夜の話

 ユリィは草原で、満月を見ていた。猟銃を持って、テトの小屋を抜け出していた。きっとここで、テトは倒れているユリィを見つけたんだろう。柔らかくて低い風に波を打つ、草達の音が鳴り響いていた。

 綺麗な場所だ。故郷の街の丘とも違う。草と土の薫りしかしない。忘れられた墓場みたいだ。

 黒い空にあるのは、円く黄色い月だけだった。こんなときに限って、狼はまだ何も言わない。月が満ちているのに。ここに来て一月が経った。

 そして今日、死ぬ気がした。

 テトとも、お別れだ。

 ユリィは草の中に寝転がった。このまま眠りながら死ねたら楽だろう。だけどもう、夜は眠れない。狼、と呼びかけるのも馬鹿馬鹿しくて、ユリィはひたすら目を瞑っていた。

 草を掻き分ける音が、遠くから聴こえてくる。その音はだんだん近くなって、ユリィのすぐ傍で響いた。

「隣で、寝ていい?」

 テトの声がした。ユリィは目を瞑ったまま、頷いた。

「うん」

 テトはユリィの横に、腰を下ろした。そのまましばらく座って、空を見上げていた。

 二人分の呼吸音が聴こえていた。

 やがて、テトは後ろに寝転んだ。その方が、テトにはよく見えた。

「月……今まで見てたのより、ずっと綺麗に見える」

 テトは目の前の月を真っ直ぐ見つめたまま呟いた。

「なんでかな……」

 そしてそう続けた。返事は無かった。ずっと無かった。

 やがて、テトは眠りにつく。



 これは、思い出とでも呼ぶのだろうか。

 昼間の草原に、テトは寝ころんでいた。隣で、帽子を被った大人の人が、籠の中の草を仕分けている。手袋をはめた大きな手で、ときどき幼いテトの頭を撫でる。でも、顔が見えない。

「テト、ずっと、ひとりぼっちで生きるつもりか?」

 テトはなぜか、声が出ない。

 ひとりぼっち?

 意味を尋ねたくても、声が出ない。

「さびしいよなぁぁ」

 その人の声色が変わって、はっとする。その人は帽子をとった。そこに現れた顔は、すごく痩せて、青ざめていて。そして、その顔はどんどん膨らんでいって、最後には、ぷすぷすと弾けた。

 テトは見ていることしかできない。気が付くと、テトの周囲にも、黒い羽虫がどんどんたかってきていた。

 そして、銃声が聴こえた。隣で、いつの間にか帽子を被っていたその人が、胸から血を噴きだして倒れた。籠が宙に浮かんで、中の草達がテトにぶちまけられる。

「……あ」

 そこで、テトは目が覚めた。これが夢なのだろうか。荒く息継ぎをしながら、テトは辺りを見回す。朝になる直前の、いつもの草原の青色だった。

 そこに、ユリィは居なかった。ただ、猟銃が傍に置いてあった。

 テトは夢のことを思い出せない。たった一つの言葉だけ。

 生きるつもりか。ずっと、ひとりぼっちで。



 今だけは眠れるかもしれない。目を開けて、テトの眠る横顔を見ながら、ユリィはそう思った。テトの浅黒く小さな、硬そうな手が投げ出されている。

 ユリィはそれに触れない。不思議と、血が騒がない。喰らいたいとも思わない。酷く安らいだ気分だった。自分の過去も、今も、どうでもいい気がした。

『もうすぐ、そんなこと考えなくたってよくなる』

 狼の言葉を思い出していた。それが本当なら、ユリィは既に二度目の死を迎えているのかもしれなかった。

 結局、やりたいことも、欲しいものも見つからなくて、結局、何も変われなかった。何もできないまま、物語の通りに、結局死ぬしかなかった。

 そう心の中で嗤いながら、ユリィがもう一度目を閉じたときだった。

 油と、焦げた匂いがした。そんなに遠くない所から。

 その嗅覚に、ユリィの胸は騒いだ。それも、なぜか気持ちが良い震えだった。止まっていた時計の針が動き出すような。逸る気持ちを抑えながら、ユリィは立ち上がった。

 何かが燃えている。この草原は低い山の上だから、それがある方向が見える。赤らんで明かりが漏れている。

 テトの小屋のあたりだった。

 まだ眠っているテトを起こそうとして、やめた。代わりに、背中に掛けていた猟銃を外して、傍に置いた。

 きっともう、ユリィには必要ない。ユリィが、人間だった印。

「……さよなら、テト」

 そう虚空に呟くや否や、ユリィは駆け出した。

 草むらを跳ぶように走り、木々の間を全速力で駆け下りていく。そうだ。これがきっと、愉しいってことだ。全部、自由になる。ユリィは笑う。今、生きている気がする。

 息が切れることさえなく、ユリィはテトの小屋の前に辿り着いた。

「誰だ!」

 テトの廃屋は、火がついていた。上から下まで、全部が赤々と燃えている。それを囲む何人かの人間の声も、炎の音にかき消されかけていた。

 ユリィはしばらく、燃える建物を眺めていた。草原の月光をかき消すような赤に、ユリィの全身の血が沸き立っていた。

「聞こえねえのか!」

 誰かが何か喋っている。ユリィは深く息を吸った。それから腕を前へ伸ばした。狼の爪を。これは本能だ。



 赤い血の匂いは、焼けても失せない。まだ燃え続ける建物の周囲にも、燃え続ける松明が落ちていた。

 ユリィは、残った最後の一人を殺そうとしていた。顔はよく見えない。肉の塊みたいだった。そういえば、自分はまだ人間の形だろうか。

 腕を振り上げたまま、なぜかユリィはその腕を下ろせなかった。今までと同じように、殺すだけのことなのに。自分の呻き声が耳に響いていた。

「助けて……」

 目の前で消えそうな命乞いの言葉。その声が、誰かに似ている気がした。わからない。

『ユリアン』

 そのときユリィの頭に蘇ったのは、自分を呼ぶ声だった。父親の声だ。もう死んだ。皆死んだのに。

『赤頭巾を被った女の子は凶暴な狼に騙されてバラバラに殺されてしまいました何故ならその子はいいつけを守らない、いじめられっ子の、馬鹿な悪い子だったからです綺麗な金髪も血塗れになりました赤頭巾は、被ってはいけないと言われていたのに女の子が約束を破ったから』

『馬鹿で根暗でいじめられっ子で気持ち悪い恰好おまけに親父に捨てられて母親も能無し』

『お前が悪いお前が悪い』

『待ってリボン付け忘れているわよ』

 脳裏に声が止め処無く流れてゆく。狼の声じゃなく、きっと懐かしいはずの声だった。

 ユリィは喚き散らした。狼が吼えるように。声を打ち切ろうとして。

 気がつくと、目の前の人間は姿を消していた。叫びを聞いて逃げ出したのだろう。ついにあの肉塊を裂くことができなかった。ユリィはそのまま、腕を下ろした。

「……いまさら、すぎるよ」

 そう漏れた言葉が、自分に向けたものかどうかもユリィには分からなかった。

 まだ最後に、人間でいられるものがあったらいいのに。

 ユリィは踵を返して、まだ燃え続けるテトの小屋の中に入っていった。



「大きな月だよねぇ。あれ、喰べつくせたらなってさぁ……心臓が、痛いんだ」

 オレンジの空。何度も見た夢。ユリィを見据える白銀の少女の向こうに、真っ白な満月が浮かんでいた。少女の姿をした狼は手を差し伸べるように、ユリィを招く。

「さあ、時間だよ。おいで」

 繰り返し見た夢の中で、いつも、地上は砂漠だったはずだった。今、そこにあったのは、いっぱいの花畑だった。赤い花、ピンクの花。白い花。黄色い花。草むらに広がっていた。花びら達が、空まで飛ぶように、待っていた。

 ユリィは泣きたくなった。そして泣いた。

「どうして、泣いてるの」

 少し笑った顔で、狼が問う。

「テト……おばあちゃん……お父さん……」

 ユリィは花畑の中に膝をついた。何の薫りも、温度もない。だけど綺麗だった。

 泣く資格なんてないのは分かっていたつもりだった。だけど、懺悔せずにはいられなかった。今になって、自分のしたことの罪がわかった。感情を失くしたふりをして、本当は考えたくなかっただけだった。向き合いたくなかっただけだった。自分が何もかも捨ててしまったことに。

「……お母さん」

 見下ろす狼が、ユリィを生き返らせた張本人が、まるで神父のようだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 チェリーパイが食べたい。何回でも食べたい。甘すぎても、自分のために作ってくれたものじゃなくても。お皿を洗ってあげて、お母さんの髪を梳かしてあげたい。もっとうまく髪を結べるようになりたい。可愛いって撫でてほしい。お母さんを、おばあちゃんの家に連れていきたい。お父さんに会ったら、無茶苦茶文句を言ってやりたい。学校に行ったら、同級生の皆と、友達になろうって手を差し出したい。おばあちゃんに叱られたい。テトにもっと、いろんなことを教えてあげたい。

 いらない人間になるのが嫌だった。自分を偽るのも嫌だった。だけど不自由でも、誰にも必要とされなくても、いらない人間でも、本当は別に良かったんだ。

 お母さんのことが、大好きだった。

 求めていたのは、自分だった。

 好きだ。好きだ。好きだ。

 こんな簡単なことに、なんで今まで気づかなかったんだろう。心なんて自分なんて、愛なんて命なんて、一人だけの自由なんて、いらなかった。

「……本当は……最後に誰かと温度を感じ合っていられたら、それで十分だったんだ……」

 嘘つき。十分なんかじゃない。最後に残った欲しかったものが、それしかなかっただけだ。だけどそのことにさえ今まで気づけずに、月下の草原でテトの手に触れることさえできずに、捨てていってしまった。もう、全部が遅すぎた。

『僕は君のこと、それなりに好きだったよ』

 狼はそう言った。そして、ユリィに手を差し出した。立てと促すように。ユリィはその手を取った。そこに温度はなかった。冷たささえなかった。

「うるさい……」

 立ち上がりながら言い返した言葉も、それが精いっぱいだった。

「でも、これでお別れだ」

 いつもと変わらないはずの冷たい声が、なぜか優しかった。お互いに向き合う。狼は満面の笑顔を浮かべていた。花畑によく似合う笑顔だ。

「……随分、機嫌がいいんだね」

「そりゃあ気分がいいよ、死ぬほど。……あれ、君も笑ってるの?」

「ああ、悪いか」

 ユリィの言葉に狼は首を振る。そして右手を振り上げた。ユリィも同じように、右手を振り上げた。

「君を喰べたい。この幸せな花畑で。それくらいでいいんだ」

 振り上げて、背後に引く。狼は手を広げて。ユリィは握り締めて。足を踏み出す。全力を込めて、腕を突き出して。

「死ね」

「じゃあな」

 そう、言葉を交わしたのが最後。

 互いの腕が、互いの胸を貫いて交わった。

 幸せなわけ、ないでしょう。ユリィは笑い続けた。笑いながら、狼の目の前で、ユリィは崩れ落ちた。それを笑いながら、胸に穴の開いた狼は見下ろす。

『僕の心臓は、ここには無い。とっくに、無くしたんだ』

 ユリィには聞こえていない。もう死んだ。

『いただきます』



 煙の満ちた小屋の中、仰向けに倒れたユリィの胸を突き破って、一匹の狼が這い出した。白銀の毛並みと、金色の目を持っていた。焼け落ちた壁を突き破って、狼は燃える小屋を飛び出した。足から血を滴らせながら、そのまま南へ駆けていった。

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