第十五話 ガルゴ洞穴のヒュドラ

 そこは、高さ数百m、直径1kmに及ぶかと思われる、途方もない巨大な洞穴だった。


 はるか上に展開する岩のドームには、直径数mにもなろう巨大な蔦が、とてつもなく大きい無数の葉を縱橫に茂らせるのがかすかに見える。その中心には直径50mはあろうかという巨大な穴が口を開け、抜けるような青空から燦々と陽光が差し込む。


 そして照らされる足元の大地には、苔や巨大で不気味な色紋の菌類が無数に生え、幾つもの水場が池を形成する。

 自然の万物が作り出す様々な匂い、植物や清い水の清々しい香りや、その他生物が発するすえたような匂いが混在している。


 その大地に――腰までの長く豊かな銀髪をなびかせ、白と黒のボディスーツと革ブーツ姿、その褐色肌の美しい貌に殺気をみなぎらせ、両の手に結晶手を出現させたレエテ・サタナエルが一人、立っていた。

 

 その視線の数十m先に居るのは――。人間では、なかった。

 かといって、動物、獣と云い表せる存在、でもなかった。


 それは希少種ドラゴンに似た、鋼鉄の鱗に覆われ、長い尾を持つどっしりとした下半身、それより上に10本もの巨大な大蛇の首を持つ――。全長15mは優に超えている怪物だった。

 体重は、20トンにおよぶであろう。

 大蛇の頭部の先の口からは赤く先の割れた舌を素早く出し入れし、グゥル……グゥルルルル……といった腹の底から響く唸り声を絶え間なく発している。

 蛇の前では怯える女児に変わるレエテではあるが、彼女が恐ろしいのは「それ」の手足なきフォルムであり貌ではない。ゆえにドラゴンの身体をもつ相手に怯えはない。


 かつてレエテがダリム公国コロシアムで対峙したアシッド・ドラゴンより一回り以上大きく、数倍の重量を持ち、発する野生の殺気はすでに次元が違うといって良いレベルの――生物よりも神代の魔物といった表現が相応しい存在――その名は、ヒュドラ。




 ここは、レガーリア地域と、ドミナトス地域の境界線の密林内にそびえ立つ山岳、ガルゴ山。

 標高は600mほど、穏やかな緑に囲まれ、さしたる急峰でもない、一見風光明媚とさえいえる場所だ。

 しかしながら――この地はドミナトス=レガーリアの部族民にとって禁忌といえる土地であり、少なくとも100年に渡り人間の立ち入りを拒絶してきた魔境だった。

 

 異教シュメール・マーナの主神、ドーラ・ホルスは太陽の化身にして創造主であり、自らが作り出した人間たちによる正しき世界の構築のため、古代において配下の属神 とともに多くの闇の勢力を駆逐したとされている。

 彼と双極をなす闇の精霊の頭領、暗黒神テオドル・ゴランは、人間を地獄に落とし闇の勢力に統合すべく、配下の闇の勢力を各地に放った――。配下の属神、精霊、そして恐るべき魔物たちを。

 

 そのとき魔物の一角としてこのガルゴ山より出現したと言い伝えられるのが――。怪物、ヒュドラだった。

 

 この怪物とドーラ・ホルスの闘いは十夜におよび――。

 最後の夜、ついにドーラ・ホルスはその武器である剛槍ドラギグニャッツオにより、ガルゴ山の山頂に風穴を開けて内部の大洞穴にヒュドラを叩き落とし――。怪物は永久に洞穴内に封じ込められるに至ったという。


 この伝説と――。洞穴に侵入して過去誰一人生還せず、ついにこの100年その足も途絶えていたことを、バルバリシアのムウルより聞いたレエテ。伝説はおとぎ話であるが侵入者の件は事実であり、ヒュドラが実在はしていると推定したシエイエスの言葉で、この怪物と単身対峙する決意を固めた。


 ガルゴ山麓にある人間がようやく入れる唯一の洞穴口より一人入り込み、山頂より太陽光が差す巨大空間に出てすぐ、目的の怪物、ヒュドラと遭遇することができたのだ。


 その目的は――人でありながら魔物の領域に達した超人、サタナエル将鬼の一角である「剣帝」ソガール・ザークに打ち勝つための鍛錬であった。


 


 レエテは、一歩ずつヒュドラに対して距離を詰める。


「……あなた、神と対決した魔物、なんでしょう? そんな存在に対してこちらが待つのは非礼、攻め込むのは私からにさせてもらうわ!」

 

 云うが早いか――。レエテは一気に跳躍した。

 放物線を描き、5m以上の高さまで跳び上がった。そしてその高さにある10本もの首の先にある頭部をめがけ、結晶手を突き出す。

 未知の怪物ゆえ、急所は不明。ケルベロスなどの、アトモフィス・クレーターで対峙した生物の生態をもとに推測し、脳や心臓の位置を探し出すしかない。


 しかしヒュドラの反応速度は――レエテの予想を超えて速かった。

 怪物は、その10本の首のうち、手前の6本の首を一つに束ね、後ろにしならせた後に戦槌のごとく空中のレエテの身体に叩きつけた!

 ドゴォ!! という巨大な鈍い音が洞穴内に大きく反響する。


「ガハッッッ!!!」


 とっさに結晶手を前でクロスさせ防御したレエテだったが、大砲を超える衝撃力をもつあまりに重いその一撃は腕ごと彼女の胴に叩きつけられて肋骨を砕き、後方へ10m以上吹き飛ばした。

 岩壁に激突し、砕けた岩の破片とともに粉塵を上げて地に落ちるレエテ。


「ぐ、ううう……。凄い、パワーだ……。力だけなら、ソガールどころか……マイエにも匹敵するかもしれない……」


 よろめきながら立ち上がったとき、怪物は待っていてはくれず、すでに動き出していた。

 地響きをたてて数歩踏み込み、次なる攻撃を繰り出す。

 一度勢いをつけてからその巨体を左回りに回転させ――。次いでその長い長い尾を横合いから振り叩きつけてくる。

 長さ7~8m、描く直径15mになる巨大なる鞭のごとき水平攻撃。

 それは奇しくも――概ね、ソガールが放つ黒帝流断刃術・氣刃の参の攻撃範囲であった。


 2日前、ソガールのその必殺の一撃を前に、サイドに上体を傾けてかわしたレエテは右半身を吹き飛ばされた。その方法では斬撃に対し遅く、しかも攻撃範囲の中にどうしても身体の一部が残る。

 現在同種の攻撃を前にしてレエテのとった方法は――前方に向かって踏み出した勢いのまま倒れ込み、足から敵に向けて行う、スライディングだった。

 これにより、ヒュドラの尾は完全に空を切り、しかもレエテ自身は敵への間合いを詰める一石二鳥の結果を生み出した。


 攻撃後の隙を発生させているヒュドラに対し、即座に立ち構えに移行したレエテは、左手を前に出し右手を下げて力を溜める体勢。

 これまでと違うのは、その右手が思い切り左内回りにねじ込まれており、前後方向だけでなく回転方向に力が溜められていることだ。

 これも、今とっさに思いついた方法だ。逃亡中の10ヶ月にわたる長期の戦闘ブランクを経て、宣戦布告により再び闘いの端緒を切ってから早2ヶ月以上。身体能力だけでなく戦闘センスも徐々に取り戻し、むしろ以前よりも更に成長しようとする片鱗をレエテは見せ始めていた。


 レエテは一気に力を開放した。大地を蹴る右足から脹脛、脹脛から腿、腿から腰、さらに腰をひねり力を増強、腰から背筋、背筋から肩、肩から腕。

 そして腕に至り、先程ねじり込んだ右手を逆方向外回りに一気に回転させ――螺旋鋲スクリューの動きでスピードと威力を増した、その結晶手の一撃をヒュドラの尾の根元に打ち込む!

 鉄の如き硬度を誇ると推定される黒い鱗は、紙のように易易と貫かれ、衝撃力により内部の肉も一気に爆ぜる。

 それは“螺突”とも名付けるべき、必殺の一撃だった。

 そのまま骨ごと切り裂き、左手で鱗を鷲掴みにし、巨大な尾を引きちぎる!

 

「ゴオオオオオオオオオォォォォォーー!!!!!」


 ドラゴン同様に神経の密集する弱点であるのか、ヒュドラの巨大な悲鳴が、地響きをたてながら洞穴に響き渡る。

 切断面から吹き出す泉のような大量の血が、シャワーのようにレエテの貌や身体に降り注ぎ真紅に染め――まさしく彼女を悪鬼羅刹のごとき様相にしていた。


 レエテは間を置かず、そのままヒュドラの背中を駆け上がる。

 肩まで上がると、ヒュドラはこれを排除しようと10本の首を集中させ一気に襲い掛かる。


 ここで、レエテは両眼を閉じ、呼吸を停止した。

 これは、昨日にシエイエスより伝授された技だ。聴覚以外の感覚を遮断し、前後左右天地方向全てに対する空気の動きを「球」状で把握。視覚に頼る感知では偏り歪みがちな、攻撃対象の正確な位置・距離を掴み確実に仕留める。

 

 10本の首の10個の頭の迫る方向、距離、スピードを瞬時に把握したレエテは、己を中心として両手の結晶手を無駄なく流れるように振り、近くの頭から斬撃を加え切り伏せていく。


「ガアアアアア!!!」


 またも悲鳴を上げるヒュドラ。レエテは目を開き、沈黙していない首に対して容赦なく斬撃を加え、最後の一本に対して両手両足を絡めて抱きつく。

 そして全身の筋力を込めてねじ切り、胴から離れた首を放り捨てる。


 全ての頭が死に絶えたヒュドラは――完全に沈黙し、やがてゆっくりと身体を傾かせ、地響きをたてて大地に崩れ落ちていった。

 レエテは跳躍し、静かに大地に着地する。

 そして振り返ることなく、治癒再生の始まっている肋骨を手でかばいつつ洞穴の入り口に向けて来た道を歩きだす。



 *


 まばゆい光を放つ洞穴の入り口から外に踏み出し、眩惑に目を細めるレエテの視界に、出迎える仲間たちの心からの安堵の表情が入ってきた。

 キャティシアとムウル、そしてシエイエスだ。


「レエテ姉ちゃん!!! ヒュドラと戦って、勝ってきたんだね!? すげえや、本当にすげえ!! まるで女神マルゼ・ファロンみてえだ!! 本当に尊敬するよ!!」


 興奮するムウルに続いて、キャティシアも。


「レエテさん!! 無事で本当によかった! この一時間、私心配で心配で……」


 血塗れの恐ろしい様相ではあるが――レエテはいつもどおりの優しい笑顔を二人に向けた。


「ありがとう、二人とも。ここまで案内してくれたおかげよ。

ドラゴンよりも巨大で、恐ろしい強敵だったけれど……なんとか斃してきたわ」


 そこへシエイエスが近づき、レエテの真っ赤になった肩に手を置いた。


「怪我はないか? ひとまず無事で安心した、レエテ。

ヒュドラは、本当に実在していたようだな。どうだった? どんな相手でどんな闘いだったかは後で詳しく聞かせてもらうとして、何かお前にとって得るものはあったか?」


 レエテは眩しそうにシエイエスを見つめ、より貌をほころばせて笑顔を見せた。


「ええ……シエイエス。肋骨が砕けたけど、もう治りかけてるから大丈夫。

色々アドバイスありがとう。お陰であいつに勝てた。

あのソガールを想定するのに最適な、強大な相手だったわ。攻撃への対応、立ち回り方、倒すのに適した技、新しく編み出した技―― 一度の戦闘ではまず得られない、すごく貴重な収穫ばかりよ。

それに、これでもうあそこに迷い込んで命を落とす人はいなくなる。

ちょっと戻って、しっかりその証拠も持って来られたしね。ムウル、これはあなたにあげるわ」


 そういって背中から取り出したのは、50cmほどの長さに斬ったヒュドラの尾だった。

 黒光りする鱗は、直射日光の下で見ると途轍もなく妖しい光を放つ反射をする独特のものであり、大きさから言っても、明らかにそんじょそこらの爬虫類や怪物の身体の一部でないと感じさせた。


「すげえや!!! これを持っていけばこの周りの部族はみんなお礼してくれるだろうし、バレンティンなんかでこれを売ったりしたら、どんだけの金額で売れるか……。ありがとう! ありがとうレエテ姉ちゃん!」


 子供ながら仲々に現実的な考え方をするムウルに、シエイエスとキャティシアは思わず笑い声を上げた。


「ははは……! それはいい考えだな、ムウル。ぜひバルバリシア族のみんなに還元してやってくれ。

さあ、レエテ。そろそろ出発しよう。ムウルによれば、もう少し北の小川の近くに、野営に最適な場所があるそうだ。

多少『不死鳥の尾』までの距離を縮める意味でも、疲れているかもしれないがもう少し頑張ってくれ」


「大丈夫よ、シエイエス。いつも気遣ってくれて……ありがとう」


 そして一行は、再び密林の中を歩き出したのだった。

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