第15話 憶病な僕と事件
『本日はお集まり頂き、ありがとうございます!』
壇上の男は、周囲の人だかりに向かって、精一杯の愛想をふりまく。
『私、中野部ツヨシは、ここに宣言します。私は、この国を立て直す!』
自分が立候補するに至った経緯、どのような問題意識を持ち、それをどう解決して行くかを政治公約に掲げた。そして、自分が今掲げた問題をいつまでも解決できない現政権の批判へと、中野部の演説は熱を帯びながら移行していく。
『現政権に、国を立て直す力はない! 国民の為、国民の為と言いながら、何ひとつ打開策を実行どころか案すら出ず、だらだらと議会が迷走するばかり。国民の、皆様の声に耳を傾けず、己が利益にばかり固執し、国を傾けている彼らにはもう、国の舵取りを任せてはおけない! 私、中野部が、現政権にノーを突きつけ、打倒し、命を賭して公約を成し遂げ、皆様と、皆様の子ども、孫のために、より良い未来を残す為に戦います!』
高らかに拳を掲げる。決まった。心の中で、中野部は自分に酔っていた。一拍おいて訪れるであろう万雷の拍手を全身で受け止める為に、心持ち胸を張り、背筋を伸ばす。
しかし。
彼が望んだ民衆からの熱い声援も、羨望のまなざしも、シャワーのような拍手も全く訪れない。あるのは、空気すら揺れない沈黙の空間だ。
中野部は焦った。これまで幾度となく街頭演説は行ってきたが、ここまで無反応だった試しがない。しかも今回の演説は、コンサルタントに演説内容や話し方を細かくチェックさせた、かなり良い出来であると自負している。それに、サクラも民衆の中に忍ばせていた。一人が声を上げれば、応援すべきか迷っている、もしくは何の考えも持たない周りの人は簡単に『応援するべきなんだ』と同調して、ねずみ算式に声が増えるはずだった。
なのに、この静けさは何だ。近くのパチンコ屋の店内放送の方がまだ音が大きい。
痛いくらいの静寂が耳を刺す中、中野部の耳にようやく民衆の声が届いた。けれどそれは、彼が待ち望んだものではなかった。
「敵だ」
『…は?』
中野部は目を丸くして、耳を疑った。何と言われた? 聞き間違いか?
「敵だ」
いいや、聞き間違いじゃない。しかも、さっきとは違う声だ。
「敵だ」
「敵だ」
「敵だ」
ぽつり、ぽつりと。静かだった空間に言葉が落ちる。けして声を荒げるわけではない。むしろ、その場にそぐう様に静かな声だ。声は徐々に増えていく。同時に、周囲の人だかりの雰囲気も急変していく。
『な、何なんだ、何なんだよ』
マイクを通して、中野部の不安な、唯一人間臭い声が響く。人だかりからの「敵だ」の一言の雨が、怯えた中野部の声を飲み込んだ。
「「「あいつは、敵だ」」」
中野部の背中に、未だかつてないほどの悪寒が走った。自分を見上げる群集の、何の感情も浮かばない無機質な瞳と目が合う。
『ひ』
後ずさり、壇上から中野部は落ちた。強かに腰を打ちつけたが、気にしている場合ではないと本能が警告を発している。この場から逃げなければならない。立ち上がり、走り出そうとして、ぶつかった。再び無様に尻餅をついて、見上げれば自分を支えてくれているスタッフが、彼の行く手をはばんでいた。助けを求めようとして、中野部はその声を飲み込んだ。スタッフもまた、自分を敵と称した彼らと同じ目で自分を見ていたからだ。見渡せば、中野部はそんな彼らに囲まれていた。輪はゆっくりと閉じていく。
「た、助け」
助けを求める声は、誰にも届かず、群集の悪意に飲み込まれていった。
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