第72話 意地悪35(抱擁)

 雨宮の見舞いを終えた次の日の朝、ベッドで俺は目を覚ました。


 ん、身体が重い……。


 普段から起きるのが億劫だが、今日はいつにも増して動くのがだるい。嫌な予感がして、体温計を棚から探し出す。体温を測ってみると37.5度。多分風邪だ。


 昨日、雨宮にうつされたのは間違いない。俺は重い身体で朝ご飯を軽く作り、食べて寝ることにした。身体は怠く、頭が熱でぼうっとしている。


 弱った体でベッドに寝ていると、静かな部屋がやけに寂しく感じた。前はこれほど気にならなかった。それが最近はよく思う。


 これも雨宮のせいだ。


 あいつが一緒にいると騒がしいからな。あいつ、1人でずっと話しているから周りがうるさくなる。だから静かなことが違和感になっているんだろう。


 まあ、あの何度でもしつこく話しかけてくるところが雨宮らしいけどな。雨宮といる時のことを思い出し、少しだけ心が緩む。


 雨宮と出会うまでは、1人で静かにいることが当たり前で慣れていた。だが、雨宮と出会って、あんなに騒がしい生活を送っていると、こうやって1人でいると少しだけ物足りなさも感じてしまう。風邪で弱っているからだろうか。どうにも思考がネガティブだ。


 1人で部屋にいると小さい頃を思い出す。あの嫌な記憶。忌々しい記憶。忘れようとしても忘れられず未だに俺の心にしつこく残り続けている思い出したくもない記憶。


 久しぶりに思い出した記憶は、俺の背中をぞわりと撫で付けた。


 はぁ、最悪だ。久しぶりに思い出したな。どよんと沈んだ気持ちを無視するように目を閉じて眠ろうとするが、うまく寝付けない。


 ゴロゴロと寝返りを何度も繰り返して、時々疲れて寝付くことをしていると、もう夕方になっていた。寝て起きても、もの寂しい気持ちは消えることなくずっと残り続けている。


 お腹が空き、重い体を仕方なく起こそうとしたときだった。


 ピンポーン


 ドアのチャイムが鳴った。


 誰か来たのか?不思議に思いながらドアを開ける。


「……っ!?」

 開けるとそこには見慣れた制服姿の雨宮がいた。


「なんで俺の家に……」


「今日、学校に来なかったじゃないですか。心配で来てしまいました。大丈夫ですか?」


 雨宮が心配そうに眉をヘニャリと下げて、上目遣いに聞いてくる。その声は少しか細く震えていて、不安げなことが伝わってくる。


 俺が学校に来なかったことが気になったらしい。


「大丈夫だ……」


 俺は重苦しい気持ちを抱えたまま、小さくそう答える。


「先輩……。本当に大丈夫ですか?」


 俺が大丈夫だと言ったにも限らず、心配そうな表情を崩さない雨宮。


「大丈夫だと言っているだろ」


「嘘です……!本当に大丈夫ならそんな弱々しい声を吐いたりしません。すみません、先輩、入りますね!」


 真っ直ぐと俺を見つめてくる雨宮は俺の心を覗いているようだ。


「お、おい!」


 雨宮は俺の虚栄など一瞬で見破り、俺の手を引いて俺の家に入って行く。初めて見る雨宮の強引な姿に少しだけ戸惑う。


「ほら、先輩、ベッドに座ってください!」


「わ、わかった」


 俺の部屋に入ると、雨宮は強い口調で俺をベッドに座らせる。その表情は歪んでいて、どこか悲しげだ。


「それで、先輩、一体どうしたんですか……?体調が悪いだけじゃないですよね?」


 俺がベッドに座ると、瞳を揺らして不安げな表情で聞いてくる雨宮。俺のことを心配してくれているのだろう。そんな姿に胸が熱くなる。思わず甘えてしまいそうだ。


「なにもない」


 だが俺は甘えられない。人に頼るなんてことはとうの昔に忘れてしまった。だから俺は強がることしかできない。


「……っ」

 

 俺の口調が強かったのか、怯えたように少しだけ体をビクッと震わせる雨宮。少しだけ下を向くが、また俺のことを真剣な眼差しで見つめてきた。


「もしかして、先輩の家族のことですか……?」


 俺の心がドキリと嫌な音をたてる。雨宮の鋭い一言は俺の心に深く突き刺さった。


「直接は関係ない……。ただ昔のことを思い出していただけだ」


 心の動揺は俺に少しだけ口を開かせる。開いた口からは、今までなら誰にも話さなかったことがポロリと溢れた。


「……」


 俺の言葉に雨宮は唇を噛みしめ、どこか泣き出しそうな表情を浮かべている。下がった目尻が俺の脳裏に焼きつく。


 雨宮は覚悟を決めたように唾を飲み込むと、その泣き出しそうな表情のまま、俺に声をかけてきた。


「……先輩、前に私に話してくれるって言いましたよね……?」


 俺の家に雨宿りに来た時の話だろう。いつかは話そうと決めていた。だが俺にはまだ話す覚悟がない。


「……ああ、だけどまだ「先輩!」」


 断ろうとするとそれを遮って雨宮は言葉を続ける。あまりに真っ直ぐに見つめられ、俺は自分の言葉を飲み込んだ。


「先輩、私じゃダメですか……?私にはまだ話せませんか……?もう先輩の苦しんでいる表情を見るのは嫌なんです。先輩には笑っていて欲しいんです。そんな辛い思いを抱えているなら私はその助けになりたいんです。私じゃ助けになりませんか……?」


 痛々しいほどに真っ直ぐな言葉は俺に一切の抵抗をさせることなく、心の奥底まで入り込む。真摯に紡がれた雨宮の声に俺の心は緩んでしまった。


 だが俺は誰かに頼ることが出来ない。頼る方法なんて忘れてしまった。だからこれは意地悪だ。雨宮に意地悪をするとしよう。


 風邪をもう一度うつしてやる。俺にうつした風邪をお前に返してやる。だから…


「……ハグしよう」


 弱った表情も、誰かに頼る姿も見せるのが恥ずかしいわけではない。ただ雨宮に風邪をうつすために近づくだけだ。


「わ、分かりました」


 雨宮はどこか緊張した表情で、頰を桜色に染めながら俺に近づいてくる。そして距離がゼロになって俺の体に雨宮の体温が伝わってきた。


 雨宮のフローラルな香りが鼻腔を強くくすぐる。華奢な身体は俺の腕の中にすっぽりとおさまり、俺の腕に触れる雨宮の身体は柔らかい。顔に当たる雨宮の髪はやはりさらさらしていて、少しだけくすぐったい。


 ああ、落ち着く……。


 久しぶりに感じる人の温もりはじんわりと、荒んだ俺の心を癒し始める。忌々しく思い出すだけで苦しい記憶の枷が緩む。


「実は……」


 緩んだ心と安心した感情に身を乗せて、俺は初めて過去の話をした。

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