第7話 憶病な僕と毛羽毛現再び

 地下二階、商業施設ヒカリエ改札前に到着した僕らは、改札にいた駅員に事情を話し、救急車を呼んでもらった。幸い、というのもおかしな話だが、ここの駅員はまともだった。だが、まともだからこそ起こりうる事態を、僕は想定するのを忘れていた。男を預けたらそれで終わりだと思っていた僕は、毛羽毛現に事の仔細を再度尋ねようと考えていた。けれど、世の中には僕以上に地下で起きた事を知りたがる方々がいる。駅員と、警察官だ。駅員は自分達が誇りを持って仕事を行う駅構内で何が起きたのか当然把握したいし、警察官はそもそも事件を解決するのが仕事だ。まともな駅員は、救急車を見送り、立ち去ろうとした僕達を当然のように引きとめた。

「警察も既にこちらに向かっています。お忙しいところ申し訳ございませんが、事情聴取に御協力ください」

 言葉遣いはお願いする立場のものだが、有無を言わせぬ雰囲気を出していた。駅員室にほぼ強制的に連行された僕たちは、椅子に座らされた。スタッフ以外入室禁止の場所に入れるなかなか得がたい体験をしているが、まったく嬉しくない。見れば、駅構内の防犯カメラの映像がずらりと並んでいた。問題の東横線のホームも見えている。緊急ブザーとこのカメラ画像とを確認して、既に連絡していたのだ。画面上では、他の駅員が丁度ホームに到着して、暴れていた連中を取り押さえようとしている。まずい、また「敵だ」とか言って暴れ出すんじゃないのか。

「大丈夫です」

 小声で、毛羽毛現が僕にだけ聞こえるように囁いた。

「彼らが、今向かった駅員の方々に暴力を振るう事はありません」

 彼女の言う通り、暴れていた連中は、大人しく駅員たちの誘導に従っている。襲いかかるような獰猛さは欠片もなく、むしろ怯えているかのようだ。この光景、見覚えがあるような、ないような。

 違う、見てはいない。けれど、同じような状況を聞いた。警察署だ。刃物を振り回していた男性の、その後の様子だ。男性も、逮捕された後は怯えながら取調べを受けていたと聞いた。なぜ自分がこんな事をしたのか、理解出来なくて怯えていた、と。その話と似た状況だ。警察も間もなく到着した。駅員から警察へと連中が引き渡される。大人しい。葬儀の参列かと錯覚するほどに。

「ちょっと良いですか?」

 画面や引き渡されて連行されていく彼らを食い入るように見ていた僕らに、警察官が声をかけてきた。

「君達が、暴行されていた鵜木真吾さんを救出したんですよね?」

 笑顔で警察官は尋ねてきた。けれど、その目の奥は鋭かった。僕たちの一挙手一投足にアンテナを張っている気がする。暴力事件を目の当たりにした人間は怯えでも怒りでも、興奮状態にあるから、それを安心させるために業務スマイルを浮かべている。けれど、本当に神経をピリつかせているのは警察の方なのだ。

 ほんの僅かだが、毛羽毛現がたじろぐように後ろに下がった。警察官の視線から逃げ、僕の影に隠れる。警察が苦手なのだろうか。いや、得意な一般人はいないか。警察官も、毛羽毛現の姿に少しだけ驚いていた。自然、彼の質疑には僕が応答することになる。再び警察署に連れて行かれるのかと思いきや、駅職員室にて事情聴取は行われた。

「なるほど、鵜木さんがマナーの悪い乗客に向かって文句を言った。すると言われた方が彼を突き飛ばして転倒し、そこを周囲の人間が殴打した、ということですね」

「はい。その通りです」

 警察官は難しい顔をして、顎に皺を寄せていた。

「突き飛ばした相手とだけ乱闘になったなら、話はまだ分かるんだがなぁ。周りの人間が暴行に加担したと言うのがよくわからない。加害者の中の誰か、もしくは複数人が、被害者と面識があったとかは…」

 こちらを伺うように警察官が視線を寄越した。

「いえ、そういう風には見えませんでした」

 年齢も職種もばらばらで、全員の共通点を強いて上げるなら人類な事くらいだ。ただもちろん、僕はもう一つの共通点を知っている。知ってはいるが、話す気にはなれなかった。僕自身まだ疑っている部分があるし、なにより突っ込まれて聞かれたら答えようが無い。知識がそもそも無いのだから。そして、その知識を補えるはずの毛羽毛現は、警察官とあまり話さないようにしている。聞かれれば答えるが、それは名前と年齢と住所などの、最低限の情報だけだ。警察も女性で、彼らからは怯えているように見える彼女に無理に聞こうとはしなかった。被害者も加害者も既に確保していて、証拠の画像もある。後必要なのは事件の詳細と発生した理由、書類をまとめるための文章パーツくらいだろう。

「ちなみに、あなたは、被害者もしくは加害者と面識は?」

「ありません」

「どこかで会った事も? 例えば、コンビニなど、あなたがよく行く店の店員とか反対に客として会った、とかは?」

「いえ、それも無いと思います」

「では、見ず知らずの人間を助けに入ったと? 消火器まで持ち出して?」

「あっ、もしかして、まずかった、ですかね?」

 火事でも無いのに消火器を振り回したのだ。緊急時以外に使用したら罪に問われたりするのだろうか。

「ああ、いや、緊急事態でしたし、そこは大きな問題にはならないと思います。一般的に、善意で行った救命行為であると認められた場合罪に問われません。今回も救命行為に当たりますから、問題ないと判断されます。ただ、電車に設置された消火器を電車の火事以外で使用した事については、調書を作成しなければならないので、この件についてはこうして話を聞かなければなりませんが」

 しかし、勇気がおありになる。警察官はおだてるように言った。罪に問われるのではと強張った僕の緊張をほぐそうとしているのか、幾分穏やかな口調で。

「普通、暴力事件を目の前で見て、止めに入ろうなんて思わないですよ。暴力は視覚にダイレクトに恐怖を訴えます。慣れない人は逃げるどころか、動けなくなる事だって多いのに」

 恐怖はあった。当然のように、僕の身の内に巣食っていた。それに、最初は警察官の言うように恐怖で全く動けなかった。けれど、被害者の目を見てしまったとき、思わず動けてしまったのだ。

「勇気なんか、ないです。臆病なのは、自分が一番わかってますから」

「でも、あなたは行動できた。それだけで凄い事だと思いますが。それに、溝口さん。あなた、今日の昼に通り魔事件に遭遇したでしょう? それも、犯人を取り押さえた」

 何だろう、この話し方、持って行き方。まさか疑われているのだろうか?

「あ、すみません。別にあなたが何かしたとか、疑っているわけではないんです」

 僕の視線に気づいたのか、警察官は顔の前で手を振った。

「通り魔事件は、悲しいかな起こり得る世の中です。暴力事件も同様に。けれど、その二つの事件に、同日に遭遇することはかなり珍しいのも事実です。しかも、今回のように加害者は逮捕され、証拠もあって、なのに動機だけが不明なんて奇妙な事件にです」

「僕がいたのは、偶々です」

 本当は偶々ではないかもしれないが、そこは伏せて言った。これが刑事ドラマでよくある、疑われたくなかったから嘘をついた証言者の心境だろうか。全く悪い事をしていないのに、悪い事をしているような、物凄く後ろめたい気分になる。良心の呵責には苛まれないほうが精神衛生上良いという事をよく理解できた。

「ええ、もちろん分かってますよ」

 笑顔で僕にそう返す警察官だが、話の最初から一貫して目が笑っていないのだから、疑われているのでは、と疑いが深まるばかりだ。後ろめたい気持ちもそれに拍車をかけている。

 心臓に悪い警察官の事情聴取は、しかしさほど時間を取らなかった。昼の出来事みたいに、僕が疑われているわけではないからだろう。すぐに開放された。

「何か思い出したり、気がついた事があったら御連絡ください」

 言い残して立ち去ろうとする警察官に、僕は声をかけた。

「あの、被害に遭った人は、大丈夫なんですか?」

「ええ。先ほど病院に向かった者から、命に別状はないと連絡がありました。既に意識も回復しましたし、酷い見た目の割には深刻な傷も無く、後遺症の心配も無いそうです。検査の為に二、三日入院する事にはなりますが、すぐに退院できるとのことです」

「よかった」

 ここでようやく、安堵の息を吐けた。

「お見舞いに、行っても良いのでしょうか?」

 初めて、毛羽毛現が自分から口を開いた。これには僕だけでなく、警察官も少し泡をくったようだ。

「これも、何かの縁、だと思うので…」

 言葉尻と一緒に、彼女も僕の背中の後ろにフェードアウトしていった。かなり勇気を振り絞ったのがわかる。彼女が背中にしがみついているせいで、痛いくらい、服の襟元が締まっているからだ。

「それに、その人ともう一度会ったら、何か思い出すかもしれませんしね」

 擁護ではないが、僕も彼女の提案に賛成だった。無事とは聞いたものの、後は任せて知らん顔は出来なかった。自分の目で無事な事を確認しておきたいというのもある。

 どうかな? 教えてもらえるかな? という不安は杞憂に終わり、警察官は彼が入院している病院を教えてくれた。

 駅員室から出てすぐ、スマートフォンを取り出してネットで教えて貰った病院の場所を検索する。日本赤十字社医療センターは…広尾か。電車移動だと、一旦恵比寿まで行くしかないのか。そもそも、この時間に家族でもなんでもない人間が病院に入れるのだろうか。意識も戻ったと言っていたから、事情聴取も受けているだろうし、何よりあれだけの暴力を受けたのだ。体力が回復していないかもしれない。見舞いとは言ったが、今日のところは諦めて帰って出なおした方が…

 あれ? そもそも今何時だ? スマートフォンの上部画面に表示されている時計はすでに十二時を超え、一時になろうとしている。

「え、うそ、嘘だろ? 終電何時?」

 下宿先の最寄駅である大岡山行きの最終電車は、既に終わっていた。タクシーで帰る、なんて選択肢はない。ここから大岡山まで三千円くらいかかる。電車なら二百円だ。この比較だけで三千円がいかに大金か分かろうものだ。

 始発まで約四時間。ファミリーレストランのドリンクバーで潰すしかないか。そう結論づけて、はたと気づく。毛羽毛現は、どうする気だろうか、と。

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