第2話 臆病な僕と通り魔

「お、おいぃ」

 声が裏返った。自分の声帯から出たとは思えないような、情けない声をしていた。自分の性根を表しているようだ。自分でも理解している。僕は臆病者だ。喧嘩なんかした事ない。口喧嘩すらない。いつも相手の機嫌や周囲の空気を読んでびくびくしているのが僕だ。その僕が、どうして、こんな事をしているのか謎だ。滑稽ですらある。

 男性が兄弟から目を逸らし、僕へと向き直る。ああ、再び合わせたく無かったよ。そんな顔と。どうせ顔を合わせるなら可愛い女の子が良い。

 怒鳴るか、罵声を浴びせるか、そういうリアクションがあると身構えていたが、予想に反して男性は無言だった。こちらを足元から頭の先までゆっくりと観察している。SFの身体認証で赤外線が体の表面をサーチするみたいな感じだ。僕のどこから包丁を刺そうかと吟味しているようだ。想像するだに恐ろしい。視覚情報は恐怖を倍増させるって本当だな。まだ刺されてもいないのに、あの刃先が生み出す痛みを勝手に想像してしまう。

 歯の根の合わない口を何とか開いて、僕は、力の限り叫ぶ。

「逃げろ!」

 男性の奥で震える兄弟に向けて。兄弟が弾かれたように走り出す。

 その言葉を合図にしたか、男性が飛びかかってきた。反転する余裕は無かった。後ろを向いたら背中を刺される。男性が包丁を振り上げた。天にかざされた刃先は太陽の光を反射する。ああ畜生。怖い!

 右足を一歩引いた。相手から見て左側面を見せるような形だ。相手は右手で振り上げている。振り下ろすとすれば僕から見て左上から右下へと至る軌道を取るだろう。

 男性が包丁を振り下ろした。果たして想像どおり、包丁は左上から斜めの軌道。その軌道の真ん中に僕の頭がある。怖かろうが何だろうが、次に何がくるかある程度想像出来ていればそれなりに体は動く。体が動かないというのは、頭の処理速度が現行の情報に追いつかないせいだ、と何かの漫画で言っていた気がする。だから皆訓練して、体に動きを沁みこませて考えるより反応で動くようにするか、あらかじめ動く予定を立てておくのだ、と。

 包丁が振り下ろされる前に、僕は頭の位置を、体を逸らせる事で刃の軌道上から退避させる。刃先が唸りをあげて目の前を通過していく。風きり音が心を縮み込ませる。しかし体は硬直させている場合じゃない。第二波がくる。振り下ろす動作は、同時に振り上げる動作の予備動作でもある。今度はもっと、地面に平行に近い角度で振り上げられる可能性が高い。その前に後ろに踵で蹴って飛ぶ。バスケットボールのフェイダウェイシュートみたいに。気を付けるのは着地。着地の角度が浅すぎると、飛んだ反動を殺しきれずに後ろ向きに走ってバランスを崩してしまう。

 想定どおり、男性は包丁を横に薙いだ。その時には僕はもう彼の攻撃範囲から逃れている。つま先で着地して、踵で踏ん張る。膝を車のサスペンションのように使い慣性を打ち消す。再び距離を取って対峙した。

 相手が体勢を整える前に、ちらと辺りを見渡した。未だ警察の来る気配が無い。他の人も遠巻きに眺めているだけだ。せめて、その動画を撮影しているスマートフォンで警察を呼んでくれないだろうか。

 再び男性がこちらに突進してくる。腕を引き、突き刺すつもりだ。振る動作よりも動作のロスが少ない上に最短距離を動線とするから速い。大振りで来た方がまだ躱しやすかったのに。やってる事は頭おかしいと言わざるを得ないが、本当におかしいわけではない。相手は、この場合、僕を自分の手札で殺すにはどうすれば良いかをきちんと考えている。躱し続けるには限界がある。こちらも何か相手をけん制する方法があれば。

 だが、男性は僕に方法を探させる気は無いようで、一直線に向かってくる。間合いなんかすぐに無くなった。横っ飛びで難を逃れ、すぐに体を起こす。つんのめった男性もすぐさま体勢を立て直し、追い討ちをかける。こんなスリル満点の鬼ごっこ、こっちの精神が持たない。ちょっとしか動いてないのに、もう息切れしてきた。心臓もうるさい。

 ああ、何でこんな事になったかな。どうして首なんか突っ込んだんだ。普段の僕は、今周りにいる大多数と同じように逃げる方を選んだはずだ。いや、僕でなくてもこれは逃げる。だって刃物振り回すキチガイだよ? 組み合わせ最悪の代物じゃないか。それがどうして、相対して、狙われて、逃げ惑う羽目になってるんだ。本当に、訳が分からない。どうして、あの時、子どもの兄弟が襲われそうになった時、胸が熱くなったんだ。

 がつっ

 背中が何かにぶつかった。想定外の衝撃に気を取られる。背後一面ねずみ色、定礎の文字が見える。いつの間にかビルの壁際に追い込まれていた。僕が気を逸らした一瞬の代償は、大きい。再び視線を戻す。時間は一秒にも満たなかったはずだ。だのに、男性は目の前にいた。包丁を片手に持ち、もう一本の腕で僕の肩を掴んでいる。逃げられない。

 一か八かで、両手を出した。切っ先が迫る。両手のひらは、ベストとも思えるタイミングで相手の手首を掴むことに成功した。切っ先が目の前で止まる。このまま押し返し、振りほどく。

「うっぐ」

 流石にそれは考えが甘かった。男性も僕の肩を掴んでいた手を離し、包丁の柄頭に手を添えた。全体重をかけて包丁を突き刺そうとする。賭けに勝った、そんな感慨に浸らせてくれる間もなく、ぎりぎりと力比べが始まった。

 僕の目の前には刃渡り二十センチほどの包丁の先が止まっている。男性は更に包丁をつき出そうと腕に力を込め、僕はさせじと押し返す。力の拮抗によりプルプルと目の前で刃先が揺れる。どれにしようかな、と悩んでいるのか。どれも勘弁して欲しい。

 腕の痺れと脱力感が増してきた。力を込め続けるのもそろそろ限界だ。

 一か八かの賭け、二度目を実行するしかなかった。一か八かは丁半博打から由来が来ているらしく、二分の一の事らしい。なので、次の賭けに勝つ事は、四分の一の確率に勝つ事になる。

「だあああああ!」

 両手を思い切り左に、体は反対に右側に動かす。力の拮抗が崩れ、凶刃は振り下ろされた。しかし、刃はビルの壁を削る。僕の体は刃から離れ、包丁を持つ手をコンパスの支点としてぐるりと半円を描き、男性の左側面に体当たりした。結婚式のウェディングケーキ入刀みたいな格好だが、片や命がけ、片や殺意満々のケーキ入刀なんかあってたまるか。

 体当たりで男性がよろけた。チャンスだ。そのままビルの壁に、お返しにこっちが追い込む。足に力を込め、ショルダータックルを敢行。壁に男性を押し付ける。身動きを取りづらくしたところで、今度は相手の腕を壁に叩き付ける。現在の最優先事項、相手から凶器を奪う狙いだ。二度、三度と打つ。流石の相手も、痛みのせいか力が緩み、柄を握る手に隙間が出来た。手と隙間の間で包丁がブラブラしている。もう少しだ。

 スポンとあっけなく、包丁が男性の手から離れ落ちた。アスファルトをセラミックが音を立てて削る。よし、これで脅威は半減した。

 油断がまずかった。男性は僕の力が一瞬弛緩したのを見逃さず、手を振り払った。払われた事で、体がよろける。その隙に、男性は再び包丁に向かって走った。遅れて僕も続く。ビーチフラッグみたいに互いが一本の凶器に向かって手を伸ばす。

 手を伸ばしながら、これは勝てないと頭のどこかが判断を下した。ある程度の距離があるなら、もしかしたら勝ち目はあるかもしれない。けれど、距離にして五メートルあるか無いか。この距離で出遅れは大きい。例えオリンピック選手でも、先に一歩踏み出している相手に勝つのは難しいだろう。

 包丁を奪取する勝負に勝つのは難しい。発想を切り替えろ。最終目標は脅威が無くなること。包丁は脅威ではあるが、馬鹿と鋏の使い方と同じで、正しく使えば便利な道具で、使わせなければただの物だ。自分勝手に動くわけが無い。故に、本当の脅威を押さえる、これしかない。

 僕の予想通り、男性の方が先に包丁に手が届いた。だが、これはもはや想定内だ。僕の狙いは別にある。男性は包丁を拾う為に前屈みになった。右足を前にして、腰を屈める。

 その右足の膝裏を、僕は狙った。走っている勢いを加えて、思い切り足裏で蹴る。右足は男性の体重を支えている。そんな時に間接に別方向から力が加われば、簡単に曲がる。

 目論見は当たり、男性は体勢を崩して前のめりに倒れた。僕はその後ろに馬乗りになり、相手の腕を取って押さえつけた。痛みで呻き、男性は包丁を取り落とす。すかさず回収。

 やった。やったぞ。心臓が痛いほど激しく弾み、息は上がっている。それでも、今胸の中には苦しさよりも達成感で溢れていた。危機を乗り越えたという安堵感、そして、あの兄弟を守れた実感が体に渦巻いていた。自然、顔は綻ぶ。

「そこまでだ!」

 安心したからか、集中力が切れたからか、途端に周囲の景色と音を感覚が拾い始めた。声のした方を見れば、紺色の制服が目に入った。お巡りさんだ。良かった。ようやく来てくれたのか。安心感が更に増す。犯人は取り押さえたが、暴れられたら等の不安は残る。僕は僕を過大評価しない。僕に出来るのはここまでが限界だ。むしろ限界超えて、出来すぎな結果だ。相手を取り押さえながら、凶器を手に僕はお巡りさんに手を振った。

「確保ぉ―っ」

 強烈なタックルを喰らい、僕は吹っ飛んだ。衝撃と驚きのせいで頭がパニックを起こす。何で、何でと疑問符が頭の中を飛びまわる中、腕を極められ、痛みが増加。手首に冷たい感触が伝わる。

「犯人、確保!」

 十五時三十三分、それが、僕が現行犯逮捕された時間だ。

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