第37話 臆病な僕と芦原結樹

 無理だ。

 逡巡する溝口を見ながら芦原結樹は考える。彼は優しすぎる。そもそも人を傷つけることすらためらいがある人物だ。そんな彼に兄を殺すことなど出来ない。出来たとしても、一生苦しみ続けるだろう。私は彼に、そんな重荷を背負って欲しくない。

 どうにかして、彼の今抱える問題を、負担を、少しでも軽くしなければならない。考えろ。彼に全てを負わせないと誓ったのは自分だ。自分こそ有言実行しろ。このままじゃ巻き込むだけ巻き込んだ役立たずの馬鹿だ。暗示が解けないなら、別の方法がないか模索しろ。

「千鳥さん!」

 一つの方法が頭に浮かぶ。結局の所、自分は人を巻き込むしか脳のない愚か者だ。彼の重荷を減らすにはこれしか思いつかない。

「千鳥さん。ここでの放送はまだ流れているんですか?」

 兄は言った。自分が操れているのは、言葉を軽く見ている連中だけだと。その言葉を信じる事になる。つまりは、画面の向こうには、操られていない人間がまだいるという事。

「流れているが、何をする気だ」

「私の能力を、流します」

「しかし、それでは止められないのでは?」

「止めるんじゃありません。促します。操られていない人々に向けて」

「…っ! そういうことか! しかし、可能なのか!」

「分かりません、けど、これしか思いつきません」

 賭けだ。そもそも、促したとしても実行してくれる人がどれだけいるか分からない。

「OK。分かった。すぐにそこの機材を外部からのリモートに切り替える。ついでにラジオも館内放送も、ありとあらゆる放送をジャックする。目にして耳にして感じるリスナーが対象だ。原稿はないアドリブだが、大丈夫か」

「大丈夫じゃないけど、大丈夫です」

「上等。私もその賭けに乗ろう」

 

 

 後ろで動きがあった。芦原さんがカメラの前にいる。

「何をするつもりだ、結樹!」

 弥太郎が止めようと彼女に近付く。何をするつもりか僕も知らないけど、彼女のやることを邪魔させてはならない。それだけ分かれば充分だ。弥太郎の前に立つ。

「退け、カナ」

「嫌だ」

 視線の交錯は一瞬。緩やかな動きが、急激に変わる。鋭い踏み込み。超至近距離からの体重の乗った肘が突き刺さる。かろうじてバックステップで威力を殺すが、息が止まり、強制的に息が吐き出される。

 腕を上げられたのは、ほとんど偶然だ。しかし、それが僕の意識を繋ぎとめた。肘鉄からの、いつかの変質者を地に鎮めた右回し蹴りが即頭部を狙っていた。踵が腕にめり込む。高い威力に体が持っていかれるが、痛みが飛びかけた意識を覚醒させる。浮いた体を足を伸ばして着地させる。その頃には弥太郎は再び再接近していた。左脇腹に狙い澄ませた突き。体を捻る事でそれを躱す。背中を拳が掠っていく。背中合わせとなった。

 体全身をしならせる。肩、肩甲骨あたりが打点のイメージ。八極拳の鉄山靠のような当て身を繰り出す。

 がしんと背中に衝撃が走る。奇しくも、相手も同じことを考えていたらしい。衝撃を利用して、距離を取り、今度はこっちが詰める。

 踏み込みそれ自体を攻撃とする。弥太郎の動きは、悔しいが僕よりも早い。ならば、動きを封じることを狙う。相手の足の甲を踏み抜き、機動力を奪う。

 強く踏み込んだ足は、しかし床しか叩かない。狙いを読んだ弥太郎は足をずらしていた。

「甘い」

「どうかなっ」

 交錯した足を倒す。膝で相手の膝を押さえる。これでステップでは逃げられない。左から掌底を繰り出す。腕を伸ばしきる前に弥太郎の腕が阻む。力点をずらし、威力を押さえれた形だ。構わない。本命はいつだって二の矢、三の矢だ。臆病者は、いつだって次の手を考えておくものだ。

 伸び切らない腕を伸ばす。左は囮。防がれるための一打。伸ばしきることで生まれる反動と回転運動が体の中枢に戻り、腰の回転を連れて右腕に集約される。驚く弥太郎の顔に、右の本命が迫り、顎を打ち抜く。

 首を捻る事で弥太郎は威力を軽減させていた。そうなることも、見越して放つ三の矢。右を放ったことで、僕の態勢は崩れている。無理に戻そうとせず、この流れをそのまま使う。右から受身を取るように前宙返り。捻っていた首を戻した時、弥太郎が目にするのは、僕の踵だ。

 左肩と首筋の間に、僕の踵が突き刺さる。

「ぐ、つぅ」

 たまらず弥太郎が下がった。

「どうだいヤタにい。初めて良いのが入ったぞ」

 咳き込みながらも、少しずつハイになって来ている自分を自覚する。戦歴的には一勝百敗くらいだ。

「いい気になるな。俺はまだ倒れていないぞ。自慢したければ、倒してからにしろ」

「もちろんそのつもりだ」

 再び僕達は交錯する。

 

 

「『この放送を見ている、もしくは、聞いている皆さんへ』」

 芦原結樹の放送が始まる。

「『今、東京スカイツリー周辺で、暴動が起きています。暴徒の目標は、由憲党松原長政幹事長と、夜明党恩田翔平代表です。証拠の、リアルタイムの映像をご覧ください』」

 映像が切り替わる。防犯カメラがとらえた映像には、調理室に立て篭もって扉を押さえているS同盟と恩田、怯えて縮こまっている松原、そして、レストラン側からは溢れんばかりの人が扉を押し開け、破壊しようと迫っている。見るものに恐怖を与える映像だ。映像には悪意が溢れかえっていた。

「『暴動の原因は、悪意です。膨れ上がった悪意が、意図的に扇動され、はけ口として松原幹事長と恩田代表に向けられているのです。そして、今、私の仲間たちが、二人を助けようと悪意の波に抗っています』」

 適当な症状、例えば集団ヒステリーが原因であるとかも考えた。しかし、それでは伝わらないのではと思い直した。もう、溝口を悲しませた時のような愚は冒さない。信じられようと信じられまいと、怖がられようと、真摯に向き合い、言葉を用いる。

「『助けてください』」

 芦原が訴える。

「『突然何を言っているのかと思われるでしょう。暴徒の鎮圧は、警察や自衛隊の仕事だと、自分は関係ないと思われるでしょう。なぜそんな面倒なことをと思われるでしょう。それでも、私たちは、あなたに助けて欲しいのです。なぜなら、ここに溢れているのは、ただの暴動ではないからです。人の、一人一人から溢れた悪意が形となっているからです。物理的な鎮圧は望めません。おそらくそれでは、悪意のしこりが残るからです。いずれ再び、大きなうねりとなって復活し、今度はあなた方に牙を向く可能性があるからです。悪意を沈めるには、それを上回る正反対のモノ、善意と呼ばれるモノが必要です。誰かに対する優しさや慈愛、誰かを守るための勇気や義侠心。当たり前に皆が持っているもので、しかし、現代社会では出し辛くなっているもの。正直者が損をするだけ、他者への情けは無駄。ええ、そうでしょう。誰もが自分以外を見ない今は、それらは無駄でしかない』」

 そんなの間違っていると、私は思います。芦原は断言した。

「『優しさや愛のない社会が、誰かを助けようとしてなけなしの勇気を振り絞った故の行為が、無駄だなんて、間違っている』」

 画面の向こうで、困惑する人々の顔が見えるようだ。それでも芦原は言葉を続ける。

「『意味の分からない事をいっていると思うでしょう。頭がおかしいと思うでしょう。でも、今このスカイツリーで起こっている事は、全て事実です。私の目の前では、何の見返りも求めず、困っているからと手をかしてくれた人が、命がけで戦っています。暴動を扇動した男を止めるために』」

 画面の向こうにいる誰かが気づく。にいちゃん、あれ、僕達を助けてくれた人だ。

「『もう一度、伏してお願いします。助けてください。悪意の連鎖反応を止めるために、スカイツリーまで応援に来てください』」

 ちらと後ろを振り返る。そこでは、ボロボロに傷つきながらも、立ち上がり、抗い続けるヒーローがいた。

「『皆さんの力が、必要です。他人事だと切り捨てないで。見捨てないでください。少しで良い。私たちに力を貸して下さい』」

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