第35話 まったく、救われないなあ。僕らは

 角が短かった僕は人間と間違われることが多かった。そのせいで鬼の世界では爪弾きにされ、人間を滅ぼすことに懐疑的だった僕はよく人間の街へ出かけていた。


 そこで老夫婦に出会った。彼らは行く当てのない僕に居場所をくれた。孫ができたみたいだと喜んでくれた。彼らには息子がいたけれど、もう亡くなっていた。


 関係はどんどん深まっていった。鬼の世界へ戻らなくなり、ここで死ぬまで過ごそうと思った。それが僕にとっての幸せだった。


 だからこそ、自分が鬼であるということを隠し続けるのは辛かった。


 あるとき、勇気を出して打ち明けた。彼らはとても驚いていたけれど、すぐに眼差しを柔らかくし、僕を受け入れてくれた――――と思っていた。


 買い物に行くと言って二人が出かけた。けれど、帰って来たのは彼らではなかった。武装した軍人とアルカゼノマーが数名、家を包囲していた。その後ろに隠れていた老夫婦は僕を睨みつけて言った。


『死ね! 化け物!』


 その憎悪の込められた目を見て悟った。彼らの息子は鬼によって殺されたのだろうと。


 だったら彼らが僕を恨むのは仕方がない。そう思えていたなら、まだ救いようがあったかもしれない。


 僕は絶望してしまったのだ。


 わかり合えると思った。本当の孫になれると思った。けれど、彼らは僕を裏切った。軍に売り渡して僕を殺そうとした。


 頭が真っ白になって、気づいたら荒野にいた。周囲に街はなかった。地面には僕を中心に円が描かれていて、その境界線から外には緑が溢れ、中には何もなかった。


 自分がしたことの罪の重さに、僕の手は震え続けた。


 それ以来、僕が力を使うことはなかった。




 だから、いつも迷ってしまう。またあのときのようにすべてを消し去ってしまうことが怖かった。


 戦いの中で、その思考は致命的な隙となる。


 気づいたらセルシスが目の前にいた。迫る剣を咄嗟に弾く。腕が軋んだけれど、軌道は逸らした。その安堵がさらなる隙を産んだ。反応が間に合わず横腹を蹴り抜かれた。あばらが音を立てる。喉を駆け上がる熱を吐き出した。地面に無様に這いつくばる僕を見下ろして、セルシスは構えた剣を下ろした。


「セル、シス……」


 まさか正気に戻ったのか。奇跡が起きた。けれどその思いはすぐに消し飛ばされた。


 セルシスは長剣を握り直し、エマさんの方を向いた。双眸を怒りに尖らせ、凶暴な犬歯を剥き出しにする。


 戻ってなんていなかった。おそらくは優先順位の問題だ。エマさんを先に殺すと決めていたのかもしれない。本能によるものか、それともセルシスの感情が影響しているのか。どちらにせよ、自分は助かったなどと楽観的な見方はできなかった。


 止めようと足首を掴むけれど、お構いなしだった。僕を引きずったままセルシスは駆け出す。その度に僕は地面に強く叩きつけられ、一瞬だけ意識が飛んだせいで手放してしまう。


 エマさんへ猛進するセルシスを止めようとリノたちが前に出る。カミュから小剣を借りたリノが先鋒。小回りが利く武器のためか、身のこなしはいつもより冴え渡っていた。しかし、セルシスはそれを力でねじ伏せる。かざした手から巨大な炎の塊が放たれ、リノを丸々飲み込んだ。灼熱が去り、現れたのは一つの盾。


「助かったぞ、カミュ!」


「しぇぅし、たしゅけぅ!」


 セルシスに怒っていたカミュだけれど、きっと彼女もセルシスが悪いわけではないと分かっていたのだろう。仲間の危機的状況を前に、彼女は助ける道を選んだ。


 カミュの盾で炎の直撃は免れたものの、二人は身体中に火傷の跡ができている。けれど痛みになれているのか、少し顔を顰めるだけだ。


 二人に斬りかかろうとしたセルシスをマリアさんが牽制し、足止め。その間にリノたちは体勢を立て直す。


 埒が明かないと判断したのか、セルシスはマリアさんへ向かっていく。銃弾の雨を難なく突き進み、近距離戦に持ち込む。バトルライフルで殴り合うわけにもいかず、マリアさんは避けることに専念しようとする。しかし、セルシスの方が圧倒的に速かった。


 マリアさんの脳天へ振り下ろされた長剣をリノとカミュがそれぞれ剣と盾で受け止める。しかし、その凄まじい膂力によって三人は吹き飛ばされた。


 ついに邪魔者を一掃したセルシスは、エマさんの眼前まで辿り着いた。


 エマさんは喉を鳴らし、逃げようとした足をもつれさせて尻餅をついた。恐怖に顔を染め、首を横に振りながら後ずさりする。


「いや、殺さないで……死にたく、ない…………」


「ううぅぅ」


 こぼれ落ちる涙。けれどセルシスは無情にも長剣を振り上げる。辛うじて立ち上がった僕は駆け出すけれど、身体中が悲鳴を上げるせいでトップスピードを出せない。リノたちもまだ立て直せていなかった。もう誰も間に合わない。


「くそっ! セルシス! やめろ!」


 僕の声を合図にしたかのように、剣先が弧を描く。


 エマさんはそれを見て、子どものように泣きじゃくりながら瞼をぎゅっと閉じた。腕を頭上で交差して、小さく縮こまる。それが彼女に取れた恐怖から逃れる咄嗟の手段だった。


 当然、彼女の細腕など簡単に切り裂き、豊満な身体を真っ二つに分かつ――はずだった。


 いつまでもやってこない痛みに疑問を抱いたのか、エマさんはビクビクしながら探るように瞼を上げる。そして、目を見開いた。


「セル、シー……ちゃん…………?」


 何故か、振り下ろされた刃は彼女の薄皮一枚を裂いたところで止まっていた。小刻みに震える剣を赤い筋が流れていく。けれど、決してそれ以上は刃が進まない。


 噛み締めた歯の隙間から、呻くような声が漏れる。


「に……げ、て……」


 それを聞いたエマさんはセルシスの顔を見上げる。セルシスの目から止めどなく流れる涙に息を呑んで、自らも堰を切ったように泣いた。


「え……ま……に、げて……わた、し……もう……」


「ごめんなさい……私、ごめんなさい……」


 罪悪感に耐えきれなくなったのか、エマさんは謝罪の言葉を何度も何度も口にした。


 それはきっと奇跡のようなもので、セルシスの強い心が足掻いて勝ち取った最期の瞬間で。苦しげに唸りを上げるセルシスの瞳にはもう理性の欠片も残っておらず、ただ殺意だけが刻まれていた。それに気づかないエマさんはセルシスに手を伸ばそうとする。


「ごめんね、私――」


 鮮血が舞った。身体を貫いた剣が、その切っ先から赤い線を地面へ垂らす。


 エマさんの悲鳴。それを背中に受ける僕は血を吐きながら膝を突く。何とか、間に合った。こんな傷を負ったら、エマさんはすぐに死んでしまう。僕なら少しくらい耐えられる。


 情け容赦なく剣が引き抜かれ、傷が広がった。見下ろすと、これは駄目かもしれないと弱気になってしまう。マリアさんの治癒を期待するけれど、あんな遠くからではまともに当たらないから無駄だろう。接近はセルシスが許さない。


「まったく、救われないなあ。僕らは」


 同じくらいの目線になったセルシスへ苦笑する。すでに勝ちを確信したのか、彼女は剣を握ったまま見つめ返してくれる。

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