第9話 憶病な僕と彼女の覚悟

「いや、いやいやいや、待ってください」

 片手を彼女に突き出し、もう片方の手を額に当てる。

「意識を書き変えただけで、今日の事件が起こったんですか?」

 必死に頭を回すのは、その信じがたい出来事の理由の説明が信じられない事だったので、何とか反論材料を集めているせいだ。

「一件目に関しては、その理由でいけるかと思います」

 心の中で百歩譲って、これまでの話が事実なら、と付け加える。

「でも二件目、駅での暴行はそれだけじゃ説明つかない。突然周囲の人間が、マナーの悪い相手に注意した、ええと鵜木さんだっけ、あの人に襲いかかるなんて。書き変えたのは事実でも、鵜木さんが注意したのは偶々ですし、周りの人の様子も突然おかしくなったように見えました。意識の改変って、ああいう突然操られたみたいに行動をおかしくさせるようなものじゃない、と僕は想像していたんですけど…」

「意識の改変だけなら、難しいかもしれません」

 芦原はあっさりと認めた。

「けれど、能力はそれだけじゃないんです。今のは意識に関する能力だけの説明です。心、感情については昼間に説明しましたよね」

 人の感情を操って、悪意を増幅させる事が出来る。

「あれって、やっぱり本当に、本当なんですか」

「すみません。でも、事実なんです」

 彼女が謝る事じゃない。教えて欲しいといったのは僕の方だ。

「無意識、倫理観を変えるだけでは、今日のような事件に繋がりません。人間の行動は、善悪だけじゃなく、損益などにも左右されますから。殺人を犯す事は出来る。けれども、するかしないかでいえば、しないということはあるかと思います。感情を操る事で、行動の後押しを行い、人の行動を促す事は可能です」

「通り魔を行ったり、集団リンチを行ったり?」

 そうです、と彼女は深く頷いた。

「殺人事件の報道などで、犯人の供述に『カッとなってやった』というのがあります。推奨するつもりはまったくありませんが、まさに人は、カッとなったら殺人を行う事が出来ます。理由が生まれ、倫理が外れる瞬間です。通り魔事件の時は、人為的にカッとなるように感情を操ったのです。二件目の駅の集団リンチについてはもうひと手間かかっています」

 美味しい料理みたいに言われても困る。

「本来であれば、鵜木さんに対して悪意を抱くのは、あの注意された男性だけですよね。確かに男性には、意識の改変と感情の操作が施されていたと思います。自分に注意してくる人間は悪であるとか、そういう意識を植え付け、そんな悪意を向けてくる相手に対しては悪意で、暴力で対抗していい、というような。そこにもう一つ。男性の周囲の人間に、同じ感情、倫理が広がるよう設定されていたのです」

「設定って。機械じゃないんだから」

「人間も、ある意味機械みたいなものですよ。積み重ねてきた経験がプログラムとして組まれ、設定され、必要に応じてプログラムが動いているんです。そのプログラムが書き換えていると思って頂ければ理解しやすいかと思います。あの瞬間、男性の感情と無意識のプログラムがコピーされ、近くにいた人に感染したのです」

 だから、男性と同じように鵜木に悪意を抱き、暴力を振るう行動を取ったというのか。正直、僕はまだ疑っている。あれだけの事がありながら、そんな事はあり得ないと、常識に縋っている。けれど、目の前で起きた現実が、常識を押し潰す。

 いまだに目に浮かぶ暴力の惨状と詰め込まれた情報をウーロン茶で流し込み、一息ついた。全てが事実で、本当に起こった事だ。認めよう。認めて、次に進むんだ。

「芦原さん」

「はい」

 彼女も、僕が落ち着くのを待っていたように、カップから顔を上げた。上げたところで、表情は伺えないのだが。

「今日の事件を起こしていたのは、誰なんですか」

 きゅっと、彼女の体が強張る。それも一瞬で、意を決したように彼女は口を開いた。

「私の兄です。芦原弥太郎。一族の中でも、過去に例がないほどの強力な能力を持っています」

 

「どうしてお兄さんは、こんな事を?」

 当然の疑問を口にした。行動は、理由や目的あってこそだ。しかし、芦原は首を振った。

「わからないんです。何故兄がこんな事を始めたのか。去年初め、家族に何も告げずに突然家から消えたんです」

「お兄さんが今どこにいるか、は…」

「それも…すみません」

 申し訳なさそうに俯く彼女の後頭部を見つめる。予想していたから、そこまでショックは受けなかった。それに、お兄さんの居場所は分からないが、別のとっかかりがある。山は一つ、けれど、登る道はいくつかある。途方に暮れるのは、全部行き止まりだったときだ。かける言葉を少し考えてから、切り出す。

「芦原さん、今日の事件を予測していましたよね。通り魔が暴れる前に助けてくださいって言ってたし、十一時に渋谷に来いとも」

「それは、はい。私も兄ほどではありませんが、能力が使えます。私の場合、流れというか縁というか、そういうのが見えると言うか」

 ちょっと、説明するのが難しいんですが、と彼女は首を何度も捻る。

「長い川を想像してください」

「長い川ですか?」

「はい。そこに、葉っぱが落ちます。葉っぱは下流へと流されていきますよね。川の形や流れの向きで、ある程度、葉っぱの流れを予測できるのではないですか」

「まあ、そうですね。出来ると思います」

「葉っぱは、能力者の力が加えられた人です。流れは、その人の時間軸です。私は能力を加えられ影響を受けた人と、どのような影響を受けたか、と言う事と、その人の行動をある程度予測出来ます」

 なるほど、理解できた、と思う。彼女はお兄さんの目的は知らなくても、お兄さんによって意識や感情を改変させられた人間の行動を推測できたのだ。

「予測の確率は、時間が経つにつれて上がります。先ほどの川と葉っぱの話で言うなら、私は下流にいて、上流から流れてくるのを見ている、といった感じでしょうか。葉っぱが近付けば近づくほど、どう変化するのか当たる確率が上がります」

「今日の駅の事件は夜の十一時、昼間芦原さんが僕に話してくれたのは四時か五時ごろでしたよね。五、六時間圏内ならかなり高い確率で当てる事が出来る、ということですか?」

「そうですね。きちんと時間までは計った事はないのですが、十二時間以内ならかなり細かく推測できるとは思います」

 普通に喋っているが、実は凄い事なのではないか。これ、推測なんて言葉を使っているが、未来予知じゃないか。能力が使われているという限定条件がつくけれど、それでも凄い事に変わりはない。

「じゃあ、芦原さんが東京まで来たのは」

「ええ。兄の能力の影響を受けた人間が多いからです」

「それって、どう見分けるというか、見つけたというか、どうやって?」

 ええと、と再び芦原は悩んだ。申し訳ないな、と思いながらも言葉を待つ。人に説明する時、気をつけなければいけないのは、相手がどれだけの予備知識を持っているか、ということだ。あらゆる分野のあらゆる技術の中には、必ず専門用語が存在する。その用語を知っているかいないかだけでも、説明内容は大きく変わる。まして今、普通の人間には備わっていない特殊な力に関して、全く無知の、赤ん坊を相手に説明させているのだ。まだ説明する事で、同じ事が出来れば理解も出来るだろうが、同じ事が出来ない人間には、細かなニュアンスや、感覚さえも伝える事は出来ない。

「サーモグラフィーって、あるじゃないですか。人の温度を見る」

「ああ、ストーブやエアコンのテレビ通販でよくある、この短時間でこれだけの温度差が、みたいな?」

「そうです。それです。私の目は、通常の視覚とは別に、サーモグラフィーが熱を感知して視覚化するように、能力の影響力を視覚化する事が出来ます。しかも東京は、必ずテレビで映る、人が多い場所がありますよね」

「もしかして、渋谷駅の?」

 天気予報でよく映る光景だ。展望カメラで上空から渋谷駅周辺を撮影している。どのチャンネルのニュースでも、高確率で映る場所だ。

「はい。それを見た時に気づいたんです。多くの人が、能力の影響を受けている事に。ここまで広がるなんて、通常ではありえません」

「そんなに、ですか?」

 思わず左右を見渡す。

「あ、いえ、この店内の方は、特に影響を受けている方は見受けられません」

 僕の心配を見透かし、彼女は言った。彼女が見たのは先日の夕方ごろの映像だったらしい。しかしそれでも、気にならないと言えば嘘になる。

「で、でも、今までの所、あんな騒ぎが起こったとか、そういうニュースはなかったと思うんですけど」

「きっかけがまだだからではないか、と思います。先ほどの話に関係してくるのですが、人が行動に移る際、色んな理由や制約があると思います」

「人を殺す事は出来る。けれど、理由がないから殺さない、という?」

「はい。その理由が今日の事件を起こした人たち以外には、まだ訪れていないだけだと」

「その理由って、何なんですか?」

「すみません。そこまではわからないんです。わかっているのは、その行動を起こすための土壌が既に出来上がっているという事だけです。いつ、何がきっかけで行動に移すかまでは、見抜けませんでした」

 まるで時限爆弾だ。いつ爆発するかわからない。爆弾なら、見つけさえすればどうにか出来るかもしれない。けれど、人の心の中のスイッチの解除方法なんてわからない。下手に触れれば暴発する恐れがある。そして、今日の駅の事件のように、他の人に感染したら、歯止めが利かなくなる。

「その前に兄を探し出し、止めます。失踪したのも、事件を起こしたのも、東京中に土壌を作ったのも、全て関係していると思っています」

 だから、兄を止めるんです。芦原は自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。

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