第2話 何度でもやめてといったのに

 雪野晶虎の母はなにも見ない。床の見えないゴミ屋敷も、残高どころかマイナスしかない通帳も、夫が浮気している声も、猫のケージに入っている息子のことも。

 彼女の中にはぐつぐつと煮えたぎった怒りが言語化されずに存在していた。

 なぜ、自分だけがこんな苦労をしなくてはならないのか。そもそも最初の夫が仕事ごときで自分を省みないのが悪いのだ。だから自分は優しい男に癒してもらった。それのどこが悪いのかさっぱり理解できない。子供を生んで育てているのだ、他になにをしろとあの男はいうのだろう。女の苦しみも知らないくせに、浮気だ、裏切りだとわめきたてて勝手に死んでいった。

 次の男も優しいとおもったら弱いだけの男だった。女を殴るしか能のないろくでなし。殴った後は泣きわめきながら抱きついてくる。こんな男は自分しか面倒を見られないから慰めてやることにしている。稼ぎもないし、甲斐性もないが、この男には自分しか帰るところがないのだ。

 そして息子。口にするのも忌まわしい息子。そもそも産まなければよかったと思っている。体の線は崩れたし、産前産後の苦労で自分の人生が押し潰された。息子が泣きわめくたびに、自分の可能性が殺されていくようで怒りがこみ上げた。この息子がいるせいで、買い物に行くことも美容院に行くこともライブもコンサートも行けないのだ。たまにレストランに入れば冷たい目で見られる。ミルクのみ人形のほうがましだった。泣きもしなければうんちもしない。

 だから息子を殴っていると気が晴れた。この息子のせいで自分は苦労しているのだ。八つ当たりくらい親の権利というものである。そもそも早く死ねばいいのに。もう15だから家出してしまったで通るだろう。死体は切り分けてゴミ袋に混ぜて捨ててしまえばいい。

 安いタバコを唇に貼り付けたまま、彼女は根本が黒い金髪をかきあげた。かきあげようとした。手がなかった。手首ごとそっくり吹き飛ばされていた。

「ああ、ゴミは片付けてしまわないと」

 雪野晶虎の母はなにも見ていなかった。息子を閉じ込めたケージの前に現れた『女神』など。だから『女神』--ゲルダが手から飛ばした光が下半身にあたって壁に叩きつけられても未だに現実が理解できていなかった。いや、彼女はずっと昔から現実なんてみていなかったのだ。

「晶虎さん、どうなさいます? ゴミはこのままゴミ箱にいれますか?」

「いいや、いいよ、ゲルダ」

 息子が久々に口を聞いた。「あとは顔を焼いてくれたらそれでいい。この女にはそれしかないんだ。顔がなかったらせいぜい苦しみぬいて死ぬだけだから」

「わかりました」

 ゲルダと呼ばれた女神は微笑んだ。「それではせいぜい一番痛い炎で顔を焼いてあげましょう。え? やめて? そんなこといってますよ」

「……僕はなんどでもやめてといったよ」

 雪野晶虎は笑った。猫用ケージの中から。「それでも、その女はやめなかった」

「じゃあ、硫黄で焼き尽くしてしまいますね」

 そして、雪野晶虎の母親はそのようになった

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