第13話 憶病な僕と日常の悪意
「よし、とりあえず、これ以上土壌を作らせないための隔離は、芦原弥太郎に会わない事で何とかなるだろう」
少し和んだ空気を引き締めるように、千鳥が言った。ちなみに芦原が確認した結果、ここにいる全員に土壌が形成された形跡は見当たらないとの事。弥太郎を悪く言うつもりはないが、それでも内心ホッとしてしまうのは僕の人間性が弱いからだろうか。
「次は、操り易い人間や感情の見分け方についてだが、どうだろうか。差などはあるだろうか?」
「差はあるかとは思いますが、あまり意味がないかもしれません」
「どういう意味かな?」
「人間には色んな負の感情がどうしても存在しますよね。怒りや悲しみ、憎しみ、嫉妬、不信に不安。兄の力はそういった負の感情を持つ人間を対象にしています。ある一定量の、そういう感情を持たなければ操る事は出来ないと思います」
「いや、ちょっと待ってくれ。負の感情を持たない人間なんか、生まれたばかりの赤ん坊くらいだぞ。成長した人間は、多かれ少なかれ負の感情を抱えているものだ。それでは、ありとあらゆる人間を操れるって事じゃないか」
意味がないってのはそういう事か。千鳥が呆然とした口調で呟く。
「本来であれば、誇るべき事なんです。兄が力を正しく使えば、おそらく世の中から心の病で悩む方は激減するでしょうし、心の病のせいで死に至る人はいなくなります」
悔しげに芦原は語る。死にたくなるほど思い詰める人の精神構造は、深海で息も出来ずに水圧に押し潰され続けるような、とんでもない苦しみが寝ても覚めても続くようなもの、と勝手に想像している。それくらい苦しいのだと思う。その苦しみから解放されるために死を選ぶほどなのだから。頭と心に刻まれたその苦しみを取り除けるのだから、芦原弥太郎の能力がいかほどのものか。
「負の感情を持たない人間がいないので、兄はほとんどの人間を操れるのと同じです。ただ」
「ただ、何だね?」
「正義のヒーローのような、強靭な意思や負の感情を上回る何かを持つ人であれば、兄の影響を受け難いかもしれません」
「…それに期待するのは、あまり現実的ではないな。残念な事だが」
「はい。後は、抱える負の感情の大小で操るための労力とか条件とか、操られる時間の長さや移せる行動の種類が変わるかと思います」
「ふうむ。やっぱり土壌ができてしまっていた場合は、出来るだけ家から出ない事できっかけを生む条件を減らしていくしかないな。では、駅の事件のようなケースはどうだろうか。芦原さん。あの事件では発症した瞬間、周囲にいた人間に感染し、同様の認識と精神状態に置かれてしまったと言ったね。感染する条件はなんだろうか?」
「条件、と言いますと?」
「感染という表現をしたと言う事は、本来であれば土壌があったにも関わらず、あの場では発症する事がなかったという意味だと捉えている」
「あ、はい。そうですね。最初の男性の発症条件に合致したのは、鵜木さんとのやりとりが原因で、基本的に発症は本人と対象です。ですので、通常であれば、自分とは関係のない事で発症する事はありません」
「同調し、加担したのは感染したから、という事だね。その感染する条件、もしくは感染する人間の共通点と言い換えても良いかな。教えてほしいのは、同じ場所にいた芦原さんと溝口君は感染しなかったという点だ。芦原さんは、家族であり同じ能力の持ち主ゆえの耐性のようなものがあるのではと推測できる。しかし、溝口君は違う。他の皆と同じ行動をとってもおかしくなかった。感染した彼らと溝口君の違いが分かれば、感染者をかなり減らす事が出来るのではないか?」
「そう…ですね」
再び芦原は首を捻った。
「では、まずは感染しやすい感情についてですが、これは最初に事件についてお伝えした時にも出た『悪意』です。悪意は、人間の感情の中で、最も他人に感染しやすいです」
「何か理由があるのかな?」
「悪意の中に含まれる凶暴性、攻撃性が関係していると思います。きちんと調べたわけじゃないので推測になってしまいますが」
すみません、と芦原が頭を垂れる。
「そもそも調べようがないさ。君のせいじゃない。それに、何となく分かる気もするよ。歴史も人間の凶暴性、攻撃性を証明している。戦争は言うまでもなく、身近なところならハラスメント、いじめ、最近ならSNSの炎上、誹謗中傷はそれに当たるだろう。後は、群集心理やアイヒマン実験の結果などが証明を補足するね」
千鳥の言葉を聞きながら、頭が記憶を手繰り寄せる。いじめられていた過去の記憶だ。
どうしていじめが起こるのか。あれだけいじめはいけないことだと教育されているにも拘らず、世の中から無くなる兆しは見えない。反対に、増加の一途を辿っている。いじめられる事は無くなったが、人から避けられるようになって、良い意味でも悪い意味でも時間ができたから、自分なりに考えてみた。
いじめで得られる物とは何か。大勢で一緒になってやっているという共感性や、他者より優れている優越感や、自分よりも悲惨な目に遭っている人間がいるという安堵感によって、自分より下の人間がいると自覚して、皆もやっているからという免罪符を盾にして、身の安全と安心を得たいがためだ。そして、いなければ作る。それがいじめだ。そして標的にされやすいのは、集団の平均から逸脱している者だ。運動や学業の成績が優れすぎているもの、劣っているもの。性格、性癖、容姿何でも。尊重すべき個性が標的になる。
また、いじめられる前に誰かをいじめるというのは、暴論だが利に適っている。人間の慣れを利用した方法だ。誰かが長期間いじめられていると、そうしてもいい、という空気が作られてしまう。倫理が日常の麻痺した世界に飲み込まれる。
「悪意の感染は、そのSNSによる炎上に近いと思います。見知らぬ誰かの発言がきっかけとなり、皆の攻撃の方向性が傷つける対象に集中します。駅の事件を例として上げると、鵜木さんの抗議に対して、抗議を受けた本人だけでなく、その周囲の人間も、感情の大小、種類の差はあれど、鵜木さんを意識した。注意した鵜木さんは全く悪い事などしていません。ただ注意しただけです。ですが多分、その場にいた人全員が鵜木さんに対して『怖い』とか、『電車に乗れなくて迷惑』とか『面倒』とか、そういう負の感情を抱いたんじゃないでしょうか? 男性本人が鵜木さんに抱いた悪意は、その感情に引っ張られて感染した」
「ちょっとまとめさせてくれ」
千鳥は、事件の例から感染条件を簡単にまとめた。
その一。発症者の発症のきっかけを作った人物Xを意識、認識している。
その二。Xに対して負の感情を抱く。
「感染条件はこの二つか。ということは、溝口君が感染しなかったのは、鵜木君に対して負の感情を抱いていなかったという事だな」
「そうなります。補足として、先ほど話した発症者の負の感情の大小で感染する範囲や人数は変わります。あの場合、言い争いを離れて聞いていた人が感染しなかったのはそこまで影響力が及ばなかったからです」
「了解だ。最後に、もう一つ気になっている点がある」
「なんでしょうか?」
「どうやってお兄さんは何人もの人間の土壌を形成したんだろうか。芦原さんの話を聞いていると、お兄さんは山形にこれまで住んでいたんだよね? 地元の山形ならいざ知らず、東京で多くの土壌をいつの間に築いたんだろう?」
「…それは、すみません。わかりません」
「そうか…。いやなに、その方法が分かれば理由も掴めるかと思ったんだが」
「なぜ兄がこんな事をしているか、ですか?」
「ああ。推理ものでは誰が、何のために、どうやって。以上三つがキーとなる。今回は誰が、はわかっている。残りの二つが一つでも判明すれば、もしかしたらこれ以上の事件発生を防げるのかも、と考えた」
なるほど。理由を失えば動機はなくなる。手段を押さえれば方法はなくなる。
「以上で、私の用件は終了だ。こんな時間に申し訳なかった。また、こちらの無理を聞いてくれて、本当にありがとう」
「いえ、兄のせいで傷つく人を増やしたくはありませんから。私の方こそ、聞いてくれて、信じてくれてありがとうございます」
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