第33話 作戦、大成功だね

 それを見たエマさんが口元を歪ませる。


「シャルくん、ご苦労様。作戦、大成功だね」


 作戦? 何のことだ。問いただそうにも声が出ない。セルシスたちの視線を感じたけれど、首を振ってみせることすらできなかった。


 エマさんは僕に歩み寄り、僕だけに聞こえるように耳元で囁いた。


「痺れ薬がようやく効いたんだね。即効性の強力なやつだったんだけど、このタイミングで効いてくれてラッキーだよ」


 そんなものを打たれた覚えはない。僕の疑問に答えるように彼女は舌を出した。綺麗なピンク色をした舌の上には小さくなった飴玉が一つ乗っている。エマさんが帰り際にくれた飴玉に痺れ薬が入っていたということか。鬼である僕には効果が薄かったのだろう。それでも僕の動きを封じる程度には強力なようだ。


 エマさんはその舌を僕の口内へ侵入させる。貪るような口づけ。僕の舌にエマさんのが絡みつく。麻痺しているせいで何の感触もなくて、その行為を他人事のように眺めていた。


 彼女は飴玉を僕の口の中に残して、瑞々しい厚い唇を離す。糸を舐めきる妖艶な動きが、今は苛立たしかった。


「ご褒美だよ、シャルくん。この子たちを殺したら、約束通り結婚しよっか」


 待ちに待った返答。これでエマさんと幸せに暮らせる。


 そんな喜びなんて、微塵も感じなかった。


「しゃ……る…………」


 か細い声でセルシスが僕を見上げていた。その表情を見て、ようやくエマさんが僕に口づけをした理由を知る。


 違う。違うんだよ、セルシス。


 叫びたいのに、今すぐ伝えたいのに、この喉は、この舌は、ただ震えるだけだ。


「……そん……な……」


 セルシスの頬に一筋の光が流れていった。それは洪水のように目から溢れ、彼女の丸い顎から滴り落ちる。


 エマさんは僕の背中へ這うように腕を回す。


「こんな穢れた怪物の面倒を押しつけちゃってごめんね。その分、これからはたっぷり甘えさせてあげるからね。これから私は、シャルのものになるんだよ」


「しゃる……わた、し……の、こと…………」


「シャルは何とも思ってないよ? まさか、好きになっちゃった? 勘違いしないでよ。シャルは私のためにあなたたちに優しくしてたんだよ」


「しゃる……」


 小さな手が壊れそうなほど、スカートをぎゅっと握り締める。


 救いを求めるように見上げる視線に、僕は応えられない。


 迸る怒りを瞳に込めて、エマさんを睨みつける。視線が合った彼女は暗い顔で苦笑するけれど、すぐにその目に憎悪を滾らせ、セルシスへ顔を向けた。


 その妖艶な唇が、セルシスの心にナイフを突き立てる。


「あなたのことを愛してくる人なんて誰もいない。私とシャルのために、早く――」


 ――死んで。


 心が砕け散る音が聞こえたような気がした。セルシスは膝を折り、ガックリと肩を落とす。俯いた顔から落ちる滴が、地面に染みを広げていく。


 エマさんが合図すると、家屋の屋上から銃を構えた軍人が大勢姿を現した。照準はセルシスたちへ向き、その引き金はすでに動き出している。


「セルシー! しっかり――」


 リノが駆け寄ろうとするけれど、足を止めて息を呑む。


 セルシスの周囲が陽炎のように歪み始めた。肌を焼くような熱を感じ、彼女を中心に風が吹き荒れる。


 放たれた銃弾の雨は彼女へ届くことなく宙で溶けた。


 ゆらりと立ち上がるセルシスの顔が上がる。白い肌に走る赤い亀裂。生意気な可愛い顔は面影なく狂気に染まり、凶暴な犬歯が牙のように尖る。深紅の髪はまるで炎に姿を変えたように揺れ広がり、血の色で満たされた目が僕らを捉えた。その額から小さな黒い角が二本顔を出す。


 鬼と化したセルシスが口にしたのは、とても人間とは思えない、獣のごとき唸り声だった。


 構えられた長剣に炎が渦巻く。肌を突き刺す殺意。それに呼応するように苛烈さが増していく。鬼となったことで格が上がり、アルカゼノムの力を最大限まで発揮できるようになった彼女は、すべてのものを灼き尽くさんと腕を振り回す。


 迫り来る灼熱。身体はまだ動かない。エマさんは目を見開いて硬直していた。恐怖で表情が引き攣り、目覚めさせてしまった絶望を前に、途方に暮れているように見えた。


 死んだと思った。けれど間一髪のところで僕の身体は炎から遠ざかっていく。


「り、の……」


 ようやく絞り出せた声。助けてくれたことに驚きと疑問があった。エマさんの言葉を信じれば、僕はリノたちを裏切っていたことになる。セルシスはそれに絶望し、鬼に飲み込まれてしまった。だから見捨てて当然のはずだ。


 涙を浮かべたリノが引き結んだ唇を開いた。


「わたしはバカだからな。エマの言ってたことはよく分からん。だからわたしは、わたしが信じたいものを信じるぞ」


 無理矢理に笑おうとして、リノは震える口角を吊り上げる。不細工な笑みが僕の胸を締め付けた。


「どうしたらいいのかな……。セルシーが、おにに、なっちゃった……」


 震えながらゆっくりとしか動かない手をリノの頭に乗せてやる。今の僕ではボサボサの髪をとかすことすらしてあげられない。


「だい……じょう、ぶ……だ」


 何が大丈夫なもんか。一度鬼になってしまったアルカゼノマーが元に戻った例など聞いたことがない。それでも僕はそう言うしかなかった。僕自身の折れそうな心を支えるには、虚勢を張るしかなかったのだ。


「とりあえず街の外へ出ます。ここでは被害が拡大するだけですから」


 隣にいたマリアさんがエマさんを抱えながら言う。カミュは背中に抱きついていた。


「は、放して!」


 険しい表情でエマさんを一瞥し、マリアさんは正面へ顔を戻した。


「黙っててください。エマさんのために助けたんじゃありません。セルシーちゃんのためですから」


 リノたちは屋根を伝い、街の外へ一直線に走る。後方で空気を薙ぐような轟音が鳴り、振り返ればセルシスを囲んでいた軍人が炎の渦に飲まれ、灰と化して消えていった。


 アルカゼノマーは借り物の力を行使しているだけに過ぎない。そのため物に力を付与するのが限度だ。依り代を介してでしか、奇跡を起こすことができない。


 けれど正当な行使者である鬼にその制限はない。それ単体で具現化が出来てしまう。


 幸か不幸か軍の時間稼ぎによって、僕たちはもうすぐ街を抜けようとしていた。しかし、その行為は自ら火の中へ飛び込む虫のようなものだった。


 待ち構えていた小隊が一斉に銃口を上げる。着地点に向かって宙を飛ぶ僕らに、それを避ける術はなかった。


 心臓を一突きにされるような鋭い殺意を感じて、僕はようやく動くようになった手で剣を後ろへ振り上げた。


 重い金属音が弾け、その衝撃を殺すことができずに僕らは吹き飛んだ。流星が空を駆けるように軍人たちの頭を越えて、数十メートルに渡って地面を抉る。剣を持っていた方の腕に痛烈な痛みが走り、見れば変な方向に曲がっていた。


「大丈夫か?」


 駆け寄ってくるリノに傷は見当たらない。上手く受け身を取ったようだ。鬼と化したセルシスに注意が集まったおかげで、マリアさんたちも無傷で僕のところまで来られた。


 マリアさんのに腕を治して貰い、セルシスの方へ顔を向ける。僕らを攻撃した隙を狙われ、彼女は銃弾をその身に受けていた。

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