりおかしい。そこでわざわざ横の椅子に来ると、嫌みの一つでも飛ばすのがFAVなのだ。

 なのに、何も言わない。それどころか、横にTEARが座るなり、その腕を両手で掴んだのだ。

 手からは震えが伝わってくる。脂汗がにじんでいる。掴まれていない方の手でTEARは相棒の肩に手を回して、ぽんぽんと軽く叩く。


「何が、怖かったの?」

「MAVOと… 自分」

「MAVOちゃんと? FAVさん自身?」

「そ」


 手に込める力が強くなる。


「あれは、何?」

「何って…」

「あたし一瞬動けなかった」

「動けない?」

「TEARあんた、MAVO見て何かしたいと感じたことある?」


 FAVは訊ねる。


「何か?」


 問い返す。その何か、がどちらのレベルのものであるか、一瞬TEARは迷った。日常の遊びのレベルの話なのか、それともそうでないモノの話をしているのか。

 とりあえずTEARはかまをかけてみる。


「そうだね、まあ可愛い可愛いと撫でくりまわしたくはなるけれど」

「そういう意味じゃなくて」

「そういう意味じゃなくて?」

「あたしにいつもするみたいなことを、したいと思ったことがあるかってこと」


 これはショックがかなり大きかったな、とTEARは感じた。少なくとも普段のFAVなら、自分にこんなことを聞く筈がないのだ。

 聞かずにいられない程のことがあったのか。それとも。

 だとしたらきちんと聞いても答えるのかもしれない。TEARは戦法を変えることにした。


「あたしはない」


 きっぱりとTEARは言う。


「少なくとも今のところはない。FAVさんあったんだね」

「信じられない」


 信じられない。それはTEARにとっては現在の状況だった。腕を掴まれるどころではない。FAVはいつの間にか自分にしがみついているのだ。そんなことはなかったし、そうそうあることではない、とTEARは自覚している。だから慎重に訊ねた。


「あった訳だ」

「そうよ、あたしはあたしが信じられなかったわよ。じょーだんじゃない… あの子のうるうるした目見てたら、その下の唇にキスしたいなんて思ってしまったわよ、その下の首すじに舌這わせたいとか考えてしまったわよ。何だか判らないけれど、無性にぎゅっと抱きしめたくなっちゃったわよ。何でよ?どーしてよ!?あたしに一体何があったっていうんだよ!」

「まあ落ち着いて」

「落ちつけ、だって!?」


 だがFAVは無理矢理落ち着かされた。TEARは力一杯自分の目の前の相手を抱きしめていた。



 判らなくもなかった。TEARは以前あたしについて気付いたことがあったらしい。

 あたしは無意識に人を誘っているらしい。

 だがTEARにとって、あたしはそもそも守備範囲ではなかった。そしてあたしにとっても、TEARは別格の「いいお姉さん」だった。結局、相互の目的が一致して、TEARはその誘いとは無縁でいられたらしい。

 だがFAVは。

 PH7の中で、あたしがTEARとHISAKAに関しては保護者的な目で見ていることを彼女は知っていた。それは年齢とかそういうものではない。あくまで性質だ。

 あたし自身、HISAKAとTEARにはそういう態度を取っているらしい。被保護者の態度という奴だ。保護してもらうための甘える態度。そしてその態度に対し、TEARもHISAKAも甘やかすという行為で返しているらしい。

 P子さんは、少し上の優しい先輩、という立場だった。保護者よりは甘える度合いは少ないが、その分本音の部分が増える。

 そしてFAVは、一番上のはずなのに、あたしにとってはクラスメートか部活の同僚のような感触があった。

 つまりは一番他人であり、一番本音の部分で近しい相手。

 FAVが常々あたしに対して、ある程度同族嫌悪の部分を持っていることをTEARは知っていた。あたしもまた、昔の自分を見るようだとエナにそういう感情を持ったことがある。

 FAVとあたしはその部分で近かった。

 だがそういう近さを持っていたゆえに、あたしの「誘い」はFAVにも向けられてしまう。

 そこに「保護者」に対するような心理的禁忌が存在しない。

 その証拠に、あたしはHISAKAを誘っていない。それはTEARの見た通り、本当だった。HISAKAは自分がそうしたくてそうしているのだ。あたしがどうこうという問題ではない。



 次の瞬間、TEARは本当に驚かされる。FAVが急に腕を回してきたのだ。何とかしろ、と彼女はうわごとのようにつぶやく。

 そしてTEARは何とかすることにしたのだ。夜明けが近かったが。

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