第5話 憶病な僕と渋谷駅

「何で、ここにいるかな」

 二十三時十五分、僕は渋谷駅にいた。日中は平日でも人間がごった返す渋谷も、終電間近になればそこそこ減ってくる。二軒目、三軒目の飲み屋を梯子するサラリーマンやOL、終電逃し、帰宅を諦めてカラオケを探し始める学生達、実に楽しそうで羨ましい。そんな彼らを遠めに眺める僕の寂しさよ。楽しげな彼らを見ていると、本当に何をやっているんだろうという気になってくる。

 これ以上彼らを眺めていても何の益にもならないし、寂寥感が増してくるので背を向けた。結局来てしまったのだから、商業施設のビルから地下へ続くエスカレーターに乗ると、すぐに東横線入り口が見えてきた。改札を通り、またすぐ地下へ。東横線は、渋谷駅で一番乗りにくい路線な気がする。大井町駅のりんかい線もかなり地下深く潜るがエスカレーター一本二本で行けるのに、東横線はエスカレーターと通路が繰り返される。もちろん大した距離じゃない。が、そこに人の多さがプラスされると途端に渋滞する。しかもだ。皆行儀良くエスカレーターの片側を空ける。急いでいる人間用に空けているらしいが、片側に並んでいるせいで長蛇の混雑した列を生成してしまい、結局急いでいる人間の妨害をしている。事故防止のためにエスカレーターは歩かず二列で手すりを持って乗ると看板まで作られて周知されているのに、守ろうとしている人間を見た事が無い。あ、いや、あるにはある。周りの迷惑を全く考えずに手を繋いだまま移動しているカップルどもだ。繋いだ手と一緒に仲も引き裂いてやろうかと心から思う。ともかく、そんな例外のクソ共以外は、行儀良く皆片側に並び、そのせいで酷く混雑するのが東横線だ。

 三番線ホームに到着する。横浜方面行きの各駅列車が急行列車の待ち合わせをしていた。電車の中は人がまばらで、座席は半分ほど空いている。その割に、ホームは少し混雑している。皆、次に来る急行に乗ろうとしているのだ。

 壁際に寄りかかり、スマートフォンで時間を確認する。二十三時二十三分。彼女が予言した時間まで二分を切った。視界の端で何かが動いた。見上げると、電光掲示板の表示が変化していた。二十三時二十五分発、急行、みなとみらい行き。

 時間に目が止まる。二十五分発。まさか、この電車に昼間のような人種が乗っていると言うのか。ホーム内に、間もなく電車が到着する旨のアナウンスが流れる。

 強風がトンネルの向こう側から押し流されてくる。地下駅特有の現象だ。何も見えない暗闇から、間違いなく十両編成分の巨大な質量が押し寄せてくる。妙な緊張感が全身を支配し、軽く握った手には汗が滲み出した。何か起こるわけない。起こるわけない。そう自分に言い聞かせても、心のどこかではもしかしたらという考えが昼間の恐怖を連れてぴょこんと頭を出す。

 ブレーキ音を響かせながら、十両編成の電車は停車位置に止まった。ドアが開く。降りる客はほとんどいない。それを見てか、ホームで並んでいた客は列車になだれ込んでいく。二十五分は間もなく過ぎ、電車はまもなく発車する。

 何もなかった。やっぱりね。騙されたんだ。騙された事の悔しさは少しあるが、何も無かった事による安堵感の方が強い。強がりじゃないぞ。

「おい、てめえちょっと待てよ」

 心が、どうってことない一言でざわついた。どこかの乗り口だろうか。男の野太い、嫌悪感を隠しもしない声がホームに反響した。見渡すと、五号車の辺りで、乗車も降車もしない人だかりが出来ている。

「降りる人間優先だろうが。どうして先に乗ってくんだよ」

 人の隙間から諍いの光景が見えた。赤い派手なシャツを来た男の背中が半分ほどドアからはみ出している。どうやらこの男が、中にいる誰かにいちゃもんをつけているようだ。こいつがまさか、問題になる人間なのか。

 少し近付いてみる。今度はあんな危険な事はしない。駅員を呼び出す連絡ボタンの位置を横目で確認しながら、人混みを縫うようにして進む。五号車の乗り込み口に派手なシャツの男がいて、それを遠巻きに見る人混みの層が三層ほど。動く事もなくじっと喧嘩の推移を見守っている。

 同じように様子を伺っていて、自分が思い違いをしていたのでは、という思いを抱く。噛み付く男のすぐ後ろで、女性が男の肘を引っ張っていた。

「あの、良いですよ。私は大丈夫ですから」

 そう言う女性は、白い杖を持っていた。男の方へ顔を向けているが、微妙に合っていないように見える。視力に障害を持つ方だろうか。

「大丈夫なわけあるかよ。あんな勢いでぶつかられて」

「でも、あなたが支えてくれたおかげで、私には怪我一つありませんから」

「怪我がなかったのは偶々だっつの。下に落ちてたらどうすんだ」

 男は女性から再び車内に顔を向ける。ようやく、僕も彼の相手の顔を見た。どこにでもいそうな中年の男性だった。少し額が広くなった、五十代くらいの、下っ腹の出た気の良さそうな人相に見えた。少しだけ気になるのは、その目だ。焦点が合ってるのか合ってないのか良く分からない。そんな目で若い男を見ている。

「一言謝ったらどうなんだよ」

 若い男の声にも、男性はリアクションを見せない。男の方が苛立ち、詰め寄る。ああ、何で速く発車しない。遅刻ぎりぎりで乗り込もうとしたら、いっつも目の前で閉まるじゃないか。この時ほどホームドアが閉まるのを心待ちにした時はない。さっさと発車ベルを鳴らしてくれ。駅員が止めにきてくれても良い。とにかく彼らの間に精神的でも物理的でも良いから壁を設けて欲しい。

 祈りは通じず、男は降りた電車に再び乗ってしまった。胸倉を掴みかねない勢いだ。

「…いや、流石におかしくない?」

 よく小説や漫画で、一秒が何時間にも感じるとか、緊張感を演出するための表現があるけど、実感として既に何十秒も経過している。証拠に、発車時間の二十五分はもうすぐ過ぎる。駅に設置された時計の秒針が、間もなく十二を通過しようとしている。駅員も来ない。ここまで騒ぎになっていたら、流石に駆けつけるんじゃないのか。運行に支障をきたすレベルだぞ。

 そこまで思い至って辺りを見渡す。違和感どころの話じゃない。視界に入る連中全てが、時間が止まったように微動だにしていない。時間が止まっていない事を確認した後に時間が止まっているような光景に出くわすとは思わなかったが、些細な事だ。

「敵だ」

 凪いだ水面にポトリと水滴が落ちた。

「敵だ」

「敵だ」

「敵だ」

 波紋が広がる。気持ち悪い波が全身を濡らし、吐き気を催す。口元に手を当てて何とかこらえるが、目に涙が浮かぶのは堪えようがなかった。

 

「「「「敵だ」」」」

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