月を壊せ

泥飛行機

月の話

 花畑だった。朱い花達が、一面に苦く薫る。その花の名前なんて分からなかったから、僕は見上げた。そこに、彼女が居た。

 彼女は人間だった。だけど彼女からは、何の薫りもしなかった。確かに花畑の中に立っているのに、死んでいるみたいだった。

 僕は狼だった。草を掻き分けて、花畑の中を僕は進んだ。あのとき僕を歩ませたのが、花達の朱だったのか彼女の赤だったのか、今になってもまだ、分からないけど。

 僕が見上げた彼女も、背を向けて、なにかを見上げているようだった。その視線を追えば、真昼の月が、そこにあった。

 やがて、最初から気づいていたかのように、彼女は柔らかく振り向いた。両手には布の被さった籠を持っていて、それから、赤い頭巾を被っていた。ここにある花達に似た、真っ赤な頭巾。

 彼女は少し首を上げてから、僕を見下ろした。しゃがむことも、触れることもなく、僕を見返していた。たった二つの目が、ぎらぎらして、きっと、群れのあいつらが狩りをするときの、その一匹一匹に似ていた。

 頭巾の端から、金髪がこぼれていた。すぐにでも喰べられそうな小さな身体、小さな唇。生きている薫りのしないやつなんてもとから喰う気はなかったけど、僕は確かに動けなかった。それくらい、彼女はぎらついていた。確かに生きていたんだ。

 彼女は口を開いた。空気は少しも震えなかったけど、その声はやけにはっきりと聴こえた。

「おはよう」

 僕はその問いの返事も、返事の仕方も分からなかった。だからせめて、吼えるのも唸るのもやめて、彼女を睨み返し続けた。

 真っ昼間だった。森の中、ささやかな空を背にした彼女の頭上には、変わらず月があった。欠けすぎた月。だけど僕の目が、あの月の色みたいに彼女に見えてくれたら、愉しいだろう。そんならしくないことを思った。



 色、薫り、風音、鼓動、……感情。あのときの光景を、今でも少しは憶えている。追憶なんて呼ぶには鮮やかで、断片的で、何度も何度も繰り返す。

 花畑なんて、もうどこにもない。心の中で、ずっと前から、枯れたままだ。

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