第22話 もう、手遅れみたい
どれくらい経っただろう。ようやくセルシスが泣き止んだ頃には月が分厚い雲に覆われ、暗闇が落ちていた。
早く帰らないとリノたちが心配している。まだ寝ずに僕らの帰りを待っているかもしれない。けれど、まだここにいたいとも思った。きっとこの部屋を出たら彼女はセルシスに戻ってしまう。強がりで、意地っ張りで、わがままで。誰よりも頑張り屋さんな女の子に。
背中を撫でていると彼女は我に返ったように呻き声を漏らし、僕から顔を逸らした。暗がりではその表情を窺い知ることができない。彼女から伝わる熱は幼女特有の体温の高さゆえだろうか。
「わたしはね……親に売られたけど、自分でアルカゼノマーになることを選んだの」
まるで宝箱に入った大切なものを見せるように、気恥ずかしさの込められた弾んだ声で言う。
「トラックの荷台に載せられて、育った村がどんどん遠くに離れていった。中には私と同じような境遇の子たちがいた。みんな泣いてて、私はその子たちを馬鹿だと思ったわ。こうなることなんて初めから分かってたのに。でもやっぱり寂しくて、悲しくて。泣きそうになった。堪えても堪えても涙が溢れてきた。そんなときだった。トラックが横転して、みんな地面に投げ出された」
それで亡くなった子もいたそうだ。彼女は奇跡的に無傷で済んだ。けれど、それが幸運だと言えるかは定かでない。トラックが横転したのは事故ではなかった。
「鬼の仕業だった。アルカゼノマーの供給を絶つために、そいつらは子どもを乗せたトラックを片っ端から襲ってたみたい」
子どもたちは次々と殺されていった。彼らはまだアルカゼノマーになっていない。それは一方的な虐殺だっただろう。抵抗する力さえ持たない、ただの幼子。殺しまくっていた彼らは殺すことにすら飽きたらしい。どれだけ無惨に殺せるか、鬼獣を使って競っていたという。無垢な子どもたちにそれを見せ、恐怖を刻み込む。そうして次は自分の番だという絶望を植えつけ、打ちひしがれ、発狂する姿を笑っていた。
そんなもの正義ですらない。ただの悪魔だ。
「私の人生、ここで終わっちゃうんだって思ったら、自然に涙が溢れた。酷い人生だったし、何度も死にたいって思ったし、そんなクソみたいな私にはお似合いの最期だって思ったわ。けどね、いざそれを前にしたら足が竦んで、震えで声が漏れて、死にたくないって心が叫んでた」
漂う悲壮感から一転、目の前がパッと拓けたように、言葉に明るい光が灯る。雲の切れ間から月光が漏れ、嬉しそうに唇を噛む彼女の姿が映った。
「そのときにね、男の子がふらっと現れたの。剣も鎧も、何も持ってなかった。それなのに、あっという間に鬼を倒した。アルカゼノムを使わずにね。彼は何も言わずに去って行ったわ。まだ子どもだった私は、そんな彼に憧れたの。勇者協会に行けば会えると思った。まったく、バカよね」
自嘲するように言うけれど、本当に彼に憧れていたことが伝わってきた。
「それで、会えたのか?」
鬼を素手で倒すなんて常人では不可能だ。アルカゼノムを使っていなかったと言っているけれど、まだ何も知らなかった彼女が気づかなかっただけだろう。
けれど、彼女は首を横に振った。
「そこでは会えなかった。けど――」
モジモジと身を捩らせ、彼女は僕を盗み見る。もったいぶらないで教えて欲しい。
「会えたのか?」
再び月が隠れる。今度は薄い雲なのか、薄らと光が差し込んだ。
急いた僕の問いに彼女は小さく頷いた。
思わず笑みが漏れてしまう。きっとそれは彼女にとって大事な再会だっただろう。その人であれば彼女を悲しませることなく、すべての絶望から救い上げてしまうのだろう。
「よかったな」
「……ばか」
「え?」
「うるさい!」
情緒不安定過ぎるだろ。まだまだ子どもだな。子どもだけど。
「ねえ……鬼になったら……ぜんぶ、忘れちゃうのかな。そうしたら私は……私じゃなくなっちゃうのかな」
「大丈夫だよ。ならないし、セルシスはセルシスだ」
彼女は口元を緩め、けれどすぐに目を伏せた。徐に立ち上がり、右腕の包帯を解き始める。床にスルスルと落とし、次は左のも同様に。
ばか、こんなところで邪気眼発動させんなよ。それ絶対に解いちゃいけない封印なんじゃないの? 夢から覚めちゃうでしょ?
心の中のツッコミは届くはずもなく、彼女はストッキングを踝まで下ろし、スカートのファスナーを開く。ストンとスカートが落ち、細いのにふっくらとした太腿が露わになる。ブラウスのボタンを一つずつ外し始めたので、さすがに僕は焦り始める。
「せ、せるしすさん? 何をなさっているんですか?」
言葉はなく、彼女はブラウスを脱ぎ捨てた。黒を基調としたショート丈のキャミソールとショーツ。大人びた下着にかけたまま止まっていた手が、意を決したように動き始める。
「捕まる! 捕まるから!」
気持ちは嬉しい。けど、ごめんな。僕は幼女体型に興味ないんだ。
手を掴んで脱ぐのをやめさせた。ちょうどそのとき窓からの光が強まり、彼女の姿が鮮明に照らし出される。
僕は息を呑んだ。
彼女の首から下。その小さな全身にかけて赤い亀裂が走っていた。皮膚がひび割れ、その裂け目を血が流れているかのようだ。まるで呼吸でもしているかのように淡く点滅する。
怪我ではない。それが意味するところを察して、僕は目を見開いた。
「そんな……」
「もう、手遅れみたい……」
自分が一番辛いに決まっているのに、彼女は苦笑する。苦々しく、痛々しく、笑う。
「まあ、こんなものよ。私の人生なんて。……いえ、もう……人じゃない、わね」
それは鬼となる前兆だった。赤い筋が全身に回れば鬼になる。アルカゼノムをあと数回使えば確実に変化するだろう。けれど、たとえ一度も使わなかったとしても、その可能性は十分にあった。
心が負けたとき、人は鬼となる。
彼女たちは内に鬼を飼っている。それは人である彼女たちに力を与える代わりに、その心身を蝕んでいく。心を犯されれば、身体はすぐに失われる。
今日、彼女の親が現れたあのとき。彼女は鬼になっていても不思議ではなかった。けれど、彼女は耐えた。負けなかった。
僕は彼女の割れ目を優しく撫でた。ピクリと彼女の柔肌が震える。きめ細やかな白い肌。瑞々しい彼女の身体は月の光を浴びて淡く輝いていた。
「んっ……いやじゃ、ないの?」
「どうして?」
「だって……醜いわ」
「綺麗だよ、セルシス」
これは彼女が必死に生きてきた勲章だ。醜いはずがない。
「ありがとう…………シャル」
彼女をゆっくりと抱き寄せる。優しく包み込むように。肌に触れる彼女の温もり。桃に似た甘い香り。赤い髪を撫でると彼女は目を細め、身体を預けた。
救われない彼女に何もしてあげられないことが悔しくて、その細い首筋に頬ずりしながら神様を恨んだ。
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