第7話 おまえの顔なんて見たくない!
すぐに復帰した僕は、急いで階段を駆け下りた。股間も無事だ。幼女の蹴りで潰れるほどやわじゃない。舐めんな鬼の力。
リビングに広がる光景に、自分の目を疑った。
黒いスーツを着た男たちが大勢押し入り、ソファなどに何かを貼りつけていた。そこには数字が書かれている。
「二万円?」
値段だろうか。とにかく、この家で勝手は許さない。
怒鳴ってやろうとしたところで、男がセルシスを突き飛ばしたのが視界に映った。
「お前、何してんだよ!」
ぶん殴ろうと拳を振り上げる。死んでも知らないからな。セルシスに危害を加えたお前が悪い。
すると、目の前に紙を広げられた。飛び込んで来た文字を見て、拳が止まる。
債権差し押さえ命令。借金を強制的に取り立てることを許可した政府発行の書類だ。現時点で借金を返せなければ、金目のものをすべて持って行かれる。
しかし、おかしい。セルシスたちはお金を持っている。借金する必要なんてないのだ。まさか、偽造か。
僕の疑念に答えるように、男はもう一枚の紙を差し出した。借用書だ。そこに書かれた文字を見て、僕はリノを振り返る。
「お前、これ……」
受け取ったリノは首を傾げる。
「なんて書いてあるんだ?」
「ここ、お前の名前と拇印が……」
「ボイン?」
わずかに膨らんだ自らの胸を見下ろし、リノは無邪気に笑った。
「まだちっちゃいぞ」
「親指で押した判子のことだ!」
怒りを抑え、連帯保証人のところを指さす。すると、思い出したように声を上げて頷いた。
「ああ、これわたしが書いたぞ」
「何で書いたんだよ!」
「頼まれたんだ。サイン書いてくれって。よく分からなかったから、名前書いた。どうだ? 上手いだろ?」
僕はリノから借用書をひったくる。不満げな小さな悲鳴が漏れたけれど、そんなものに気を配る余裕はない。問題は金額だ。現金で払えるレベルなら、差し押さえられることもない。
一〇億円。何度もゼロを数えたけれど、間違いではない。
セルシスを振り返ると、呆然とした表情で僕を見上げていた。
「そんなに、お金、ない……」
ゆっくりと歩み寄り、彼女は僕の腕に縋りついた。現金は七億円しかないという。
そんなに持っていたのかという驚きはあるけれど、今は少ないと思ってしまう。あと三億足りない。
「どうしよう……」
「どうって……」
どうしようもない。すべて持って行かれる。それで足りなければ、働いて返済しなければならない。
僕は黒スーツの男に詰め寄った。
「債務者は――」
「逃げたよ。家はもぬけの空だった」
「差し押さえ……はしたんですよね」
「大した金にはならんがな。まあ、そこの嬢ちゃんが言うように本当に七億円持ってるなら、あとはこの家のもの全部差し押さえれば何とかなるだろう」
全部失う。彼女たちが命がけで勝ち取ったものが、たった一枚の紙きれによって奪われる。そんなの、許されるはずがない。
「子供、ですよ? サインしたの子供ですよ?」
「だから? 返済能力があるんだから問題ない」
「リノは連帯保証人になるって理解してなかったんです。サインを求められただけだ。こんなの無効ですよ!」
「うるせえな。そんなの、そこの嬢ちゃんが嘘吐いてるだけかもしんねえだろ。連帯保証人の欄に名前が書いてある。書いたことを本人が認めてる。それが事実だ」
駄目だ。打つ手がない。
リノが僕の袖を引いて言う。
「どうした? 顔が真っ青だぞ」
お前のせいだろ!
喉元まででかかった言葉は、乾いた音で遮られた。
平手の形に赤くなった頬に触れ、リノは呆然とセルシスに顔を向ける。
「ふざけんな! おまえのせいで全部なくなった! この家も、お金も……これから私たちが、普通に生きていくためのものが全部、ぜんぶ……」
「セルシー、泣くなよ。ごめんな」
セルシスはキッとリノを睨みつけ、拳を振り上げた。けれど、震えたまま放たれることはなかった。代わりにリノを突き飛ばす。
「ねえ、自分がしたこと分かってる?」
「わたし、は……その……」
言葉を探しているのか、リノは黙り込んで俯いた。しかし、すぐに顔を上げると、苦笑しながら頭を掻く。
「よく分かんないけど、悪いことしたのは分かるぞ」
それが決定打になった。
セルシスは握り締めていた拳を解くと、何かを諦めたように弱々しい笑みを浮かべた。
「おまえに期待した私がバカだったわ」
ふらついた足取りでセルシスは階段へ向かう。途中、黒スーツの男にぶつかってよろめいた。
「セルシー!」
駆け寄ったリノをセルシスが突き飛ばす。
「おまえの顔なんて見たくない! 私の前から消えて!」
リノは伸ばしかけた手を止めた。呆然とセルシスの背中を眺める。
リノのことも心配だったけれど、彼女のことはマリアさんに任せて僕はセルシスを追った。二階の廊下で彼女を捕まえる。
「確かにリノは馬鹿だったよ。取り返しのつかないことをしたよ。けど、そんな風に突き放すなよ。リノだって、少しは反省して――」
見上げてくるセルシスの目を見て、言葉に詰まった。これ以上何か言ったら、彼女が壊れてしまいそうに思えた。
「やっと……普通の生活が、できると思ってたの……。もう、戦わなくていいんだって……。普通の、女の子みたいに、暮らせるんだって……。それなのに…………」
崩れ落ちる彼女に、何も言葉を掛けることができなかった。
彼女はお金を失ったことに絶望しているわけでなかった。
自分たちの平穏な未来が失われたことに絶望しているのだ。
しかも、それをしたのが仲間だった。
敵ならぶん殴って奪い返せばいい。それだけの力は持っている。けれど、そうじゃない。相手は政府の法だ。抗えば、それこそ平穏な暮らしなど望めなくなる。
九歳の女の子が背負うには重すぎる現実だった。
本当に救われない。
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