第18話 「もしあの二人の動きが不穏だと思ったらすぐに手を引くのよ」
見てしまった。
夜明け近くに、TEARは目が覚めた。
さすがに他人様のお宅では、相棒にあれこれする訳にもいかないらしい。ほとんど服も脱がない状態で、TEARは居間で寝ていた。
庭があるから、この家は夜になっても防犯のためとカーテンを閉めることは少ない。二重になってはいるが、レースのカーテンだけが「ご希望にお答えして」とばかりに閉まっていることが多い。
だから、月の明かりが、ふと開いた目に妙にまぶしかったらしい。
身体を起こして、何となく外を眺めたら、庭に誰かが居るのに気付いた。そのシルエットは女だった。不法侵入者か?と一瞬考えたが、やがてだんだん慣れてくる目には、それがマリコさんだと確認できた。
TEARはそっと窓を開けると、裸足のまま芝生の上に降りた。この家の庭は、この家のキッチン同様手入れが綺麗にされているので、裸足で歩き回っても大丈夫だ、と以前聞いたことがあった。
確かに、マリコさんだった。だがいつもと格好が違う。寝間着かとも思ったが、そういう訳でもない。それは紺のワンピースだった。夜に着るものでも、ましてや早朝に着るものでもない。昼の日中、何処かへ出掛けるひとが身につける類のものだ。
ぼんやりと、一つ一つの植木に触れ、時にはしゃがみこみ、何かをつぶやいている。
「…マリコさん」
反応なし。
「…マリコさん!」
ふっと彼女は顔を上げた。さらさらとした髪が、いつもの上げられ、ひっつめられたものとは違っていた。重力に逆らうことなく、それは全て下に降りていた。
彼女はすっと立ち上がった。そしていつもとやや目線の位置が違うことに気付く。彼女はヒールの高い靴を履いていた。およそこの芝生の上には似合わない格好だ。
「どうしましたかTEARさん、こんな時間に」
「それはこっちが聞きたいよ。あたしはただちょっと目が覚めてしまったから」
「ああそうですか。私もです」
ふわり、と彼女は笑う。月明かりでもその表情は判る。
「何してたんですか?」
「何って?」
「木や花に水を?」
「やだTEARさん、私の何処に如雨露があって?」
両手を広げて見せる。何処にもそんな気配はない。
「少しだけ私の愛しいものにごあいさつを」
「ごあいさつ?」
「ええ」
何のあいさつだろう。ざわりとTEARの中に不安の影が走る。
マリコさんはTEARに背を向けると、庭にある木々や花々一つ一つの説明を始めた。興味ない人なら眠くなりそうな話題だったのに、妙にそれは頭にはっきりと飛び込んできた。
「この家に来たとき、前の家に咲いていた薔薇を植えたのよ」
「ああこれですか」
「ううんこれは違うの。最初に植えた薔薇は、すぐに枯れてしまったわ。きっと土が合わなかったのね。でも私どうしても薔薇が欲しかったから、こっちへ来て園芸店に飛び込んで苗を買ったのよ。全部の品種、全部の色を下さいって。そしてうちの塀の周りは全部いろんな薔薇で埋まったのよ」
「前は何処に住んでたんですか?」
そういえば、とTEARは思う。彼女達がここへ来る前のことは、断片的にしか知らない。あたしの傷跡とその原因についてちら、と聞きはしたが、その他のことなど結局ほとんど判っていないのだ。
「TEARさん」
不意に名を呼ばれてTEARははっとした。
「あなたはあの二人のことをどう考えてますか?」
「あの二人って… HISAKAとMAVOちゃんのこと?」
ええ、とマリコさんはうなづいた。
「どうって… 別に…」
「好きですか?」
「ああ? 好きだよ? MAVOちゃんの声もHISAKAのドラムも滅多にいないタイプだし」
「それだけですか?」
「何を言いたいんですか?」
くるり、とその時彼女は振り向いた。その時TEARはマリコさんがいつもと違う姿であることにようやく気付いた。
そしてその時初めて、彼女が美人であることに気付いた。
何故気付かなかったんだろうか、とTEARは愕然とした。月明かりの中に、いつもは後ろに回してひっつめている髪を下ろし、エプロンではない服ですっと立っている彼女は… 身震いがする程綺麗だった。
切れ長の目も、最高のバランスで描かれた眉も、通った鼻筋も、すんなりした唇も。紺のタイトなノースリーヴのサマードレスは身体の線をそのまま浮かび出す。大きすぎず小さすぎない胸。その回りに無駄な贅肉はない。ほっそりとした腕。だがその中には力強さが感じられる。そしてまっすぐな足。服と同じ色の高いハイヒールを履いて、ぐらつきもしない。
それの変貌のショックは、HISAKAがメイクをした時に感じるものと近い。だがHISAKAだったらTEARはもう見慣れている。ところが。
「別にそれ以上どうこうしろって言うんですか?」
「いいえ、そういう訳ではないわ」
歌うようにマリコさんは答え、手をひらひらと振る。
「ただ、あなたの本当の気持ちを知りたかっただけ」
何なんだ、とTEARは思う。
確かに言われていることに間違いはないが、それが彼女の口から流れた途端、まるで好きな人へのコトバ遊びのようにも聞こえる。マリコさんが自分をそういう対象で見ていないことは知っている。彼女がHISAKAとあたしの関係をそう好ましく思っていないこともTEARは知っていた。
だから余計に、何故今彼女がそんなことを切り出すのか、TEARには全く判らなかったのだ。
「MAVOちゃんは可哀想な子だ」
「そうね、可哀想」
「だから好きな声を持っている彼女が、上手く歌えればいいと思うし、彼女のために曲も書きたいと思う」
「そうね、それは確かに」
「HISAKAは… ドラムとかピアノのこともそうだが、持ってるヴィジョンに尊敬できる。あたしが見ようと思っても見られない所まで見通せるその目が」
「ええそうね。あのひとは本当に見通しがききすぎる筈なのだけど」
マリコさんはそこで言葉を止めた。TEARは次の言葉を待った。だがその続きは無かった。流れ出たのは、別の言葉だった。
「ねえTEARさん、もしあの二人の動きが不穏だと思ったら、すぐに手を引くのよ」
「は?」
TEARは問い返した。不穏?その単語は滅多に彼女の中には出てこないものだった。
「どういうことですか?」
「説明はないわ。約束して」
「…」
仕方ないわね、という表情で彼女は笑う。
笑ったように見えただけかも知れない、と後でTEARは思った。
*
そして一週間後、マリコさんが姿を消したことをTEARはHISAKAからの電話で知った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます