第21話 もう、いいんだ

 日が落ちてもセルシスは帰ってこなかった。


 あれから僕は一人で街中を駆け回った。放っておけるわけがなかった。森の中も探したけれど、見つからない。リノたちは家に帰って貰った。弱い姿を彼女たちに見せたくはないだろう。一度家に戻るも、やはりいない。僕はまた探し回る。


 今日は満月で、地上は静謐な光に照らされている。物思いにふけるにはもってこいの夜。だからこそ、こんな日に独りでいていけない。きっと彼女は自らを呪い殺してしまう。


 けれど、見つけてもどうしたらいいか分からない。何て声をかければいいのか、何て言葉で励ませばいいのか。およそ見当もつかない。


 勇者協会の施設に入るような子どもは、そのほとんどが恵まれない家庭に生まれた。不幸を絵に描いたような生活が、生を受けた瞬間から始まっている。


 貧困に耐えきれず生活のために子どもを産んで売る者が多いけれど、中には金儲けのために子どもを産む者もいる。アルカゼノムへの適合率が高い子どもは高額で買い取られるからだ。万に一つという可能性だけれど、その一発逆転に魅せられてしまった大人がいる。女性を出産道具として扱い、子どもを大量生産する組織がいると聞いたことがある。それでも一〇歳以上の人口は一向に増えていないそうだ。そこまでして子どもを増やしてもなお、それに匹敵する量が消費されている。


 知識としては知っていた。けれど、ここまでとは思わなかった。ここまで腐っているとは思わなかった。


 どうして自分の子どもにあんなことを言えるのだろう。どうして平気な顔して売り払えるのだろう。自分の血を継ぐ、自分の一部だというのに。


 僕は鬼の中で孤立していた。けれど、あれよりはマシだった。


 身体が先に限界を迎えた。休む間もなく走り続けたせいで、足の震えが止まらない。気を抜けば今にも崩れ落ちてしまいそうだった。息を吸う度に肺が痛んだ。心臓が大きな音を立て、血管ははち切れんばかりに悲鳴を上げている。滝のように流れ出る汗を拭い、顔を上げた僕の目の前に見慣れた建物が現れた。


 懐かしき旧家だった。まだ買い手が見つからないのか、明かりは灯されていない。月光の下にひっそりと身を潜めている。


 もし、あのときリノが騙されていなかったら、こんなことにはならなかっただろうか。意味のないもしもは、いまさらな疑問へ辿り着く。


 この街で一〇億円の借金なんてできるのだろうか。そもそも、一〇億円も貸せる人がいるのだろうか。騙されたことばかりに気を取られていたけれど、借り主はいったい何者なのだろう。


 僕の中に答えなんてあるわけがなく、ふと視界の中に違和感を覚えた。目を凝らすと屋敷の扉がわずかに開いているように見える。もしやという期待を胸に僕は久々に玄関をくぐった。


 中はがらんとして静まり返っていた。ほとんど何も残っていない。僕らが壁や床に開けた穴は、そんなもの初めからなかったかのように塞がれていた。もう僕らの家ではない。それが少し寂しかった。


 耳を澄ますと、かすかな音が聞こえた。衣擦れのような微かな音。階段を上り、扉の前に辿り着く頃には、すすり泣いている声だと分かった。ドアノブに手をかけた僕はしかし、捻ることができなかった。


 怖かった。余計に傷つけてしまうかもしれない。いや、そうじゃない。


 僕は彼女に会うのが怖かった。扉の向こうへ入ってしまったら、もう元の関係には戻れないかもしれない。ボロボロに傷ついた彼女は、僕の知るセルシスではなくなってしまったかもしれない。一緒に暮らして、泣いたり笑ったり、決して短くない時間を過ごした。僕らの間にも少しくらい絆はあったはずだ。それを失うのがとてつもなく怖かった。


 急に泣き声が止まった。中の人が扉の前まで来たことが気配で分かる。けれど扉は開かなかった。


 僕はドアノブを握った手に力を込める。今度は僕が開ける番だ。


 意を決して開いた向こう側に、彼女は立っていた。充血した目が僕を見上げる。視線が交わると、彼女は気まずそうに目を逸らした。涙を袖で拭って、奥のベッドにちょこんと腰かける。


 僕は音を立てないように扉を閉めて、彼女の横に腰を下ろした。一人分の距離。彼女は俯いたまま何も言わなかった。


 窓から差し込む淡い光が、彼女の足下を照らす。可愛らしい足の指は床を噛むように力が込められている。膝の上で握られた小さな手が服をきつく摘まむ。鼻をすする音と、僕らの息遣いだけが部屋に響いた。


 沈黙が心地よかった。だってそれは、僕がここにいてもいいのだと彼女が言っているように思えたから。


 それでも、いつまでも黙っているわけにはいかない。先に踏み出すことを選んだのは彼女の方だった。


「私はね、売られるために生まれてきたの」


 小さな、消え入るような声で語り始める。自らを嘲るような喋り方は彼女らしくなかった。


「愛されたことなんて一度もなかった。こき使われて、叩かれて、毎日死にたいと思って生きてきた。心の底から憎くて、でも、どうしようもできなくて。だけど、今日、会って、少しだけ、ほんの少しだけ、私は期待してた。私を迎えに来てくれたんじゃないかって。心のどこかで、期待してたの」


 ポタポタと再び溢れだした涙が彼女の握り拳に落ちて弾ける。


「そんなわけ……ないのに。分かってたのに……わたし、ばかだ……」


「セルシス……」


 僕は胸の痛みを堪えながら、この期に及んでまだ迷っていた。触れようと伸ばした手が宙で止まる。まるで透明な壁に阻まれているかのように、その先へ進めない。


 この小さな身体を抱き締めたら潰れてしまわないだろうか。消えてなくなってしまわないだろうか。とても現実的じゃない恐怖が喉を鳴らした。


 彼女は強い。けれどそれは肉体的な強さであって、心はまだ幼い子どものままだ。弱くて脆い。大人の悪意によって簡単に握り潰されてしまう。だから彼女は強くあろうと思ったのかもしれない。攻撃的で生意気な仮面を被り、独り戦ってきたのだろう。


 気づけば僕は彼女の拳に自らの手を添えていた。びくりと肩を震わせるセルシス。けれど、振り払うことはなかった。僕の手の甲に彼女の熱い思いがこぼれる。もう僕らの間に距離はない。


「やさしく……しないで……おねがい……じゃなきゃ、わたし……」


 ――がんばれなくなっちゃう。


 僕は彼女の小さな身体を強く、優しく抱き締めた。壊れないように、こぼさないように。


「頑張らなくていいんだ。もう、いいんだよ」


 強くある必要なんてどこにもない。弱くていい。ありのままでいい。もう戦いは終わったんだ。彼女の勝利で幕を下ろしたんだ。だったらハッピーエンドが待ってなきゃ嘘だ。


 それから彼女は堰を切ったように泣いた。大きな声を上げて、何を気にすることもなく、子どもらしく。

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