第7話 1988年、新しいメンバーは。
それからしばらくして。
*
へえ、とTEARはその部屋に入った瞬間、声を立てた。どうしたの、とあたしは訊ねた。
1988年、夏。新しいメンバーは、高い身長と、大きな胸を持った女だった。
「いや本当にあんたの部屋かな、と思って」
「あたしの部屋よ」
あたしは反射的にそう返していた。そうムキにならなくてもいいのに、とTEARはどんぐり目をさらに大きくして驚いてみせた。
「何か変?」
「いや変と言うか、あんまりあんたのイメージとは合わなかったから」
「そう?」
前の年の秋に引っ越してきたこの部屋は、前の家の部屋にあった家具がそのまま置かれていた。ベッド、クローゼット、机にドレッサー……
「そんな合わないかなあ」
「うーん…… いや、そりゃ、あんたが単純にあのヴォーカルのMAVO、と言うんだったら、ああ結構そうかなとも思うんだけど」
「だけど?」
あたしはTEARの言葉じりを捕まえる。TEARはあたしの肩にぽんと手を置いた。
「このMAVOちゃんのイメージじゃあないな、と思って」
「そう?」
「そうだよ。少なくともこの恰好には合わない」
言われて、あたしはドレッサーの鏡に映った自分をちらり、と見る。
*
そして夏が終わり、秋が深まる頃、メンバーが揃った。そしてそれにくっついて、状況が一つ加わった。
「まあ別にバンド内恋愛は禁止しないけどね」
とのリーダーのお言葉に、禁止したらあんたはどうすんだ、とTEARはにやにや笑いを顔に貼り付けてHISAKAに言い返した。もちろんHISAKAはそれには黙って笑っただけだったが。
最後のメンバーの加入に対しては、TEARは浮かれていたし、P子さんは割合冷静だった。もともと自己主張の激しくないギタリストは、楽になる、と言った程度だった。そしてそれはそう嘘ではないことはメンバーの誰もが知っている。
そしてあたしは。
FAVは、あたしにとってやや苦手なタイプだった。
何が苦手という訳ではない。何となく、苦手なのだ。
最初がまずかったのかもしれない。タイミングという奴だ。
FAVが最初に音合わせに来た日、どういう具合か、あたしは彼女との会話の歯車のかみ合わせを誤ってしまったらしい。何が原因かはあたしには判らない。どうしてFAVが怒ったのか判らないのだ。
だが何気ない言葉だったにも関わらず、それはFAVの何処かを刺激し、FAVは苛立ち、あげく、あたしの見られたくない部分を暴き立ててしまった。
まあおそらくは、あたしの方も彼女が見せたくない部分を暴きたててしまったのだろうが。
あたしはあれから時々、ぼんやりと手首のブレスレットを外して見る。
決して消えないだろう跡が、大きく斜めに走っている。あの崖の上で、本当の名前も知らなかった相手に「殺された」跡。
FAVにそれを暴かれた時、TEARに以前そうされた時よりも明らかに、動揺は凶暴な怒りに変わった。TEARの時は反射的だった。まだ明確な意志はそこにはなかった。
妙なものである。自分でこうやって開いて眺めて、撫でている分には問題はない。HISAKAやマリコさんにも問題はない。そして一度そのことを知った友人達にも。
どうしよう。いつまでもこんな風に隠していたところで、何にもならないのは判っているのだ。
だがそれは理性だ。感情はそう簡単には動かない。
*
「そうですよね」
とP子さんは言った。
「でも別に誰も気にしやしないと思いますよ」
「そぉ?」
「隠されたものは見たくなるかもしれないけれど、開けっ放しにしてあるものは」
「そうかしらね」
「そうですよ」
あたしはP子さんの目の前で、ブレスレットを外してみせた。こんなのがあるのよ、と表にし裏に返し、見せつける。
P子さんは表情一つ変えなかった。そして無造作にその手を取る。ぴく、とあたしの身体に電流のようなものが走る。身体がこわばる。
「ああ、ひどい傷だったんですね」
穏やかな声が耳に入る。あたしは急に、身体が楽になるのを感じた。こわばった身体から、力が抜けていく。
「痛かったんでしょう?」
P子さんは訊ねた。ひどくそれは自然な問いかけだった。あたしは反射的に答えていた。
「判らない」
「可哀想に」
「本当にそう思うの?」
それはおそらく、あたしに関わった人間が言うのを、ずっと躊躇していた言葉だろう。
「ワタシがアナタに嘘ついてどうするんですか?」
「でも誰も、そんなこと言わなかったわ」
「ああ、皆優しいですからね。そんなこと言ってはいけないと思ったんでしょう」
そうだろうな。皆考えすぎなのだ。だけど。
「でもP子さん、あたしは言って欲しかったのよ」
「……」
「すごく、言って欲しかったのよ。可哀想だ可哀想だ、と思いっきり憐れんでもらいたかったわ。どんなことがあったのとか、誰がそうしたの、とか聞いて欲しかったわ」
だけど、誰も訊かなかった。だからあたしは、「あのひと」に対する恨み言を口に出すことができない。
「仕方ないですよ」
とP子さんは言う。
「みんな、ある程度、自分だったらどうしようって思うじゃないですか。HISAKAもTEARもFAVも、自分がそうなった時に、決してそう言ってもらいたくない類のひとですからね」
「そういうものなの? P子さんもそうなの?」
「あの三人は、同情も哀れみも大嫌いでしょうよ。プライドが高いから」
「あたしはそれじゃプライドが低いってこと?」
いや、とP子さんは首を横に振る。
「MAVOちゃんは、プライドが低い訳じゃあありませんよ。ただあのひと達とは、別のプライドを持ってるってことでしょう?」
「P子さんは」
「ワタシ?」
ふっと彼女は薄い笑みを浮かべた。
「ワタシは別に同情も哀れみも欲しくはありませんが、くれるというものならもらっておきますよ。決して悪いものではないですからね」
「そう思うの?」
「そう悪いものではないでしょう? 少なくとも、言ってくれる相手は、その程度に自分に感情を向けてくれるんだから」
「そう思う」
確かにそうだ。
「でもたぶんあの人達が…… HISAKAやTEARやFAVが、そのどっちも嫌うのは判りますよ。そういう風に、生きてきたんですら。同情も哀れみも、自分のためにはならない、って言う考え方ですよね。甘やかされてもどうにもならない」
「そういうもの?」
あたしは問いかける。そういうものですよ、とP子さんは答える。
でもそれは、甘やかされることの意味を知っている者の言葉だ。甘やかされるべき時期に、充分に甘やかされた者の言葉だ。
「ねえMAVOちゃん」
そんなあたしの苛立ちに気付いたのか気付かないのか、不意にP子さんは言った。
「何?」
「答えられないと思うから、聞き流してくれてもいいですよ」
珍しい聞き方をする、とあたしは思った。
「MAVOちゃんは」
「はい?」
「MAVOちゃんは、本当にHISAKAと一緒に居て、幸せなんですか?」
あたしはたっぷり十秒、瞬きをすることも忘れていた。
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