月の話
結局、「おはよう」の返事の正解は分からなかった。だけど、彼女はお構いなしだった。
「お前さ、名前はなんて言うんだ」
彼女が少しも目を逸らさないから、もどかしくなって口を開いた。
「……そんなの、無いよ。ただの群れからはぐれた、一匹狼だ」
小さく吼えて、頭を背けた。どうせ、人間に僕らの言葉なんてわからない。そう思っていたけど。
「別にいいじゃねえか」
聴こえた彼女の声は軽やかだった。見返すと、彼女の顔に浮かんだ笑みは少し優しくなっていた。その声のままで、彼女は続けた。なぜか、言葉が通じているみたいだった。本当は、彼女の独り言に過ぎないのかもしれないけれど。
「俺も同じだ。俺もただの『赤頭巾』だから」
それは変な名前だった。
「お前、花畑は好きか」
花畑は、僕と彼女を隔てているものだった。草の薫りと、朱い花の苦み、喰べられもしない、それだけのもの。だけど今は、金色の髪と瞳の彼女が立っている場所だった。
僕が首を縦にも横にも振らないで、小さく唸りを上げていると、彼女はもう一度牙のない歯を見せて、笑い直した。それから足元の朱い花を何本か、ぶちぶちと抜く。それをまとめて、僕の前に置いた。
「……良かった。じゃあな!」
花を置いた後、彼女はそれだけを言って背を向けた。彼女には行かなきゃいけない場所があったんだ。
彼女はまるで、何かを演じているようだった。それは例えば、『赤頭巾』という役を。薫りがしないのも、こんなにぎらぎらしてるのに、死んでいるように見えるのも。
だけどひょっとしたら僕も同じ、『狼』でしかないのかもしれなかった。
僕は彼女を呼び止めて、もう少しだけ話した。それから、最初のお別れをした。お別れをしてから、僕は駆け出して、森の奥の家に行った。そして、彼女は『おばあちゃん』の家の中に入ってきた。彼女は猟銃をぶら下げていた。金髪が揺れた。
彼女は引き金を引いた。僕は低く飛び出した。
すんでのところで、僕は勝った。彼女は敗けた。
僕は喰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます