一・五日目
春の昼前の空気は、変に暑くて涼しくて、あたしを眠らせるのには最高のコンディションだ。
教壇の上の教員代行ツールは、
先生以外の声なんて、全然耳に残らない。窓側の最後列の席で、声を出さずに、大きな欠伸をひとつ付く。後から追ってくる、鼻がジワジワ痛む感じに顔が強ばった。
また、放課後
いつもと変わらない放課後の二人の時間が、先生から約束されたというだけで、こんなにも特別な色で染まっていくなんて。涙目のままなのに、思わず頬が緩んでしまいそうになる。誤魔化すように頬杖をつき、窓の外を見る。
大木を飾っていた沢山の花弁は、今朝より随分数を減らした。あんなに可愛らしく綻んでいたのに。春の命は、びっくりするほどあっという間で、呆気ない。
また欠伸を零す。春の空気は異常に心地好い。少しだけ寝よう。
そうしてあたしは、春容に抱かれた胸をそっと、組んだ腕で覆い隠し、首を垂らして浅い夢に落ちた。
❁
目が覚めた時も、まだ教員の話は終わっていなかった。寝惚け眼に見えるのは、連絡を一生懸命書き込む人、あたしと同じく眠そうな人、本を読んでる人……みんな自由だった。
ふわふわと浮いた頭を元に戻している内に、先生は話を終え静かに教室を出ていった。タイミングを見たように、チャイムも一つ、鳴り響く。今日の日程が終了した事を知らせるチャイムだ。
つまり、これからが放課後。
他の子はそれを合図に席を立ち上がると、周りの子とお喋りをし始めた。女の子の、撫でるような笑い声と、化粧品と香水の甘い匂いが、外の桃色と交わる。
あたしは鞄に教科書を詰め込み、足早に教室を出た。一足廊下へ出た瞬間、新鮮な風が髪を梳かした。蝉みたいに高い声や、茹だる程甘い匂いは苦手。あたしは、何度も何度もゆっくり深呼吸して、汚れた肺を潤した。歩き出し、学習棟へ向かう。
❁
学習棟は、移動授業や文化祭の時にしか使用されない、学園内で最も古い棟である。特別な理由が無い限り、立ち寄る必要もない場所。
そう、特別な理由が無ければ、の話。
あたしは三学年の自分のクラスを出て、回廊を歩く。中庭では、暖かい陽の光を
学習棟は、三学年の教室から一番遠い所にある。他学年の教室前を通り過ぎ、職員室を横切って、やっと目的の裏入口へ辿り着く。錆びた引き戸をこじ開けて、古びた渡り廊下を進んだ。
日はもう真上に来ていた。廊下の屋根が落とす影は、すっぽりとあたしを覆った。内履きのゴムと砂が擦れる嫌な音が、両側の低い手すりと屋根に反響して、微細に震える。
すぐ横のテニスコートや校庭では、既に部活動に勤しむ学生が多く居た。肩を叩き合って、声を浴びせ合って、顔も髪も土で汚した、美しい女の子達の爽やかな喧騒が、何故かやたら遠く聞こえる。ああ、と思い、目眩を起こし始める脳を無理矢理正して、長い長い廊下に乗せられ、真っ直ぐと棟まで向かった。
❁
扉が完全に朽ち果てた学習棟の入口は、
この棟の三階、唯一移動教室でも使われることのなかった、たった一つの教室に、貴女はいつも居る。
心許ない階段に身を委ね、ずんずん登って行く。先生は、必ずあたしより先に教室に居て、窓の外の学生や景色を、ひたすら眺めている。
「…先生っ」
いつになく緊張している。優しく戸を開け、教室内にはまだ入らず、少し顔を覗かせて貴女を呼んだ。先生の筒の体はその場でゆっくり回転し、やがてこちらを向く。
『今回は、乱暴に扉を
先生の、茶化すような言い方。それが合図となり、あたしの身体は自然に先生の左隣に吸い寄せられる。背負っていた荷物を近くの机に置き、手摺りを指でなぞりながら、先生を目だけで見る。
「ね、今日は先生から会うの約束してくれたわね。三年目にして初めてだわ、嬉しい」
『私が約束をしなくても、貴女は来ていたでしょうけど』
「ふふふ、今ちょっとはぐらかしたでしょう」
『……学校のある日は必ず私と会話をしていますね。楽しいのですか』
「あたし先生に会うためにここに来てるのだもの。楽しくない訳ないわ」
『…そうですか、変わった学生ですね。他の学生なら、今頃友人と一緒でしょうに』
「………学生の人間関係に言及する先生も、変わった教師ね」
『今、少しはぐらかしましたね。親しい友人などは居ないのですか』
「…居ないわ。あたしは、先生の生徒でも無いのにツールに話し掛ける、変な学生だって有名なのよ」
『そうなのですか…確かに、不思議に思われてもおかしくないですね』
「……先生は、変だと思う?あたしが、先生に会いたいって思う事」
『思いませんよ、何を好きになっても個人の自由なので。しかし、受け入れられ難いのは事実です』
「…あはは!先生、あたしが先生の事を好きだって言ったの、ちゃんと覚えていてくれてるのね」
『………音声データとして保存されているのですよ』
「ふふっ」
目の裏側が、熱く痛み出した。ハッとして、制服の袖で乱暴に顔を拭う。
静まり返った教室。不意に、プツ、と小さく鳴った。先生のスピーカーが発声する直前、必ず鳴る音。あたしは精一杯誤魔化すつもりで、目の前の窓に手をかけた。立て付けの悪い窓は派手な音を漏らしながら、頑固に閉じた口を、やっと
勢いの付いた風が、空いた窓からたっぷり流れ込んでくる。桜がその上に乗り、二人だけの教室を花弁で埋めた。
「先生見て、凄く綺麗ね」
少し鼻の詰まった震える声で、何とか貴女に笑い掛ける。何も答えない。ただ先生は、花に頬を打たれながら、風の吹いてくる方の空を、じっと見つめていた。あたしも釣られて、先生と同じ空を感じる。
空は、先程より雲を多めに孕んでいた。日が暮れかけている。煮えるオレンジ色の陽が反射して、雲と辺りの空を染める。
「…ね、先生。今日はもう少し、ここに居て良いかしら」
『もうすぐ閉校時間です。それまでに荷物をまとめて帰るべきですよ』
「ふふふ、先生は相変わらずね」
『貴女もです』
「分かったわ……じゃ、先生。二日後また、ここで」
『…………』
先生は肯定しなかった。貴女は、貴女を差し置いて先に教室を出ようとする女を、じっと見つめていて――恐らく、会うことを黙認してくれていたのだろうけど――あたしはそれが堪らなく怖かった。
❁
あたしは元来た道を、小走りで辿っていった。空っぽの廊下に、軽い、間の抜けた靴音だけが鳴り響く。
何かに追われるように、靴を履き替えて、絡まりそうになる脚を何とか保ちながら、走って校門を抜けた。
暑くも無いのに顔から汗が染み出す。寒くも無いのに指先と身体の芯が凍る。
大好きな春。煮え切らないこの気候は、不思議と貴女を思わせて、今だけ、ほんの一瞬、本当に嫌になった。
一・五日目.END
冷たい身体に、恋は帯びるか とても長い雨 @totemonagaiame
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