花の話

 小さな花が咲いていた。朱色の花びらが六枚ついた花だった。枯葉の地面に一つだけあるその花を、ユリィは気まぐれに摘んだ。 

 黒い森から見上げる空は、いつものように水色の穴だ。その中を、晴れの日の雲が彷徨っている。

 ユリィはこの森の道の先にある祖母の家を目指していた。黒髪のおさげをリボンで結び、右手には籠を下げている。左手は、摘んだばかりの朱い花を空に翳していた。花は少し萎れて、六枚あったはずの花びらも、一枚落ちてしまっていた。

 ユリィは風に歩きながら、花を見つめる。そしてポケットの中にそっと仕舞った。



 ユリィはもうすぐ十四の誕生日を迎える年頃だった。父の帰らなくなった町外れの家で、母と二人で暮らしていた。

『ユリィ、お使いを頼んでもいい? おばあちゃんの家まで』

『……今日は何?』

『チェリーパイ。とれたてのダークチェリーよ。とっても美味しく焼けたから、きっと喜んで食べてくれるわよね。あの人の大好きなチェリーパイだもの。今、切るわね』

 きれいに丸く作られたチェリーパイが、ナプキンを広げたテーブルの上に載っている。その中に敷き詰められたチェリーが黒く光を放っている。母がそのパイを切る様子を、ユリィは後ろで手を組んで眺めていた。母は黙々と切っていた。

『……ねえ、お母さん、今朝、手紙が入ってて。お父さんが……仕事で、二、三日この街に戻って来るって。私に、顔見せにこいって、……書いてあった』

 そうユリィが切り出した話に、母は返事をしない。いつものことだ。何十秒も経ってから手を止めて、病気の子を見るような心底心配そうな顔で、ユリィを見つめる。

『何言ってるの? ユリィ。お父さんなんて、とっくの昔に死んでるじゃない』

『……今のは冗談だよ。じゃあ、行ってくるね』

 心配の声をかけると、ユリィはにっこりと笑顔を作って見返していた。いつもの顔だ。その顔を見て、母は思い出すことがあった。

『あ、待って。リボン、付け忘れているわよ。せっかく可愛いんだもの、おめかししていきなさいね』

 ユリィは返事をしなかった。黙って準備をして、扉を開けて出て行った。

『夕方までには帰ってくるのよ』

 扉を開けて呼びかけた母の声を、ユリィは聴いていなかった。

 両手に提げた柳の籠には、包まれたチェリーパイが入っている。母の焼いた、甘くて香ばしい匂い。それを見て溜息をついた拍子に、腹が鳴った。誰に聴かれたわけでもないけど、ユリィは苦笑いした。

 そのとき遠くで、正午を示す街の鐘が鳴った。重なる枝で覆われたこの森にもその轟音が届いて、わけもなくユリィは駆け出す。

 お下げ髪を結ぶ、リボンの水色が揺れる。風が少し、鳴っている。木の葉を踏み抜ける音がする。そして加速してゆく。土を蹴るたびに、あの街の何もかもが、ユリィの世界から消えてゆく。ユリィはふと、笑い声を零す。



 祖母の家に着くころには、ユリィはすっかり息を切らしていた。古い石造りの家は、つい一月前に手入れしたばかりだったけど、壁を伝うアイビーは少し鬱蒼とし始めている。ユリィはげんこつで胸を叩いて二度、深呼吸した。

「ごめんください」

 玄関を叩いても、いつものように返事はない。ユリィはポケットから鍵を取り出し扉を開けた。そして閉めずに中へ入った。

 壁の掛け時計は、鈍い音を立てながらかろうじて動いている。窓際の寝台は、骨組みばかりが残されてある。ユリィはテーブルの上のランプに火を点した。それから窓も全て開けたけど、いつもと変わらず部屋は暗い。扉を開けていなければ、昼が夜みたいになってしまう小部屋。この家はいつだって魔女の住処のようだ。夕方になって少しの西日が差し込んでくるまで、ずっとこの調子。

 家の中は、ユリィの他に誰も居ない。主だった祖母は、数年前に悪い風邪で死んだ。

 母は今でも、祖母が生きているという幻想を信じている。そのことを問い詰める気は、もう無くなっていた。母は今でも優しかったから。時計の秒針のようなほんの少しの、狂いさえなければ。

 父からの手紙は、家を出る直前に破って捨てた。どうせ学校の成績のことばかり言うに決まっていた。

「母さんを捨てたくせに、もう何年も、会いに来てないくせに。私が学校でいじめられてることなんて、全然知らないくせに……」

 呟いても、声は沈黙に吸い込まれるばかりだった。籠の中からパイの包みを取り出して、パイに齧り付いた。狭い部屋に、あっという間に匂いが満ちる。昔から変わらない、砂糖とダークチェリーの切なくて優しい味。まだ温かい。母は祖母が大好きだった。だから母の焼くチェリーパイはいつも美味しかった。そして祖母が大好きなのは、ユリィも同じだった。だけど、祖母がチェリーパイを食べることは、もう無い。

 半分を食べ終えて、ユリィは立ち上がる。残りの半分は、あとで捨てよう。この空き家の用事は済ませてしまったけど、家に帰るのは躊躇われた。だけど、どこかに行くあてもなかった。扉を開けっ放しにした本当の理由は、ここに一人きりで居るのが怖いからだ。それでも、すぐにここを出る気にはなれなかった。

 何をしようか考えていると、ユリィの頭にふと思い出されるものがあった。昔、この部屋を探検した中で、酷く祖母に叱られたもの。それは、床にある隠し扉だった。その場所をユリィはすぐに思い出せた。

 テーブルの下だ。そこの床板の一枚が、簡単に外れるようになっている。ユリィは躊躇なく、その隠し扉を開けた。その下にある箱の中にはやっぱり、昔と変わらず宝物があった。

 使い古された猟銃と。

 何の変哲もなさそうな、一枚の赤い頭巾。


 赤頭巾を被った女の子は、凶暴な狼に騙されて、バラバラに殺されてしまいました。

 何故なら、その子は、いいつけを守らない、馬鹿な、悪い子だったからです。

 綺麗な金髪も、血塗れになりました。

 赤頭巾は、被ってはいけないと言われていたのに、女の子が、約束を破ったからです。


 それはユリィが幼い頃、噂になったおとぎ話だった。ユリィはそれを、つい数日前にも聞いた。

『いじめられるのは当然なんだよ。何故ならこいつは、馬鹿で、根暗で、いじめられっ子で、気持ち悪い恰好をしているからです。おまけに親父に捨てられて、母親も能無しなのは、こいつが悪いからです』

 そんな言葉を同級生の誰が言ったか、ユリィは思い出せなかった。そもそも同級生の顔など、元々覚えていなかった。両親を貶められて、言い返すことさえできず殴られ続けていた。

「おとぎ話なんて、ただの子供だましの、空想なのにね……」

 床下の箱の中を見下ろして、ユリィは呟く。猟銃を取り出すと、まだ弾は残っているようだった。とはいえ、撃つ勇気もない。猟銃を脇に置いて、赤頭巾を取り出す。ごわごわしていた。赤い、とは言っても、かなり色褪せている。

 もし今、赤頭巾を被ったなら。約束を破ったなら。何か変われるだろうか。明日こそ、何かできるだろうか。ユリィはふと、そう思った。

 学校に行ったら、もっとうまくやる。殴られたら、殴り返してやる。リボンを外して、お下げをほどいて、ワンピースも脱いで、街や野原を駆け回る。チェリーパイなんか、甘すぎてもう食べたくない。学校でいい成績をとって、お父さんに手紙で伝える。明日になったら。明日になったら。

 ユリィは赤頭巾を膝に置いて、じっと見つめていた。

『ユリアン、お前にはまだ鉄砲は早い。それとね、その頭巾に触ったらいけないよ。おばあちゃんの大事なものだ』

 思い出の祖母の声が脳裏に響く。耳鳴りのように言い聞かせる声。だけどそれは、すぐに遠くなった。

 ユリィは目を瞑って赤頭巾を一気に被った。

 秒針の音が響く。

 こつこつと。

 ユリィは目を開けた。チェリーと乳酪の匂いが相変わらず、薄暗い部屋に立ち込める。歪な風音と、溜息が響いた。

「やっぱり、ただの空想。ずっと、つまらない毎日の繰り返し」

 何も変わらないし、変えられない。だからそろそろ、家に帰ろう。お母さんが待ってる。

 ユリィが玄関の扉の方を軽く見やったそのときだった。

 声にならない叫びが上がる。

 そこに居たのは、狼だった。唸りながら、部屋の中に入ってくる。その後には、もう二匹、三匹と続く。牙を剥き、取り囲み、今にもユリィに飛びかかろうとしていた。

 状況が飲み込めなかった。どうしてこんなことになったのか。ただ、ユリィは一つだけ分かったのは、このままじゃ死ぬ、ということだった。

「そうだ、猟銃が――」

 傍らに置いた猟銃に気付き、掴む。そこではっとした。

 撃ち方がわからない。

 ユリィはついに動くことができなかった。埃っぽい床に転がされ、その背を、大きな爪が抉った。

 痛み、悲鳴さえも声にならない。世界が暗く、くらくなる。

 ユリィは最後に、狼の金色に光る目を見ていた。


 どうして君は、そんなに傷だらけなの?


 そう、少女は尋ねた。

 その声に呼ばれて、ユリィは目覚める。ぼんやりと瞼を開くと、目の前には見知らぬ少女が立っていた。少女の背後では、空と砂漠がオレンジ色に揺れている。少女の肩の骨くらいまでの白銀の髪もオレンジを反射して、風も無いのに揺れる。そんな知らない場所に、ユリィは立っていた。

 少女に笑みはなく、ユリィを真っ直ぐに見ている。

「……誰? ここはどこ?」

 言うべきことが見つからなかったような、ユリィの問いかけ。それには答えずに、少女は言葉を重ねた。

「ねえ、君はとっても痛そうで、窮屈そうに見えるんだけど」

 答えのない言葉を紡ぐ少女の声は、甘いのに氷のようだった。

 ユリィは息を飲んで、黙り込んだ。目の前の少女が何も教えてくれないことを悟ったようだった。少女も何も言わず、ただユリィを眺めていた。

 時計のない時間が経つ。

 それから、次に口を開いたのはユリィだった。

「……もしかして、ここって天国?」

「だったらどうする」

 そう、少女はすぐに聞き返す。ユリィの記憶は定かではなかった。さっきまで祖母の家にいて、それから、狼に襲われたような気がする。死んだような気がする。だけど、痛みも、恐怖もユリィは感じていなかった。それどころか記憶さえ、五感さえぼんやりとしていた。夢みたいだった。目の前の光景はあまりにも鮮やかなのに。

「天国じゃないなら……夢?」

「だったら、どうする」

 少女はただ繰り返した。そのスカートの下の裸足が踏む砂漠には、影が深く沈んでいる。ユリィの足元にも、同じように影があり、柔らかな砂の感触が確かにあった。

 少女の背格好はユリィとほとんど変わらない。ただ、白銀の髪と金色の大きな瞳は、まるで狼のようだった。ユリィは確かめるように手を伸ばした。少女は見下ろすようにその手を見ていた。

 ユリィの手は少女の首を貫くようにすり抜けて、空を切る。触れることができなかった。そこにいるのに、そこにいない。腕を宙ぶらりんに伸ばしたまま、ユリィは少し俯く。

「夢……だったらいいのに」

 少女は金色の目を見開く。

「狼に襲われたのも、チェリーパイを食べたのも、手紙を破いたのも、手紙がきたのも、いじめられたのも、みんな夢。お母さんがおかしくなったのも、女の子の恰好してるのも、おばあちゃんが死んだのも、お父さんが出て行ったのもみんな夢。全部、夢!」

 ユリィは目を伏せたまま、一息に言った。それから、笑った。

「はは……」

「それが、君の祈り?」

 ユリィは顔を上げる。少女は氷のような声と同じように、表情を失くしていた。空のどこかを仰いでいる。一点の甘さもない横顔は、焼けた空の朱の、赤すぎる世界に同化する。夜の狼のようだった。

「本当のことを言ってあげる。残念だけど、君は死んだ。狼達に身体中を抉られて、バラバラに喰われて。だけどここは、天国じゃない。いつか無くなる花畑だ」

 どこかを見上げたまま、少女は言葉を紡ぎ続ける。それが聴こえているのかいないのか、ユリィはうわごとのように呟いていた。

「本当に大げさな夢だ。早く起きなきゃ。家に帰らなくちゃ。お母さんが心配してるはずなんだ……」

 そう、何度も繰り返す。やがて少女が、色の無い眼差しをユリィに向けた。そして、ユリィの首元を掴んで引き寄せた。その引力にユリィははっとして顔を上げる。さっきは触れられなかったはずなのに。近すぎる、少女の金色と、ユリィの水色の視線が交差する。

「じゃあ、夢ってことにしようか。ところで、僕は物足りないんだ」

 無機質な色のまま、少女の言葉は紡がれる。それが、余計に視界のオレンジを鮮明にする。

「月が細すぎるから」

 その言葉で、少女の真上に月が浮かんでいることに気が付いた。そしてその月が、さっき少女が見ていたものだということを。揺らめく炎の中で鈍い光が、円を描き切らない曲線を描いている。

 少女は構わず、ユリィを見据えながら続ける。凍り付いた声は、ユリィの心臓の内部の、硝子でできた部分に近づいていくような気がした。

「君もあいつと……あの月と同じだ。嘘つきで、心臓はそんなにうるさく騒いでるのに、怯えてるのに、傷だらけなのに、知らないふりをしてる。似合わない姿に縛り付けられてる。いい加減、自由になりたくなっただろ」

「うるさい」

 衝動的に返した言葉も空を切る。

「ねえ、夢から、覚めたいかい」

 ユリィの首を掴む手を放して、ただぽつりと少女は呟く。ユリィは頷くしかなかった。ユリィが首を縦に振るのを見て、少女はふっと息を吐く。

「僕が君を目覚めさせてあげる。だから、代わりに約束してほしいんだ」

「……約束?」

「これからも、ずっと僕と一緒にいて」

 少女は言った。そしてそのとき、初めて笑った。ユリィは息を飲む。花がこぼれるような、世界中の優しさだけを注いだよう笑顔だった。

「ずっと、一緒に、いる……」

 ユリィは復唱した。それは優しい言葉だった。

「聞き届けた」

 打ち切るように、少女の声が響く。目が覚めたばかりのようにユリィは少女を見返した。そして少女の笑顔が消え失せていることに気が付いた。

 決定的に間違えた。ユリィはなぜかそんな予感がした。

「今、君は猟銃を持っている。『赤頭巾』の、ユリィ」

 少女の金色の目からも、色が消える。そこでようやく、ユリィは自分が赤い頭巾を被っていることを思い出した。いつの間にか、両手に猟銃まで抱えていた。どちらも、祖母の隠し扉の下にあったものと同じだった。

「目の前を撃て。そして目覚めろ」

 少女は淡々と続ける。真っ直ぐにユリィを捉えている。ユリィは少女の言うとおりに動くことしかできなかった。

「引き金はそこだよ」

「あなたを、撃つの」

「君が一番殺したいものを、思い浮かべていればいい」

「……撃てばいいのね」

 不思議だった。今は、どうすれば引き金を引けるかが分かった。きっとやっぱり、夢だからだ。変な夢だ。

 ユリィは銃を構えた。少女の胸の中心に、焦点が合う。引き金に指を掛けたところで、手を止めた。

「どうしたの?」

 少女は両手をいっぱいに広げた。そしてまた笑った。その笑顔を見ると、なんでもないことのような気がした。

「あなたは、誰なの」

 ユリィは尋ねた。

「『狼』」

 少女は答えた。

 そして、ユリィは引き金を引いた。銃声が響いた。反動はなかった。

 夢も、おとぎ話も、大嫌いだ。そう、ユリィは思った。

 銃弾が少女へ届く。その刹那。

 少女の姿が、ユリィの母に変わっていた。

「っ、か――」

 言い切ることはできなかった。瞬きの次には、少女は少女の顔に戻っていた。胸に円い穴が開き、貫かれた少女の身体は一滴の血も流さずバラバラに千切れてゆく。そして、飛散して消える。

「私は、今、何を撃ったの……?」

 ユリィの中の、母の顔が消えない。確かに母親だった。そして刹那の母は、笑っていた。

 立ち尽くすユリィに、遠い街の鐘の幻聴が聴こえる。地平線よりも遠くに、抉られたような円環の月が浮かんでいる。夢の終わりを告げる、方舟のようだった。

 やがて空にひびが入って、真っ二つに割れた。



 空が割れて現れたのは、祖母の家の内側だった。窓は開いたままで、色濃い光が溢れている。なぜか懐かしくて、明るすぎる気がした。

 床に座り込んだまま、ユリィは眩しさに目を擦る。ゆっくりと五感が戻ってくる。強烈に戻ってくる。部屋はきらきらと眩しいのに静寂に包まれて、生臭い匂いに満ちていた。紛れもなく現実だった。

 だけどそこにある光景はまだ、悪い夢を見ているみたいだった。 

 テーブルやランプが倒れて転がっていただけじゃない。ユリィを囲むように、狼達が横たわっていた。三匹は全部、血塗れの死骸だった。死んでいた。

「夢じゃ、なかったんだ」

 ユリィの身体には痛みも傷も、どこにもなかった。それでもユリィには、自分が狼に殺されて、どういうわけか生き返って、狼を皆殺しにした、そんな確信があった。

 恐る恐る、ユリィは頭に手をかける。やはり赤頭巾を被っていた。ユリィは外そうとした。だけど、頭巾は頭にくっついたまま、びくともしなかった。

『外れないよ。約束しただろ、ずっと一緒だって』

 そのとき、ユリィは声を聴いた。オレンジの夢の中の少女の声と同じだった。だけどここに少女はいない。いるのはユリィと死骸だけだった。まるで、頭の中だけで響いているような声だ。

 全部、夢じゃなかった。ユリィの視線はしばらく宙を彷徨った。

 無防備に床に置かれた籠は、柳の蔓が半分くらい解けてしまっていた。チェリーパイが散らばっていた。傷一つなかったダークチェリーや厚かったパイ生地が、ぐちゃぐちゃになって。母が焼いた、祖母に食べてほしかったチェリーパイ。祖母が食べることなんてできないチェリーパイ。。

 全部、夢じゃなかった。狼に襲われたのも、チェリーパイを食べたのも、手紙を破いたのも、手紙がきたのも、いじめられたのも、お母さんがおかしくなったのも、女の子の恰好してるのも、おばあちゃんが死んだのも、お父さんが出て行ったのも。

「おとぎ話の……『赤頭巾』……、あなたは、『狼』……」

 確かめるようにユリィは呟く。『狼』は、短く答える。

『おとぎ話か』

 それ以上、何も言わなかった。

 家に帰ろう、ともう一度ユリィは思った。帰らなくちゃいけない気がした。どうしようもなく、嫌な予感がした。立ち上がったユリィは、チェリーパイの破片の近くに投げ捨てられていた猟銃を掴んだ。持っていなければいけない気がした。その猟銃だけを持って、ユリィは祖母の家を飛び出した。荒れ果てた部屋と死の薫りを、放り出して。

 ユリィは金色が降り注ぐ森を駆け抜けてゆく。血の匂いと拭えない悪夢に、心が疾る。それなのに、身体はやけに軽くて、視界は酷く綺麗だった。風の薫りが濃く混ざり合い、靴越しの土の温度に震えた。深く、深く夜が近づいてくる。

 そうして辿りついたユリィの家は、灯が点っていなかった。

 ユリィは深く息を吸う。

 ユリィが学校に通い始めたばかりの頃、父が家に帰らなくなった。別の女の人の所に行ったんだと言う。泣き止まない母をずっと抱き締めていたのは祖母だった。ユリィは何もできなかった。

『ユリィ、どうしてそんな男の子みたいな恰好してるの?』

 母がようやく泣き止んで口にしたのは、そんな言葉だった。母は、自分の息子が娘だと信じるようになった。その日から、ユリィは毎日スカートを履き、黒い髪を伸ばし、母にそれを編ませた。ユリィが男の子の恰好をしたら母は絶望を顔に浮かべ、言いつけを破れば、ユリィの顔を何度も叩いた。母がユリアンという名を呼ぶことはなくなった。ユリィ、と呼び続けた。

 母はずっと女の子を欲しがっていたんだと、祖母は気まずそうに告げた。ユリィは頷いた。同級生には気持ち悪がられ、馬鹿にされるようになった。それでも、ユリィは母の望む姿でいようとした。ユリィでいれば、母は笑ってくれたのだから。

 ユリィは深く息を吸う。

 扉に、生臭い匂いが浸み込んでいる。その玄関をゆっくりと開ける。

「ただいま、お母さん」

 目を瞑って、そう言った。返事はなかった。

 ユリィの母は倒れていた。暗い部屋の中のその姿が、ユリィにははっきりと見えた。ユリィは駆け寄って、仰向けの母の身体に触れる。呼吸も脈も聴こえなかった。死んでいた。

 母の胸元を黒く染めているのは、大量の血だった。触れたユリィの手も生温く濡らす。床に零れた血の染みは、まだ広がり続けている。

「やっぱり、あのとき私は、母さんを……」

 ユリィは夢の中で引き金を引いたことを思い出していた。刹那を過ぎった、母の姿。

『致命傷を負った君が生き返るためには、代償が必要だった』

 また、『狼』の声が頭に響いた。

 ユリィは母の顔を覗き込む。見開かれた水色の目。ぽっかり空いた口の端から、赤い血の線が伸びている。青白くやつれた頬。汗ばんだ髪の毛。水荒れした硬い手が、だらりと垂れ下がって。

「……あなたは、そんなこと言わなかった」

『引き金を引くことを選んだのは君だ』

「嘘つき」

 ユリィは力なく言葉を投げた。

『でも本当は、少しほっとしてる』

「そんなことない」

『だって君の心は、そんなに悲しんでない。ものすごく静かだ』

「そんなことない」

『僕は言った。君が一番殺したいものを、思い描いて撃てって』

「お母さんを殺したいなんて、思ってない」

『自由になれたって、思ってる』

「そんなこと」

 そこでユリィは黙り込んだ。淀みなく続く少女の声に、ひたすら否定の言葉を並べても、どこかで受け入れていることをユリィはわかっていた。

「どこからが、あなたの物語なの。どうして、私を選んだの」

 その問いかけに返された言葉は、笑っているように聞こえた。

『君が僕に僕に触れてくれたから。助けてあげただけ』

 それも嘘つきだ、と思いながら、ユリィは母の手に触れる。当然のように冷たかった。

 赤頭巾さえ被らなければ、狼なんて来なかったのかもしれない。血まみれになんてならなかったのかもしれない。母は死ななかったのかもしれない。家に帰ったら、お母さんはきっと笑って、汚しちゃだめだって叱ってくれる。チェリーパイ、美味しかった、喜んでくれたよってユリィも笑う、そんな毎日。

 ――ユリィは本当に可愛いわね。

 ――おばあちゃん、喜んでくれるかしらね。

 ――いいつけを守らない、いじめられっ子の馬鹿な、悪い子でした。

 ――少し、ほっとしてる?

「お母さん」

 ユリィは母の死体を見下ろして、あてもなく呼んだ。

 私がお母さんを撃って、殺したんだ。

 ポケットの中には、萎れた朱色の花がまだ入っていた。ユリィは引き裂いた。千切れた花びらは宙に舞うこともなく、潰れて床に染みこんだ。この部屋に差し込むのは、ほんの糸のような月明りだけだった。全部現実だ、とユリィは思った。



 朝が来た。森の鳥が鳴いている。真っ青に晴れていた。ユリィは母の亡骸を、ベッドに寝かせた。白い花が挿されている花瓶を枕元に置いた。

 猟銃は持ったままだ。誰かに見つかったら、間違いなくユリィが母を殺したことになるだろう。それは本当のことだった。このまま過ごしていくことなんて、できそうになかった。

 ユリィは二階で服を着替えた。赤頭巾は変わらず頭にある。紐で、背中に猟銃を縛りつける。そして鍵を掛けずに家を出た。

 やっぱり、信じられないくらいに身体が軽い。街を、人の間を駆け抜けて、やがて街の境の丘に辿り着いた。

 丘の草原は、花瓶に挿されたものと同じ白い花が、まばらに咲いている。ここからは街と森と、時計台がよく見える。ユリィは草むらに座り、街を見下ろす。汚れを背負ったような森に囲まれて、鐘の音の隙間で変わらない時間が流れる街を。

 ユリィは髪を結ぶリボンをてのひらで弄ぶ。水色の、母が刺繍したリボンだった。今は千切れかけている。

『あなたの目と同じ、綺麗な水色でしょう』

 そう狂ったあとの母は言った。母の目も同じ水色だった。だけど今は、水色は赤に染められていた。そのリボンだけはなぜか、置き去りにしていくことができなかった。


 これから、何処へ行くの?


 頭の中の少女――狼は問う。ユリィは聴こえないふりをした。

 そのとき、背後で草むらが騒めくのを聴いた。人の気配だった。母さんが見つかって、誰かが自分を捕まえにきたのだろうか。そう思いながら、ただ前を向く。

「ユリアン!」

 懐かしい名前を、その誰かは呼ぶ。その人物に思い当たって、ユリィは振り向いた。そこに居たのは、やはり見覚えのある顔だった。

「……父さん」

 父の姿は、ユリィにはほとんど記憶にない。その中で、厳格だったことだけは覚えている。今も、きちんとした身なりできちんとした顔をして、ユリィに近寄ってくる。紛れもなくユリィの父親だった男だ。

「お前、なぜそんな恰好をしている? 学校はどうした?」

 そう、不審がるような素振りで男は尋ねる。そこには一切のやましさもなく、ただ傲慢だった。

「ぼ、僕は……」

 ユリィはそれ以上言葉を継げなかった。破り捨てた手紙に思い当たって、合点がいく。今、帰ってきたのか。そして疑う。長い間会っていないのに、どうして自分のことをユリアンだとわかったのか。女の子の服を着たままの自分を。

 丘の頂上を横切る一本道の上には、馬車が止まっていた。わざわざ馬車を下りてまで、顔を見に来たというのか。

「……まあいい、大方あの女の趣味だろう。ところで、母親は何をしている?」

 吐き捨てるように言う男はもう、余所見をしていた。

 ユリィは答えずに項垂れた。焦っていた。

 どうしよう、このままじゃ見つかる。このままじゃ、お母さんを殺したことが、お父さんにばれてしまう。

 そのとき、ユリィは自分の右手に気が付いた。爪が伸びていた。鋭く、大きく。毛が生えていた。白銀の毛並みが。本物の狼の手みたいだった。

 ユリィは顔を上げた。そのとき初めて、まともに父の顔を見据えた。ただのどこにでもいる人間の顔だ。今この丘にいるのは、この男と、ユリィだけだ。

「全く、昔からあの女は――」

「うぁぁぁぁぁぁっ!」

 駆け出すことに、迷いはなかった。本能のような暴力的な衝動だった。

 叫びに振り向いて、男は目を見開く。

 次の瞬間には、血を噴き出して男が崩れ落ちた。それを見下ろして、返り血に塗れたユリィが立っていた。

「また汚れちゃった。……あーあ」

 ユリィは呟いて、右手を眺める。獣のようだったそれは程なく、人間の手に戻る。そこには、男の血だけが残されていた。父親の血だ。もう死んでしまったらしい。ユリィの感情は空っぽだった。また一人殺した。それだけを思った。

 それからユリィは、もう一度街を見た。

『何処へ行くか、決まったかい?』

 聴こえた狼の声は、相変わらずつまらなそうだった。ユリィは答える。

「そんなもの、ない。逃げるだけ」

『ずっと逃げるの?』

「ずっと。もう、帰ることなんてできないんだから」

 とりあえずは、ここを出ていこう、とユリィは思っていた。

『君は言ったね。死にたくない、狼は嫌い、チェリーパイなんて不味くて喰えない、女の子の恰好なんてもうしたくない、親父に会いたい、会いたくない、学校でいじめられたくない、ばあさんには生きててもらいたい、母ちゃんにはまともになってほしい、そもそも出て行った親父が悪い、ってさ』

 狼の声は平坦なままだったが、どうも茶化しているようだった。確かに夢の中で言ったかもしれない、と思うが、定かではなかった。

『今でも、そう祈ってる?』

 ユリィは頭を振った。そんな祈り、もう絶対にかなわない。母も父も、もう皆死んでしまった。ユリィが殺したからだ。だけど少しの罪悪感の他には、何も感じない。狼に殺されたときから、オレンジの夢から覚めたときから。泣くことができない。感情も、自分を形作っていたものも、置いてきてしまったような気がした。

「だって私、もう人間じゃない。もう、死んだんだから」

 全部そのせいだ、とユリィは結論付けた。

『とか言って、逃げるってことは、まだ生きるつもりなんだろ。親を二人とも殺しておいてさ……なんて、別に人間みたいに責めるつもりはないけど。自由になる気になった?』

「自由、自由って。最初から、そんなものが欲しかったわけじゃない」

 それに、これが自由だとは思えない。ただ、ひとりぼっちになっただけだ。

『じゃあ、何が欲しいの?』

 狼はそう尋ねた。そんなもの、分からなかった。この狼こそ、何がしたいっていうんだろう。

 そのとき、水色のリボンが吹かれて落ちた。ユリィの髪は解けて、拾い上げたリボンは、完全に千切れていた。それを草むらに投げ捨てて、頭を掻く。赤頭巾を被っていたことを思い出して、ユリィは思う。狼だというのに、夢の中で見た少女はまるで、物語の『赤頭巾』みたいだった。

『さびしいなら、僕が一緒にいてあげるけど。ユリアン』

「いらない。それに……ユリィでいい」

 街の歯車は規則正しく回る。初めからユリィがいなくても回る。見下ろしていたら、また時計台の鐘が鳴り響いた。

 明日になったら。明日になったら。そうだ、今日がその明日だったんだ。そのことに今、気が付いた。もう意味のないことだ。いらない人間なのは、ユリィの方だった。

 鐘が鳴りやむ前に、ユリィは街を抜け出した。

 駆けて、駆けて。やがて、雪に埋められゆく国境線を越えて。


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