第6話 憶病な僕と敵意

 明確な敵意が一点に集中する。焦点にいるのは若い男だ。

「な、何だよ」

 気圧されたか雰囲気に呑まれたか、彼は後ずさりした。片足がドアからはみ出る。そんな彼に、中年の男性は間合いを詰めるように一歩近寄り、おもむろに彼を突き飛ばした。バランスと立ち位置が悪かったか、思いのほか強い力だったのか、彼は体勢を崩してホームに尻餅をついた。

「っつう…・てめ、何しや」

 彼は最後まで男性に対して文句を言う事が出来なかった。横合いから伸びてきた脚が彼の横っ面を弾いたからだ。今度は悲鳴すら上げられずに男はホームに突っ伏した。脚を出したのは高いピンヒールを履いた女性だった。オフィスレディなのかフロアレディなのか僕には分からないが、綺麗な足だとは思う。性癖の如何によっては、あの脚で踏まれたり蹴られたりするのはご褒美になるかもしれないが、今のはちょっと度が過ぎていると思う。誰が言ったか、SMは、痛みを感じる直前の快楽ラインぎりぎりが最適解だそうで、その道のプロはそこをわきまえている。相手がどの程度で快楽を覚えるかをきちんと見極めて言葉と物理の鞭を振るうのだ。自分はSだから、と訳の分からない前置きを置いて相手を傷つけるのはSではない。ただの傷害という字の頭文字だ。Sを名乗るのもおこがましい。

 少しわき道に逸れてしまったが、とにかく今の蹴りは傷害だ。かなり良い蹴りが入ったらしく、男は四つんばいになろうとしているが、その腕が震えている。脳震盪を起こしているのかもしれない。危険だ。

 そんな男を、人の津波が襲いかかった。生まれたての小鹿みたいな彼の背に、ドレスシャツの男は拳をハンマーのように使って叩きつけた。あっけなく男は再びホームを舐める。倒れ臥した男の横腹を、さっきの女性が再び蹴った。ごろんと転がろうとした男の背中を、今度はジャージ姿の老人が蹴り、三度男はホームに顔を付ける羽目になった。そこからは酷い、暴力の嵐が男を呑み込んだ。四方八方から脚やカバンや杖が男性を打つ。集団リンチだ。このままじゃ彼が死ぬ。

 当初考えていた光景とはまったく違うが計画通り、非常ベルを鳴らす。けたたましいブザー音が駅構内に鳴り響く。流石にこれで駅員は気づくだろうし、音に反応して暴力行為も止まるはず…

「何で駄目なの!?」

 僕の嘆きはブザー音にかき消された。それほどの爆音が鳴り響く中、未だ男は暴力を受け続けている。暴力を振るう彼らの耳に、この音は届いていないのか。まるで


 ―感情を操られ、悪意に満ちた人間の凶行―


 彼女の、毛羽毛現の言葉が蘇る。確かに、操られでもしなければこんな状態にはならない。突然爆音が鳴り響けば、普通誰でも驚く。音源を振り返るくらいする。そんな、反射的行動すらないのだから。

 音では彼らは止まらない。ならば物理的に止めるしかない。しかし、その物理を司るはずの駅員が、どこからも来る気配がない。何でだ。

 見渡して、来る筈がなかったと理解させられた。最先端で男に蹴りを入れているのが駅員その人だからだ。隣には車掌までいる。道理で電車が発車しないわけだ。

 止める人間がいない。いや、いることは、いる。僕だ。ここには僕しかいない。けれどどうやって。目の前で繰り広げられる暴力の嵐は、入る事をためらわせるのに充分な視覚効果をもっている。生半な覚悟では割り入るどころか近付く事すら許されないだろう。

 何で、一日に二回もこんな現場に出くわすんだ。もう嫌だ。逃げたい。逃げよう。臆病な心が喚き出す。こんなの僕の手に負えない。警察とかの案件だ。

 ああ、なのに何故。何故僕は、電車の中に入って、消火器なんかを持ち出しているんだろう。電車の各車両に消火器が常備されているのは知っていた。知っているだけで良かった。使う事なんて一生なければ良い道具の一つだ。それを手にとって、僕は何をしようとしているんだ。

 そもそもこの道具は火事の時に火元に向けて使う物だ。火のついたような騒ぎであっても、人に向けて使う物じゃない。

 理性がブレーキを踏み込む。これまで培われてきた常識が頭の中を駆け巡る。間違っている。常識的に考えて、自分がやろうとしている事は明らかに間違っていると訴える。馬鹿な事をして、もし責任を取らされたらどうする。何もしないのが一番良いんだ。自分のためだ。自分だけじゃない。家族にだって害が及ぶかも知れない。ネットに顔も住所も晒され、自分も家族も袋叩きにされる危機だ。見過ごせ、知らんふりをしろ。それは、この社会において生き抜くスキルだ。危うきには近寄らない。例外の行動を取らない。それが最も安全で、安心できる生き方だ。皆そうやって生きている。自分だってしていいはずだ。なんら良心の呵責に苛まれる事なんかない。そうだ、それが一番安心で安全で楽な生き方

 ごろりと、倒れていた男が仰向けになった。もはや体を庇う力も、意識すらも失われようとしているのが見えた。瞳から、光が消えようとしていた。消える寸前、目が合った。助けを請うかのように、こっちを見ていた。

「わ、わぁああああああああ!」

 頭が真っ白になった。視界も真っ白になった。消火器から噴射された薬品がホームを白に染め上げた。音は気にならなくても、実際に対象を見て暴力を振るっていた連中は、対象である男を見失う。消火器の中身を全部ぶちまけた僕は、せき込む連中の中へと口元を覆いながら突進した。人と人の隙間に体を捻じ込み、両手と脚を使って隙間を広げる。そこら中でばたばたドミノ倒しになっているが気にしてられない。記憶の中にある、倒れた男と周囲の光景を頼りに、口元を押さえながら屈み込む。

「ドンピシャだこん畜生!」

 果たして、記憶どおりの場所に男はいた。彼の左腕を取り、自分の肩にかけさせる。彼のわき腹に手を回し、体を接着させ、両足に力を込めて立ち上がる。腕力だけでは腕と腰を痛める。脚の力で担ぎ上げる。古武術の応用だ。介護の現場でも使われている。またも昔取った杵柄が役に立った。何でも習っておくものだ。さっき作った人垣の裂け目から男を連れ出す。そこからどうする? とにかく彼を地上に連れ出さなきゃならない。病院に運ぶ必要がある。エレベーターが見えた。運よくホームで止まっている。距離は十メートルもない。これで運ぶ。

「敵だ」

 ぞっとした。その声は、間違いなく僕の背中に向けて投げかけられたものだからだ。足は止めず、肩越しに振り返る。消火器の煙幕が晴れ、虚ろな目の人々がこちらを見ていた。

「敵だ」

「敵だ」

「あいつも敵だ」

 エレベーターに辿り着く。開ボタンを連打する。スイッチが点灯し、エレベーター内の灯りも点いた。ああくそ、何でこんなに開くのが遅いんだ。

「「「「敵だ」」」」

 人間を担いでいない連中にとって、十メートルなんてあっという間だ。反対に、意識を失った人間を肩に担いでいる僕はどうする事も出来ない。

 今更のようにエレベーターが開くが、もう間に合わない。捕まる。

 押し寄せる人波は冗談抜きで死を連想させた。呑み込まれたら死ぬ。迫る彼らが、スローモーションで見える、これが本当の、時間が止まっているように感じる瞬間だ。

 だから、横から飛び出てきた白い煙もまた、ゆっくりと放射状に拡散して行くのがスローモーションで見えていた。僕以外の誰かが、消火器を巻き散らしながら突っ込んできた。毛羽毛現だ。髪の毛の隙間から細い腕が飛び出ていて、その先の小さな手が消火器本体とノズルを掴んでいる。こちらに突っ込んできた連中は消火器の勢いのある噴霧によって再び足止めを喰らう。

「早く中に入って!」

 背中越しに彼女の声が聞こえた。首の位置を戻せば、目の前のドアが開き始めている。ジャストだ。相撲の小手投げのような、半ば放り投げるような勢いで男をエレベーターに乗せて、横たわらせた。エレベーターのスイッチを押すために振り返ると、毛羽毛現が消火器を噴射し尽くして、エレベーターに乗ってきたところだ。声で合図したわけでも申し合わせたわけでもないのに完璧なタイミングだ。彼女が乗ったのを見計らって最上階のボタンを押し、閉ボタンを押す。ボタンに反応したエレベーターはゆっくりと閉まっていく。透明なガラスのドアの先で、煙が晴れた。途端、彼らはエレベーターに殺到した。誰かの手が、閉じようとするドアの隙間、開ボタンに伸びる。

 一瞬早く、エレベーターのドアが閉まりきった。ばん、ばんと無数の手がガラス張りのドアに張り付く。ゾンビ映画も真っ青の恐怖だ。閉まりきったドアはボタンに反応せず、するすると上へ昇り始めた。彼らの何の感情もこもらない目が天井で遮られた瞬間、へなへなと腰が砕けた。

 なんなんだよ、もう。本当に、何なんだ一体。体育座りで、両手で顔を覆う。訳が分からない事ばかりだ。

「来て、くれたんですね」

 声が降ってきた。見上げると、毛羽毛現がこっちを覗き込んでいる。下からだからか、彼女の毛がふわっと広がって、その隙間から顔や体が少し覗いていた。声から想像した以上に若そうだ。もしかしたら、僕よりも年下かもしれない。肩で息をしながらも、彼女は嬉しそうだ。嬉しそうにされても困るし、不可解なことばかりでこっちは混乱している。それを笑われているようで、完全に八つ当たりになるが苛立ちを覚えた。巻き込まれた腹立ちもある。自然、声が尖ってしまう。

「何なんだよあれは。何で、あんな事になったんだよ。君は、こうなる事が分かってたのか。そんな危険な場所に、僕を呼んだのか」

 言ってやりたい事が沢山ありすぎて、文句の順番も滅茶苦茶だ。しかし、僕が怒っている事は通じたのだろう、彼女は喜びを引っ込めて、項垂れた。

「申し訳ありません」

 あまりにか細い声だった。別に僕は悪くないと思うのだが、すぐに怒りを引っ込めて悲しませてしまったとおろおろする僕は、やはり人の顔色ばかり見る臆病者なのだろう。

「違う、違うんだ。謝ってほしいんじゃない。むしろ助けて貰って感謝してる。でも、何が何だか分からないこの状況を、説明してほしいんだ。このままじゃおかしくなりそうなんだ」

 フォローしようと立ち上がろうとして、呻き声が聞こえた。横たわる男の口から出たものだった。説明よりも何よりも、まずは彼を病院に連れていく事が先決だった。

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