Ant-I malice
叶 遼太郎
第1話 臆病な僕と毛羽毛現
「助けてください」
突然腕を掴まれた。
それだけでも驚愕に値するのに、助けてくれと来たもんだ。この人痴漢です、よりはマシだと思うが、なればこそ、人選を間違えていると思う。
ただの大学生の僕、溝口要に、一体何を期待するというのか。
大学からの帰り、突然腕を掴まれた。見知らぬ人に腕を掴まれたのは、これで二度目。一度目は正に、電車で痴漢に間違われた時だ。あの時は怖かった。何とか弁解しようとするも、焦ってしどろもどろになって更に疑われた。たまたま、同じ車両内で近くにいた会社員の女性が本物の犯人を捕まえてくれて事なきを得た。あの日以来、僕の両手は下車するまで吊り輪にあるし、女性の近くには可能な限り近付かないようにしている。痴漢の冤罪も恐ろしいが、痴漢の末路も恐ろしいという事を知った。突き出された真犯人だが、両肩と腕の骨が美人キャリアウーマンの手によって外されていたのだ。逃げようとしたから、と笑顔で語った彼女に対し、助けて貰っておいてなんだが戦慄が走った。美人は怒らせると怖いってのは本当だった。
以上の理由のため、僕が痴漢になる事はありえない。そもそもここは電車やバスなどの公共交通機関内じゃない。路上だ。東京二十三区でも比較的静かで治安が良いと言われる目黒区だ。これは別に他の区を貶めているわけではないと、誰が聞いているわけでも無いのに心の中で言い訳をして、振り返る。
「うお」
変な声が出て、思わず後ずさりしそうになった。
僕の手を掴んでいるのは、
「あの、じっと見つめられると、困るんですが」
毛羽毛現が身をよじる。さらさらの髪が揺れて、奥にある肌色が見えた。すみません、と視線を外す。どうやら人間、それも声色からして女性のようだ。当たり前だ。毛羽毛現はジメジメした日当たりの悪いところに出るんだから、風通しのいい路上に出るはずない。我ながら馬鹿な事を考えてしまった。
だがそれにしたって、物凄い髪のボリュームと長さだ。毛羽毛現じゃなかったら塔の上のラプンツェルだ。だが、ラプンツェルのように髪を編み込んでいるわけじゃない。体を覆うように三百六十度に髪の毛が伸びていて、女性の顔から腰の辺りまでをすっぽりと御簾のように隠してしまっている。表情は窺い知れない。
「何か、御用ですか?」
すこしびくつきながら、問う。未だに腕を掴まれたままなのが怖い。こちらも一応生物学上は男だ。力任せに振り払えば逃げられるとは思う。けれど、もしそれで相手が怪我したらと思うと、そこから派生する傷害罪とか暴行罪の訴えとかが怖いから、容易に安直な手段はとれない。なるべく穏便に、互いに遺恨もしこりも残さずにバイバイしたい。
「助けてください」
何で?
口から出かけたのをぎりぎりで呑み込んだ。女性が助けを求めているのだから、男として、求めに応じたいのだが、何で僕。しかも、一目で分かるような、例えば荷物を沢山持っているけれど階段が昇れないとか、変質者に襲われそうになってるとか、そういう分かり安い問題が彼女に降りかかっているようには見えない。荷物も持ってなさそうだし、誰かに追われているようでもない。
「何か、あったんですか?」
無難な返答をする。
「いえ」
女性から返って来た言葉は、否定。何もなかったのに助けを求めるとは、どういうことか。新手のナンパかなにかか? 新手どころか常套すら知らないけれど。これまでナンパした事も、された事も無いからな。
しかし、彼女は続けて言った。
「これから、起こります」
「…へ?」
何を言っているのか理解出来ない。これからってなんだ。未来か。未来の話なのか。
やばい、違う意味でやばい人に捕まった。勧誘とかされちゃうんだ。そしてあれやこれやと言葉巧みに誘導されて、入りたくもない何かに入会させられたり高い壷や水を購入させられたりして身ぐるみ剥がされて挙句戸籍まで奪われてしまうんだ。
どうやって断れば良いんだ。いや、こういう時こそ思い出せ。詐欺には断固とした対応だ。毅然とした態度で丁重にお断りを…
思考を遮るような甲高い悲鳴が耳を劈いた。引っ張られるように顔がそっちを向く。
最初に目に付いたのは、ワラワラと人が四方に逃げる様だ。蜂の巣を突いたとか、蜘蛛の子を散らすとか、そういう表現がぴったり当てはまるような様子が目に付いた。そしてぽっかりと出来たエアポケットに、異物がいた。
男性だ。年齢は三十代くらい。百七十センチの中肉中背。スーツ姿のサラリーマン。現代社会で、これほど没個性的な、どこにでもいるような風体も無いだろう。なのに僕は、それを見て異質と感じた。
男性がゆっくりと体をこちらに向ける。片手にはサラリーマンが多く持つビジネスバックと、もう片手には白々と鈍く輝く包丁が握られていた。
「何で?」
毛羽毛現の助けを求める声にすら出なかったはずの言葉がするりと抜け出た。
男性の顔が、目が、僕と合う。なんつう顔をしているんだ。親の仇でも見たような顔だ。無意識の内に、右足が一歩下がってしまう。
彼の口が大きく開いた。飛び出てきたのは獣の咆哮だ。びりびりと空気と耳朶を震わせ、心を臆させる。
逃げなきゃ。本能と人が呼ぶ部分が叫んだ。生物にとって命を守るのは最優先事項で、体も素直に本能に従う。踵を軸に、体が反転、走って逃げた人たちに倣い、脅威から距離を取ろうと足を動かす。
「逃げよう!」
今度は声に出した。伝えたかったのは、隣の毛羽毛現にだ。彼女は未だ男性の方を向いたままだ。恐怖が大きすぎて体が固まってしまったのだと思ったのだ。掴まれた腕を、そのまま彼女の腕へと伸ばし、引っ張る。が、彼女は動かない。何で?
「早く逃げないと!」
強めに腕を引くと、彼女の体が少しよろけた。少しでも動けば恐怖で縛られていた体は動くはずだ。このまま引っ張って誘導できれば。
しかし、僕のその考えは裏切られた。予想に反して、彼女は動こうとしない。何故だ。彼女だって目の前の男性が危険なのは理解しているはずなのに。
恐怖の象徴はまだ動かない。けれど、いつその凶器の矛先をこちらに向けるかわかったもんじゃない。今の内に、一刻も早く離れなければならないのに、彼女の動かない理由が分からない。
もしかして、見えて無いのではないか。髪の毛が視界を防いでいるから。彼女の体の向きを確認する。腕の向きから肩の位置などを類推するに、僕と同じく、あの男性の方角を向いているはずだ。僕自身も改めてその方向を見る。
男性はまだ動いていない。そもそもこっちを見ていない。あの怒りの視線が無いだけで心にかかる付加はだいぶ違う。そのためか、さっきは男性のみに合っていた焦点が広がり、男性の周囲も視野に入ってきた。入ってこなければとも、思ってしまった。
子どもがいた。対角線上、僕らから見て男性の向こう側に、小さな小学生か幼稚園くらいの年頃の子どもが二人。兄弟だろうか。何で逃げない。何で親はいない。逃げないと危険な事くらい、子どもだって分かるだろうに。
ああ、そうか。理解できた。逃げたくとも逃げられないのだ。さっき僕が、彼女が動かない理由として見当を付けていた感情のせいで。恐怖で縛られているのだ。
弟は遠目からでも分かるほど怯えていた。目からは既に涙が溢れている。強く兄の服を握り締めている。そんな弟を、兄が支えていた。震える手で弟の手を握り、小さな体で、弟の体を隠していた。少しでも、恐怖に弟が晒されないように。そんな彼らに、男性は目を向けた。兄弟の体が竦み上がるのが見て取れた。一歩、男性が兄弟に近付く。標的を、狂気の振るう先を定めたようだ。
あ、れ? 何でだ? どうして、どうしてその光景が拡大されて見えるんだ。
理由は簡単だ。僕の体が、その方向へと近付いたからだ。近付けばその分、見ている光景が拡大されるのは当たり前だ。おかしいのは、何で近付いているのかって事だ。
恐怖は未だに心を支配している。出来る事なら、反転して脱兎の如く全力でこの場から離れたい。なのに、体は真逆の行動をとっている。訳がわからない。自分の体を自分の意思が支配しないのだ。理性がブレーキをベタ踏みする。それ以上近付くなと。危険に近付く馬鹿がどこにいる。しかし、ブレーキパッドを削りながら僕の体は前に進み続ける。胸の奥が少し熱い。何を燃料にしているのか分からないが、燃えているんだ。その熱が僕の体を動かしている。
男性が兄弟に近付く。その速度の倍以上の速さで僕が男性に近付く。小学生の速度の問題みたいだ。男性はゴールに時速数キロで近付いている。男性がゴールに辿り着くまでに近づくために、こちらは時速何キロで近付けば良いか?
答えは出したくなかった。けれども答えは出そうだった。震える足を前に踏み出す。
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