第38話 臆病な僕と悪意と対をなすもの
弧を描いた拳が頬に突き刺さり、溝口要はたたらを踏んだ。しかし、倒れない。何度打ち込んでも、スウェーバックで威力を軽減させている。攻撃から身を躱し、逸らし、痛みから逃れる方法は、彼の方が優れている。それは、子どもの頃から変わらない。道場で学ぶ間も、攻より守に長けていた。その学習力、吸収力は自分以上で、自分や師範を驚かせた。学んだことに自身の発想力を加えて応用する技術も秀でていた。彼は自分の事を天才だなどと誉めそやしたが、自分から見れば、彼こそが天才だったのではないかと思う。唯一の欠点は、攻撃に関しての躊躇が見られること。
だが今の彼は、打たれながらも、反撃を繰り出してくる。攻撃を繰り出した瞬間こそ、防御が疎かになる。それは自分とて例外ではない。腹と胸の間、みぞおち辺りに彼のつま先がめり込んでいる。一瞬呼吸が止まる。それは、動きが止まるのと同義だ。酸素の供給が絶たれ、思考が止まる。食いしばった口の隙間から、空気が逃げる。そこを彼は突く。
体勢を既に直していた溝口が掌底を打つ。かろうじて腕で防ぐが、早く、重い一打は腕を痺れさせる。
第二打が迫る。まともに受けてはいけない。体を後方に逃し威力を殺し、同時に距離を取る。
「何故俺の邪魔をする!」
取り戻した酸素で、叫ぶ。
「友達だからだ!」
鼻血を垂らしながら彼は叫んだ。
「尊敬する大切な友達が、僕のヒーローが、誰かを傷つけるような間違いを犯そうとしているんだ。止めるさ! 怖いけど! 全力で!」
そして、まだこんな自分を友と呼んでくれる。だからこそ突き放す。
「悪いが、俺はお前の事は嫌いだったよ。優れた身体能力と才能を持ちながら、臆病な気質が故にそれを発揮できないでいるお前が!」
間合いを詰める。互いに繰り出した拳が、互いの腕に塞がれ、拳によるつばぜり合いが起こる。
「臆病なままのお前なんかに、止められてたまるか!」
「じゃあ、乗り超えるよ今ここで。臆病な自分も、ヤタにいも!」
腕を振るい、互いを弾き、距離を取り、そして詰める。喧嘩するコマのように回転し、弾きあい、どちらかが止まるまで殴りあう。
スカイツリーへ向かう人間の種類が、徐々に変わり始める。無表情な人間に混じって、困惑した顔の人々が増え始めた。スカイツリー周辺では、入りきれなかった暴徒たちが、敵だ、敵だとコールしている。不気味な光景だった。
誰かが、震える声で叫んだ。「もう止めよう」と。充満する悪意の合唱から見れば、蚊の羽音よりも小さく弱々しいものだった。悪意の無表情が、一斉に声を発した人間の方を振り向く。無機質な目に射抜かれたその人は、縮こまって声を出すことも身動きも取れなくなって怯えてしまった。
すると、誰かがその人の前に立った。庇うように立つその人も「止めよう」と言った。その人は震えていた。けれど、震えを隠すように拳を握り、もう一度「止めよう」と言った。同じように、別の誰かが前に立ちはだかり、言う。「止めよう」と。その声は、徐々に大きくなっていく。敵だ、という声を呑み込むように。
無表情の誰かの目が、徐々に生気を取り戻して行く。
これが、芦原の狙いだった。悪意が感染するのなら、反対の善意も同じように感染するのではないかと。通常の人間であれば難しいが、暗示にかかっている人間は、悪意も善意もかかりやすい状態にあるはずだ、と。ただの感情論だけではない。いや、感情論ではあるが、勝算のある理論でもあった。
「馬鹿な」
切れた口元が、驚愕に歪んだ。
「悪意が薄れていくだと。結樹、お前、一体何をした」
「兄さんと同じことです。人の善意を感染させ、悪意に上書きしました」
「善意を、だと。ふざけるな。そんな人間が大量にいるなら、破滅の未来など訪れるものか。そもそも、お前にそこまでの力はないはずだ!」
「ええ、ありません。私に出来るのは、その人が持つ本質を強めることだけです。だから、ここに集まった人たちには、元々備わっていたんです。優しさとか、勇気とか、そういう物が。また、流れた放送には溝口さんが映りました」
え、嘘? という顔で溝口が目を見開いた。
「彼が幼い兄弟を助けた映像が、今日までに何万回も流れています。きっと、見た人には届いたはずです。どうしてそんなに怯えながらも、助けにいけるのか。胸が、腹の奥底が震えたはずです。その人に、当たり前の善意があるなら。彼がまた誰かを助けている。怯えながら、それでも立ち向かっている。その彼が助けを求めている。なら応えよう、自分達が助ける番だ、と。悪意は感染します。けれど、その対になる物も感染します。いるんです。隠れているだけなんです。信じましょう。今日誰かに優しく出来た人は、明日も誰かに優しく出来ます。優しくされた人は、優しさを返します。別の誰かに優しくできます。そうやって優しさを、善意を広げる事で、きっと未来は破滅から逃れられます」
「認められるか!」
弥太郎が、実の妹に襲いかかる。目を固く瞑り、備える彼女。しかし、予期した痛みも苦しみも、彼女には届かない。弥太郎と結樹の間に一人の男が割って入っていた。
ぎりぎりと、互いの力が拮抗する。
「もう、止めよう。ヤタにい」
「カナ」
「僕も、芦原さんの案に賛成だ。それなら誰かが傷つかなくても、ヤタにいが傷つかなくても済む方法だ」
「なんだと」
「ヤタにいの方法を取る事で、一番苦しんでいるのはヤタにいじゃないか」
「何を言うかと思えば」
「僕の知っているヤタにいは、厳しいけれども、優しくて、勇気の溢れる、それこそ善意の塊みたいな人だ。その人が反対の行動を取っているんだから、苦しくないわけがないんだ」
「勝手な人物像を押し付けるな。俺は、目的のために手段を選ばない。目的のために妹すら手にかけようとした男だ。多くの人間を扇動し、罪を冒した。そういう男だ。いずれ地獄に落ちる人間だ」
「だったら助けるぞ。地獄に落ちる前に」
「出来るものなら、やってみろ。俺は、ここでお前を倒し、再び悪意をばら撒く。今集まっている人間も含めれば、かなりの人間を撒き込める。そうなれば、もう、どれだけ結樹が賢しく足掻こうと止められない」
弥太郎は腕を振り払い、距離を取った。
「これで終わりだ」
来る。
互いに傷だらけ、余力もほとんどない。次の一撃が最後の力を振り絞ったものになる。呼吸を整える。相手の呼吸を計る。どのタイミングで動くか、どんな手で来るか、想像する。何百通りのシミュレーションを脳内で繰り広げる。
図らずも、同時。
踏み出す。一歩、二歩、間合いに入る。一瞬の差、しかし弥太郎が速い。彼の拳が突き出される。狙いは胸。まともに食らえば、肋骨が折られる。
めり、と体に拳がめり込む。骨の軋む音も聞こえる。しかし、致命傷には至らず。なぜなら、それは相手に狙わせた場所だからだ。弥太郎の拳が穿ったのは、僕の左肩に近い胸だ。体を僅かに逸らし、打点をずらす。そこに当てさせたのは意味がある。弥太郎が腕を伸ばしきれば、拳がドリルでもない限りは体を突き抜けない。体はぐるりと回転ドアよろしく回る。これで、僕の半身が弥太郎の懐に入る。ここまで接近した際に放てる打撃は、アッパーや寸剄。相手もそれを警戒する。ここで、少し屈む。相手の想像どおりのアッパーを見舞う。相手が取る手段は、体を逸らすか、手で防ぐだ。弥太郎は手で防ぐを選んだ。拳を振り切っている力があるため、体は充分に逸らせないと判断したようだ。
それこそが、狙い。足の伸びまで使ったアッパーを打つために少し屈んだわけじゃない。より深く、相手の懐に潜り込むためだ。右手で相手の襟元を掴む。そのまま上半身を縦に回転させ、左手で相手の足を払う。傍からみれば、僕が弥太郎を肩に担いだような姿勢だ。打撃では威力を逸らされる。だから、威力を逸らせない方法を取る。
歯を食いしばり、限界を超えて、僕の体は弥太郎を担いだまま横回転した。そのまま彼を床に叩きつける。
弥太郎の口から空気が抜けた。我ながら中々の衝撃が、彼だけ出なく僕も襲った。痛みを堪えて、立ち上がる。
弥太郎は、意識を失っていた。どことなく満足げに見えたのは、僕の気のせいだろうか。
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