第6話 「あのひと」は洗面所へそのまま行って、手を洗っていた。
「何かものすごく変な気がした」
「変な気?」
「何でかは判らないんだけど…… どうしてそんなことできるのかな、されるのかなって。ハルさんあった?」
うん、と彼女はうなづく。
「ウチは結構そういうのは人前でもする方だったから」
「ふーん…… そぉなの」
そんな気はしていた。
「それで、小さな、幼稚園だの小学校の時、何かすごく不思議だったから、当時のクラスメートに試してみたの。そんないつもされてることだったら、あたしがしても怒らないかなって。抱きついたり撫でたり」
「怒られたことある?」
「あのひとは怒ったわ。汚いもの触ったみたいに、慌てて払いのけて…妙に覚えてるの」
実際そうだった。それは本当に今の今でも映像が明確に浮かぶ。
小学校一年の時だ。思い切って、帰ってきた「あのひと」に、お帰りなさい、と学校で習った通りに言って、背の高い「あのひと」の膝に向かって走り寄って腕を巻き付けた。
そうしたら、何するの、と「あのひと」は声を荒げた。離れなさい、とぐい、と肩を押しながら言った。
あたしは驚いて、慌てて離れた。
そして、「あのひと」は洗面所へそのまま行って、手を洗っていた。
別にこんなことをしてはいけない、と言われた訳じゃない。
だけど、その姿を見た時、クラスの誰かを仲間外れにした時のことを思い出した。直接的にあたしがそうした訳じゃなく、ただ見ていただけだったけれど。
その時の中心になっていた子は、外れにされた子に思いがけなく触った時には、手を拭いたり、他の子になすりつけたり、これ見よがしに洗いに行った。
今でも覚えている。だけどその頃はまだ本当に知恵も回らない子供だったから。
「でもそれはあのひとが、そういうことしない人だからかな、と思って、うん……『実験』。実験のように、あたし、とりあえず学校で遊ぶ子達にけっこうべたべた触っていたことあったんだ」
どうして判らなかったのだろう?
「そしたら?」
「さすがにうっとぉしがられたわね」
はあ、と彼女はため息をつく。おそらく彼女にも似たような記憶があったのだろう。ただ彼女はどう見ても「べたべた」をする方ではなかったろうから、「された方」としての記憶。
今現在の、特別な感情を持っている相手ならいざ知らず、子供の頃の、特別でもない相手にべたべたされるのは、彼女自身うっとうしいと思ったことも多かったのだろう。
「だから別に、どうってことないんだけど。当時の先生ってのが、まだ大学出たてで、何か熱血だったのよ。女の先生なんだけどね。で、これはちょっとおかしいんじゃないかって、家庭環境が悪いんじゃないのかって、うちの親、呼び出したの」
「それはそれは」
ハルさんすらそういう感想を述べる。全くもって意味の無いことだ。
「それでどうしたの?」
「あたしはその場に居た訳じゃないけど。呼び出されて来たのは、その時のハウスキーパーさん。まあ悪い人じゃないけど、できれば時間で帰りたい人だったのね。そういう人が多かったわ。だってちゃんと時間が来ると待ってたようにあたしにあいさつして帰った人だもん」
「よく言えばビジネスライク」
「うん。別にそれが悪いとは言わないけどね。ただ昼間家に居るのはその人だけだったでしょ?だからその人が呼ばれて、またその若い先生も熱心に話す訳よ。あたしはただ試したかっただけなのにね。でそのハウスキーパーさん、帰り道で言ったわ。『もうあんなことしちゃ駄目ですよ』って」
「あんなこと、ね」
「理由も何も聞かない。当然よね。彼女には別に関係ないんだから。あたしの保護者でもないし、あたしに必要以上に親切にしなくてはならない義務もないもの。ただその時のあたしはまだそんなこと知らなかったから、訊いたのよ。『どうしてしちゃいけないの』って。そしたら言ったわ。『そういうことを無闇にやる子は嫌われますよ』って。であたし止めたわ。いい加減判ってきてはいたしね。別にその人の言葉に納得した訳じゃあないけど」
「ふーん」
「それからずっと誰にも、できるだけ触れないようにしてきたのよ。それこそ運動会のフォークダンスくらいじゃないかな。それも嫌がられるの、嫌だったから、できるだけ、指だけとか、ほんのちょっとしか触れないようしてきたけど」
「でも女子校だったんでしょ?」
「うん。でも何かそういう時って緊張するじゃない。そうするとじっとり手が汗かいて。でそれを心配するとさらに汗ばんできてとかさ。そういうのって、やっぱり気持ち悪がられるんじゃないかって思ったりして」
「それはちょっと神経質すぎるんじゃない?」
彼女はやや苦笑する。肩に回した手が、あたしの髪に入り込む。
「どうなんだろ。とにかくその頃はそう思ってたし」
「触れちゃいけない、触れられることはないって?」
「うん。だから、あたしが、そういうことするとは、思ったこともなかった。あたしが当事者になることは、考えられなかった」
へえ、と彼女は受け流す。でも言ったことは本当だ。あの「サカイ」も結局は触れなかった。どれだけ面白い話をしてくれても、いい所へ連れていってくれても、決してあたしに触れてくれることはなかった。
「で、そう実際になってみて、やっぱり変だった?」
「ううん」
あたしはゆらゆらと揺らされながら首を横に振る。
「何か、すごく、気持ち良かった」
それは本当だった。あれは、あたしと彼女の「敵」が共通の人物ということが判った時。あたしは何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
柔らかい腕だった。その柔らかい腕が、思いがけない強さで、あたしを抱きしめた。自分ですら意識的には触れない所へ指を唇を走らせた。
驚いた。そしてひどくその瞬間、あたしは落ち着いた気分になっていた。何って言うんだろう?
クラスメートは、どきどきしたとか、めまいがしたとか、そんなことは言っていた気がする。
初めてだし上手くいかなかったとか、そんなことも含めて、女の子というものは、結構事細かに話すものだ。
だけど、その時の感じは、彼女達が言ったようなことのどんな例にも当てはまらなかった。あえて言うなら、土砂降りの雨の中から帰ってきて、シャワーを浴びて、タオルを掛けて、窓の外の雨の音を聞いている時のような安心感というのだろうか?
そうじゃなかったら、冬の寒い日に、暖房のよく効いた部屋でホットチョコレートを飲んでいる時のような。
「へえ……」
「それっておかしい?」
「さあ」
つられたようにゆらゆら、と彼女も首を横に振る。
「あたしには判らないわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます