第19話 「最近服の趣味変わったね」
1989年、12月。
メジャーデビュー用のアルバム製作が次第に詰まってきた。各自が各自の担当に毎日気が済むまで取りかかっている。
PH7は、10月に大手レコード会社のPHONOと正式に契約した。そして3月にアルバムでメジャーデビューが決まっている。
マリコさんが去った8月からこの方、あたし達は目の回るような日々を過ごしていた。
彼女が消えたことを知った時、まず一番に驚いたのは、TEARだった。ああそれじゃ、と自分が最後に彼女に会った時のことをかいつまんで話した。尤も、マリコさんが彼女にした警告に関しては、一言も口に出さなかったが。
次にショックを受けた様だったのは、エナだった。
「それであんなにあたしにお茶の場所とか入れ方とかを…」
HISAKAは皆に、彼女は急に親戚が呼び戻したのだ、と説明した。マリコさんは親戚だ、とメンバーに説明はしてあったが、どういう親戚であり、他にどういう係累が居るかということは一度も口にしたことはない。
FAVは彼女の料理の腕を惜しんだ。そして逆に、いつも彼女の料理に感動しているTEARはそのことについては触れなかった。あんたにしては珍しいじゃん、とFAVは相棒をからかっていたが、生返事の相手に、やがてそうするのをやめた。
「大丈夫ですか?」
とP子さんはあたし達に訊ねた。
「何が?」
「いやあんた達、生活は…」
「仕方ないわね、なるべく自分のことは自分でするし、…忙しくなりすぎたら、ハウスキーパーさんを雇いましょ」
TEARはため息をついていた。全く金持ちという奴は、と。
そう。確かにそうだった。実際あたしはともかく、HISAKAは続かなかった。彼女には生活という項目がことごとく抜け落ちている。
とは言え、あたしは自分のことは自分でしていた。こういうことは、やろうと思えばできるのだ。
あたしもHISAKAも特に、音楽活動以外にバイトとかしている訳ではないから、家事をある程度するくらいの時間はある。
もちろんマリコさんの居た時のように、家中がピカピカになる程ではないが、まあ住んで住めないことはない程度に、家の中をキープしておくことはできた。
それに、HISAKAはこのあたりから、リーダーとしてレコード会社との話し合いの時間がずいぶん増えてしまったらしい。殆ど毎日の様にPHONOの人と会う約束があるとかで出かけるようになっていた。
すると必然的に、外食が増える。あたしはそれでもある程度、自分の食事は作っていたし、朝は彼女の分も用意するくらいのことはできた。
だが、キッチンは次第にすさんできたと言ってもおかしくはない。そこはマリコさんの砦だった。彼女は自分の居場所を、自分の居心地の良いように整えていた。あたしにそこまではできない。する気もない。
それまで、あたし達はよくキッチンで話し込むことがあった。例えば夕食の後、例えば朝食の後。今日は何をしよう、明日は何をしよう、これからどうすればいいか、ライヴは… ツアーは… 曲は…
だが、キッチンは、もうそうするべき場所ではない。
あたしは自分の部屋か、居間か、スタジオで日なが暮らすことが多かった。スタジオに居ると、メンバーの誰かしら訊ねてくる。
そしてある日、TEARが言った。
「最近服の趣味変わったね」
彼女は鋭かった。実際服の趣味は変わっていたのだ。少なくとも、家事をする時にはひらひらのものを着る訳にはいかない。いくらコットン100%の、洗濯のしやすいものであったとしても、動きにくいことには変わりはない。
クローゼットの中から、そのブランドであっても、シンプルなものを着込むようになっていた。例えばTシャツ、例えばストレートのスカート。ジーンズ。
「でもその方が似合うと思うけど」
TEARが来た時、あたしは雑巾がけの途中だった。上はTシャツで、下はジーンズだった。長い金髪は、バンダナで後ろで一つにくくっていた。
「そお? じゃまた今度買い物に付き合ってよ」
「またあの店?」
「ううん」
あたしは首を横に振る。
「も少し楽なものを着るわよ。お出かけならともかく、普段アレでお掃除もお洗濯もできやしない」
ふうん、とTEARは意味深にうなづいた。何よ、と問い返すと、彼女は何やら少し考え込んだ。
「いや、好きで着ていた訳じゃあなかったんだな、と。何か今更だけど、思ったからさ」
「好きで着ていたわよ」
「とてもそうは見えなかったけどな、あたしには。何やら見せつけるが如く!」
「そうだった?」
あたしは苦笑してみせる。
「何でわざわざあんな鎧みたいな服を着るのかな、と思ってたんだけど」
「鎧」
頭の中には、中世の騎士の甲冑と戦国武将のそれが浮かんだ。そしてその次には、彼らがその…TEARの言うところの「鎧」をまとった姿が。思わずあたしは吹き出す。
「何よそれ…」
「だってあれって、木綿の鎧だってあたしゃずっと思ってきたからさ。おかげで全然あんたの結構可愛い、柔らかい身体の線まで見えなかったし」
「そういうことはFAVに言っていればいいの」
「あのひとはいいの。あのひとはそういうこと言われたくないひとだし。でもあんたは違うだろ? 別にそれがいいとは思わねえけどさ、『いい身体』してるだろ? 一般論だよ?」
いい身体の代表のような女は言葉を選びながら言う。彼女は決して自分がとびきりの「いい身体」であることは好きではないのだ。
「…ま、あたしは隠しても滑稽になるってのは判ってたからしなかったけどさ… あんたは隠してなかったか? MAVOちゃん」
「隠している気はなかったけど…」
隠さないだろう元の持ち主に対する対抗意識はあった。確実に。
「いいじゃない。別に隠そうが隠さないだろうが…気が変わったの。それだけ。家事しなくちゃならないじゃない。HISAKAがああいう人だし」
「ああ… HISAKAは今日も御会見?」
「みたいね」
「でもまあ、助かったよ」
あたしはきょとんとする。
「何とか今年度中にはメジャー行きできそうで。そうできなかったら、ああ全く!」
考えるだけでも恐ろしい、と身震いをする。そう言えば、この人は家族とそう約束していたのだ。
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