第37話 帰ったら、続きをしよう
マリアさんの再生能力でも、もう間に合わないことは分かっていた。彼女の力は傷を癒やすだけであって、死を打ち消すわけではない。それができるのは神様だけだ。
「嘘つき。バカ。…………ごめんね……」
彼女は僕から離れ、鼻先が触れ合うほどの距離で薄い唇を開く。
「最後に……その……キ、キス……するわよ」
耳まで真っ赤に染めて、セルシスは目を逸らして言う。
「か、勘違いしないでね。私のものだっていう証しなんだから……だから…………わたしの初めてをあげるわ」
ちょっぴり僕は罪悪感を抱く。僕の初めては少し前、エマさんに盗られてしまった。まったく何も感じなかっただけに余計辛い。
「のーかん、に決まってるでしょ」
僕の思考を読んだかのように言って、セルシスは頬を膨らませる。何だよそれ、かわいいかよ。もっと早くそういう顔しろよ。死ぬのが辛くなるじゃんか。
「じゃ、じゃあ、ノーカンで……」
セルシスは窺うように僕を見て、静かに目を閉じた。
マジか。僕からするのか。……そりゃそうだよな。プライドの高いセルシスが自分から僕にキスするはずもない。うわー、最後の口づけか。変な感じに失敗したらどうしよう。
こうして見ると、意外に睫が長い。可愛らしい小鼻。上気した、ぷにぷにのほっぺ。髪の隙間からわずかに覗く形の良い耳。丸い輪郭。引き結ばれた桃色の薄い唇。細い首筋、華奢な肩。丸みを帯びた細い腕。ぺたんこな、希望しか詰まっていない胸。くびれのあるお腹。小ぶりなお尻。ストッキングに包まれた丸い膝小僧。ちっちゃな足。
すべてが愛おしく思った。
これじゃあ、ただのロリコンだ。ヘンタイだ。
けれど、別に恥ずかしくなかった。
誰かを好きになる気持ちを恥じる道理なんてどこにもない。
時代がそれを強いるなら、そんな時代には終わって貰おう。
幸い、僕には――僕らにはその力がある。
世界を救った幼女と、救われない僕。
いや、そんな風に自分を卑下するのはもうやめよう。
お前が世界を救うなら、僕はお前を救おう。それだけで僕は救われるのだから。
ちょっと薄目を開けて僕の動向を盗み見始めたので、僕は彼女の頬に手を添える。びくりと身体が震えて、唇はより強く引き結ばれた。
唾を飲み込んだ音が耳元に響く。緊張で手汗がやばい。色々カッコつけたけれど、幼女とチューしても大丈夫なんだろうか。お互いに合意ならセーフなんだろうか。アウトかな。まあ、どうでもいいか。僕は鬼だから人間の法律なんて知らん。セルシスも人間じゃないって言われてたし、何の問題もないよね。
心の中で完全な理論武装を固め、小さな唇に自分のを寄せていく。まだ触れていないのに彼女の温度を感じだ。甘い息が僕の唇を撫でる。
もう少しで触れる――その瞬間だった。地鳴りのような音が響いた。無粋な音の方へ僕らは同時に顔を向ける。そしてあまりの驚愕に声を漏らした。
発生源は五メートルはあろう巨人だった。いや、巨鬼と呼ぶべきか。頭には二本の鋭く長い角が生えている。それ以外は異様に歪だった。鬼と鬼獣を寄せ集めてつなぎ合わせたような、継ぎ接ぎだらけの身体。眼窩を覗かせたいくつもの顔が苦悶の表情で表皮となっている。
僕は頭の片隅から資料を引っ張り出した。詳細は不明だけれど、一致する記述を思い出す。
――人類政府は合成鬼獣の開発に着手した。複数の鬼と鬼獣を合成することで力の絶対値を上げることが期待されている。
資料には、完成はずっと先のことだと書かれていた。読んだのは二年ほど前のこと。もしそれが完成したのであれば、あれこそが絶望と呼ぶに相応しい怪物だ。
「おまえ! 邪魔だぞ!」
飛び出したのはリノだ。小剣を片手に合成鬼獣へ突っ込む。
示音を唱え、小剣に風を纏わせた。あれを相手に躊躇う理由は微塵もない。リノの機動力を持ってすれば、あの巨躯を相手に余裕で立ち回れる。
しかし、その考えは甘すぎた。
風を薙ぎ払うような拳をリノは難なく避ける。それを数度繰り返しながら、彼女は確実に相手へ傷を刻む。まだ様子見の段階だからか傷は浅い。リノが深く踏み込もうとした瞬間、彼女の動きよりも速く拳が振るわれた。すぐに反応した彼女は身体を捻って避ける。けれど、わずかに肩を掠めた。たったそれだけでリノの身体は吹き飛ばされ、僕らを通り越して遙か後方の地面に落ちる。彼女の身体はびくともせず、立ち上がる気配はなかった。
「嘘だろ……」
隣のセルシスも息を呑んだ。マリアさんが牽制するけれど、銃弾は表皮に弾かれる。リノのつけた傷は跡形もなく消え去っていた。
巨躯の背負う景色には軍がいた。遠くからこちらの様子を窺っているようだ。そのどこかからか、あの合成鬼獣に命令が送られているはずだ。内容は考えずとも分かる。セルシスたちの抹殺だ。
マリアさんがこちらへ駆け寄る。その表情に余裕はない。
「マリアさん、リノを」
「っ――分かりました!」
僕の傷を見て暗い顔をした彼女だけれど、すぐにリノのところへ向かってくれた。彼女も自分の力の限界を弁えているのだろう。
合成鬼獣へ足を踏み出そうとするセルシスの腕を掴み、首を横に振る。
「けど、私がやらないと……」
「そんなことしたら、本当に戻れなくなる」
セルシスとこうやって喋れていることが奇跡なのだ。アルカゼノムを使えば完全に鬼に飲まれる。
「セルシス、よく聞いてくれ」
「いやよ! 絶対にいや!」
まだ何も言っていないのに彼女は辛そうに眉を寄せ、目に涙をためる。
「大丈夫だから。僕があれを倒す。巻き込みたくないからエマさんとカミュを連れてマリアさんに合流して。その後はできるだけ遠くに逃げて」
「わたし、わかってるんだから。そうやって死ぬつもりなんでしょ」
「死なないよ」
「うそ! だったらなんで、どうして……そんな穏やかな顔してるの」
それはお前たちを守れるからだよ。ようやく僕の力が役に立つときが来たからだよ。
どうせ死ぬのだから、誰かを救うためにこの命を使いたい。だったら、その相手はセルシスたちがいい。
「約束するから」
「どうせ破る! …………一緒に逃げよう? 少しでも長く、一緒にいよう?」
僕が静かに首を振ると彼女は怒りに顔を染めて、けれど言葉を飲み込んで俯いた。彼女のわがままを聞いてやれない代わりに、その額に口づけをした。
「っ――そこじゃ、ないわよ……」
「帰ったら、続きをしよう」
きっと守られない約束。セルシスは涙で顔をぐちゃぐちゃにして小さく頷いた。
「ぜったい、だから」
「ああ、絶対だ」
最後にぎゅっと抱き締めてから、僕は名残惜しむ彼女に背を向ける。
「エマさん、罪滅ぼしをしてください。彼女たちを命がけで守ってください」
「シャルくんはそんなボロボロの身体で戦うの? 絶対に死んじゃうよ?」
すっかりいつものエマさんに戻っていて、僕は安心する。
彼女がアルカゼノマーを憎む気持ちは本当だろう。最初は復讐のために近づいたのだろう。けれど、セルシスたちと決して短くない時間を過ごして生まれた関係性もまた本物なのだ。きっと、迷って迷って迷って、それでも復讐を選んだ。だから最後の最後で彼女は失敗してしまったのだ。
甘いよ、エマさん。少しでも好意を持ってしまったら、嫌えるわけないじゃないか。
僕はできる限り笑って、おどけるように言った。
「大丈夫です。僕、鬼王の息子ですから」
ぽかんと口を開ける彼女に、髪に埋まった小さな角を見せてやる。
「ちっさ……」
決めた。生きて返って、そのわがままボディを揉みしだいてやる!
「じゃあ、また」
僕は再会の言葉を口にし、振り返らず進む。
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