冷たい身体に、恋は帯びるか
とても長い雨
二年と一日目
『新入生の皆さん、入学式、大変お疲れ様でした』
校内放送、スローモーな朝。低く柔らかい男性の声は、窓の外に舞う真っ白な桜と、落ちた薄桃の影に良く映える。でも、あの人よりは。
『続けて連絡です。只今、各教室に教員が配布される予定です。今後の日程に関しては、教員から連絡があります。また、…』
息を絞り出し、廊下を駆け抜ける。乾いた軽快な上履きの音と、放送機のモスキートだけが共鳴した。長くて淡い自分の癖髪が、甘い空気を掬う。セーラー服の茄子紺の襟は、風圧に負けてパタパタと靡く。
『学生一同の、これからの大いなる活躍に期待しております』
お決まりの部屋、学習棟の一番奥、空き教室に貴女は居る。
顔が、じわじわと熱を持つのが分かった。息が苦しいのも、体温が上がるのも、走っているのだけが原因ではない。
『…改めまして、ご入学おめでとうございます。以上、"教員代行学生用学習ツール"でした。』
放送終了の合図。木琴に似たベルが四回、愉快に鳴り渡いた。
❁
教室前で、慌ててブレーキを踏む。
引き戸にある小さな硝子の向こう、貴女は、窓の端の方で、向こうをじっと眺めて立っていた。
「先生!」
勢い余って、力一杯に戸を開ける。反対側に打ち付けられた片扉は、大きな音を立てて反発する。硝子が、ビリビリ震えた。
『………また貴女ですね、
先生は、ゆっくり振り返って私の方を向く。
その声。大好きなその声は、狭い教室に満ち満ちて、やっとあたしへ届く。
「ふふ、
『学生と教員の間に、そのような親しい名称は必要無いと判断しています。…貴女の砕けた話し言葉にはもう諦めていますが』
先生は、依然落ち着いた様子で、また窓の方に向き直る。あたしは先生の左隣に歩み寄り、同じように窓を眺めた。
庭に植えられた大樹の群れは、一斉に花開いていた。今日は風が強い。それなのに、花弁は眠くなる位ゆっくりゆっくり、身体をうねらせながら流れていく。
『今年度で、貴女はこの
「分かってるわ、先生。先生も、もうあたしとのお喋りは三年目になるのだから、ちょっとは許してくれても良いんじゃないかしら」
『…貴女のような、教員と会話を試みる学生は初めてですよ。その"先生"という呼び名も正しくない。貴女は私の生徒では無いのですから』
「ふふ、先生は先生よ。他の教員さんには使わないわ。あたしは先生の生徒では無いけど、貴女は私に、色んなこと沢山教えてくれるでしょ?」
窓の鉄手摺に腕を組んで寄り掛かる。顔を
キュッと、如何にも、堪らなく愛しいという感じで、目を細めてみる。
そんな事をしても、貴女は何も感じないだろうけど。
『学生に教えを施すのは、教員としての使命です。私はその責務を全うしているに過ぎません』
「でも、ちゃんと自分を持ってる先生、あたし好きよ。他の教員は、こうやってお喋りしないわ」
『能の抽出時に余計な不具合でもあったのでしょう。自我は、私達ツールに本来必要の無い要素です』
無機質で、澄み切った先生の声が、排熱と共に発せられる。虹色に色付いた外の花に良く似合う、女性の、先生の甘い声遣い。
鼓膜を、酷く優しく撫でられる感じに、何処か恥ずかしくなった。温い季節の下、あたしの顔だけが常夏だった。
あたしは突っ伏したまま、銀の、寸胴な貴女の身体に右手を伸ばす。指先を置く。
冷たい金属の感触のずっと奥に、貴女の体温を感じた。
「そんなに自分を卑下しないで。それでもあたしは、先生が好きよ」
上へ上へ、先生の身体に指を滑らせて行く。目を模した小さな二つのカメラレンズに、あたしの姿が映り込んでいる。その辺りを、目に触れないように、震える親指でなぞる。
『……何をしているのですか、葛西さん』
冷淡な先生の声は、いつもの調子と変わらなかった。
「ふふ、愛情表現よ。分かる?」
『…分かり兼ねます。私は機械です』
先生の声が、
「人とか機械とか関係ないわ。…好きなものには触れたくなるのよ」
あたしは意地が悪かった。頭を起こし、真っ直ぐ先生を見つめる。手は、先生の
「例えば、こんな風に」
空いていた左手も、先生の身体に回した。細針が指に落ちる微塵の痛み、冷ややかな触覚。
先生にも、他のツールにも口は無い。代わりに、瞳のレンズのすぐ横、両頬の辺りに、細い切れ込みが幾つもあった。貴女の声は、何時もそこから聞こえる。貴女の横に居れば、貴女の声は直接届く。
そこへ、あたしの顔を近付ける。唯の真似事だ。それでも良かった。
ああ、近ければ近い程、先生の中の音が沢山聞こえるわ。多分、あたしだけが知る音。特別な、先生だけの調子。
刹那、時が止まったようだった。思い留まった途端、放送機からチャイムが鳴り出す。
思わず顔を引き下げる。心臓が、吐き気を覚える程働く。血液供給の過多で、顔が真っ赤に茹で上がっているのが分かる。
『予鈴ですね。葛西さん、そろそろ教室に戻って下さい』
貴女は、まるで、まるで何も無かったかのように言い放つと、スイスイとあたしの元を離れていく。
先生はふと立ち止まると、振り返ってあたしを確かに見つめた。
『………今日は授業はありません。では、また放課後』
少し焦り気味に零れた先生の言葉。
「あ、は、はい!また…」
すっかり動転していたあたしは、裏返った声で何とか返事をした。情けなさにまた顔が熱を帯びる。
放心したあたしを嗤うかのように、二回目のチャイムが呆気なく鳴る。
それに背中を押され、あたしは慌てて教室を飛び出し、三学年の教室へ向かって走った。
二年と一日目.END
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