第183話 1月―彼女がこのコーヒーを飲み終えたら
乙姫に頼まれた白桃ゼリーを探し求めて、僕はいつものラッキーマートを訪れていた。そこで副店長の長谷川さんの姿を見つけたので声をかける。アルバイトについての話だ。またここで雇ってもらえないか、聞いてみようと思っていたのだ。
採用の話を持ちかけると、長谷川さんは事務所ではなく、店舗の裏手へと僕を案内した。この時点で、人に聞かせる話ではないと気づかれていたのかもしれない。
「それはもちろんかまわないよ。経験者の時点で教育の手間が省けてありがたいし、君なら素行も問題ない。こちらからお願いしたいくらいさ。……だけど、どうしてこの時期に? もうすぐセンター試験じゃないか」
当然の疑問だった。適当に誤魔化すことはできたが、長谷川さんには事実を話した。大っぴらにする話ではないが、隠すような後ろめたい話でもない。
それに、上司が事情を知っていれば、もしものとき――たとえば乙姫が体調を崩したときに、便宜を図ってもらいやすいだろう。
そんな打算を抜きにしても、この人には伝えておきたかった。
目を丸くして聞いていた長谷川さんだが、話を終えると、軽く口元を上げた。
「阿山君は、君にとっての100パーセントの女の子を見つけたんだね」
「100パーセントの女の子?」と僕は聞き返す。
「気取らない言葉を使うなら、運命の人ってやつさ」
「もう十分に気取ってますよ」
運命の人なんて言葉を現実で聞いたのはいつぶりだろう。ちょっと記憶にないので、もしかしたら初めてかもしれない。
「この話はどれくらいの人が知っているの?」
「両方の家族と、あとは友達にひとりだけです」
「いろいろ言われただろう」
「そうですね……、みんな、最終的には認めてくれましたけど、それぞれ考え方が違うんだなって思い知りました。重きを置いているポイントが違うというか」
「確かにね。家族や友達でも、普通に暮らしているだけだと見えてこないことはある。でも、近しい人から否定されなかったのはいいことだよ」
しみじみと語る長谷川さんに僕はうなずき返す。
「だけど、これから二人の事情が広まれば、何も知らない人や無関係な人が、無神経な言葉を投げかけてくるかもしれない。……いや、間違いなく。いわれのない誹謗中傷が飛んでくるだろう」
「はい」
「妊娠や出産の平均的な年齢というのは、今は二十代中盤から後半くらいなのかな。あらゆる物事に言えるが、平均から外れた行為は注目を集めやすい。それが偉業であればまだいいが、失敗だとしたら、注目はより尖って、批判や嘲笑――つまりは攻撃になる」
妊娠を失敗と断じるのは抵抗があるけどね、と長谷川さんは付け加える。
「やっぱり、それが普通の反応ですよね」
3学期になれば学校側に進路変更の報告をしなければならない。それに、二人そろってセンター試験を欠席すれば、生徒の間に噂が広まるのは避けられないだろう。
「あまり硬くなってはいけない。批判したがる人たちというのは、ご立派な持論をぶつけて
「そのとおり、だとは、思いますけど……」
実際にその〝ご立派な持論〟が僕たちめがけて飛んできたとき、それを冷静に受け流せるだろうか。正直いって自信はない。
こちらの迷いを見抜いてか、長谷川さんは話を続ける。
「不安みたいだね。そういうときは心構えが大切だ。まずは、飛んでくる言葉よりも、それを投げつけてくる人たちの意図を考えてみようか」
長谷川さんはあごに手をやり、首をかしげる。
「――彼らは、君たちを思いやってくれているのかな?」
その問いかけで思い浮かんだのは、先日の百代の、切実な問いかけだった。こんな質問をしたら不愉快にさせてしまうのではないかと心を痛めながら、それでも僕たちの覚悟を問うために絞り出してくれた、彼女の気づかいを回想する。
思いやりとは、きっとあれのことを言うのだ。
「それは違うと思います」
僕は自信をもって否定した。
長谷川さんは続けて次の質問を投げかけてくる。
「――彼らは、君たちの将来を心配してくれているのかな?」
その問いかけで思い浮かんだのは、先日の秋浩さんの、冷徹な瞳だった。僕たちの意思を尊重し、しかし手放しで信用するわけではなく、僕が乙姫の隣に居続けるにふさわしいかを見定め続けると言った、あの人なりの心配の形を回想する。
真に将来を心配するのは、生半可なことじゃない。
「僕たちの将来に、その人たちはなんの関わりもないですから」
僕は自信をもって否定した。
長谷川さんは話を続ける。
「――先生方からお叱りがあるかもしれない。そういう仕事だしね」
その言葉で思い浮かんだのは、先日の父さんの、険しい表情だった。約束を破った僕にはっきりと罰を与え、その上で僕の軽率さの責任を背負って、かたくなに乙姫の両親へ頭を下げていた、あの人の厳格さを回想する。
あれ以上の叱責を、くれる人はいないだろう。
「神妙にしておきます」
僕は肩をすくめてみせる。
長谷川さんはニヤリと口元を上げた。
「なかなかタフじゃないか」
「いろいろあったので」
「この衝撃は経験済み、というわけか。それじゃあ、次のアドバイスだ」
「……次の」
「謙虚さだよ」
「我慢――ですか」
反感がこもった僕の言葉に対して、長谷川さんは苦笑いを浮かべつつ話を続ける。
「これから君が対峙するであろう大人たちは、血のつながりがないぶん、敵になる可能性が高い。しかも、ルールは彼らが握っている」
ルールを握った大人というのは、言うまでもなく教師たちのことだろう。
「それに、批判や嘲笑ばかりの赤の他人たちだって、頭に血がのぼれば暴力を振るってくるかもしれない」
短絡的な人間は口だけでなく手も早い。確かにそこは警戒すべきかもしれない。
「そういうものから身を守るためには、どうすればいいと思う?」
「こちらも相手を威圧できる力を持つこと」
僕が軍拡競争の原理を述べると、長谷川さんは軽く顔をかたむける。
「シンプルだけど、それはケンカを想定した準備だ。単純なぶんコストもかかる。君たちの現状を考えるなら、もっと手前で片をつける方法を探るべきだろうね」
「戦う前に勝つ、ですか」
「場合によっては、負けるが勝ち、まで後退するかもしれない」
「謙虚さってそういう意味ですか」
「ご家族に対しては、自分たちの意思を貫きとおす強さが必要だった。だけど、他人を相手にする場合には、また違った戦い方が求められる」
「……はい」
僕はうなずきつつも迷っていた。両親を説得したときのような、こうすべきだという確かな手ごたえがない。方向性が定まらない、とでもいうのだろうか。
「いろいろ話したから、とまどうのも無理はないさ。しかし、ルートが複雑なぶん、勝ち筋はいくつもある。〝決戦〟までに考えてみればいい」
深刻になっちゃいけないよ、と長谷川さんは笑った。
〝決戦〟。
強い言葉に息をのむ。
そこで必要なのは、やはり冷静さだろう。
予期せぬショックに揺らがないよう、心の準備をしておきたい。
「あの……、長谷川さんから何か、批判や嘲笑のたぐいを言ってもらえませんか?」
「ええ? ……私はそういうの、苦手なんだけどなぁ」
無茶なお願いに、長谷川さんは困惑しつつも首をひねること数秒、
「こらえ性のない男だ」
「――ぐっ」
それはごく普通の注意にも聞こえる言葉だが、何をこらえられなかったのかを考えると、途端にすさまじい揶揄へと転じる。
「高卒で子持ちとか人生詰んだね」
「――うぅ」
〝普通〟から外れた人間を見下すストレートな言葉は、シンプルで率直だからこそ、深く鋭く突き刺さるものだ。
苦手だと言いながらも、どちらもすごくリアリティのある悪口だった。
「……大丈夫かい?」
ショックの大きい僕を心配する長谷川さん。
その背後で、ぼすん、と何かが落ちる音がした。
「ん?」
僕たちはそろって音のした方を向く。
そこにいたのは百代だった。アルバイトに出勤したところなのだろう。足元にバッグが落ちている。こちらを――長谷川さんを、ひどい裏切り者を見るような目で睨んでいる。
その鋭い表情が、くしゃり《・・・・》と歪んだ。
「なんで……、どうしてそんなひどいこと言うんですかっ!?」
どうやら長谷川さんの批判レッスンが聞こえていたらしい。
「キョウ君たち、そりゃあうっかりだったところもあるかもしれないけど、今は必死にがんばってるのに、どうしてそんな邪魔するようなこと言うんですか」
「百代、今のは――」
誤解を解こうと声をかけるが、百代は聞く耳を持たない。
「キョウ君は黙ってて! 長谷川さんってあたしには厳しいけど、でもそれってやさしさの裏返しっていうか、ちゃんと相手のことを考えてくれてるって思ってたのに……」
百代は目尻をぬぐっている。
「あ、いや百代さん、さっきの話はね、」
さらに長谷川さんも誤解を解こうと声をかけるが、百代は聞く耳を持たない。
「言い訳なんて聞きたくないです! 自分がいい歳して独身だからって、あんなこと言うなんて」
長谷川さんが硬直した。
「長谷川さんなんて……、同窓会で既婚者の苦労話をきくたびにむなしい思いしてるくせに! あと、親戚の集まりで孫の顔が見たいって言われるたびに肩身が狭い思いしてるくせに! えっと、あとそれから……」
「――ストップ百代! もうやめるんだ!」
僕は二人の間に割って入り、百代の肩をゆすって強引に話を止める。
振り返ると、長谷川さんは魂が抜けたような虚ろな表情をしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
誤解はすぐに解けたのだが、長谷川さんを生還させるのにずいぶん時間がかかってしまった。平謝りの百代にあとを任せてアパートへ戻る。
乙姫は静かに寝息を立てていた。出てくるときは辛そうだったが、今は落ち着いているみたいだ。よかった。
「様子を見てくださって、ありがとうございます」
乙姫を起こさないよう小声で春香さんに礼を言うと、おもしろい話でも聞いたみたいに眉を動かす。
「自分の子供の面倒を見ていただけよ。もうすっかり夫気取りね」
「ですよね」
「あら弱気じゃない。両家の親を相手に、大層な啖呵を切ったくせに」
「……聞いたんですか」
「睡眠のリズムが乱れているせいか、すごく眠そうにしていたから、ちょっと誘導したら簡単にしゃべってくれたわ」
春香さんはしたり顔で口元を上げる。
すごい裏技を聞いてしまった。こんど試してみよう。
「ちなみに、どんな風に話してたんですか」
乙姫の寝顔をちらりと見やる。まだ起きる気配はない。
「そんなことを気にするなんて、自分の妻が信用できないの? 悪く言われているとでも思った?」
「いや……、良く言われようが悪く言われようが、そこはどっちでもよくて、乙姫が何をしゃべったのかが純粋に気になるだけです。普段は興味のない音楽雑誌でも、尊敬するアーティストのインタビューが載ってたらつい買ってしまうみたいな感じで」
「あなたは何を言っているの」
春香さんが不審者を警戒するみたいに顔をしかめる。何かおかしなことを言っただろうか。けっこう上手な喩えができたと思っていたくらいなのに。『月刊繭墨乙姫』があったらバックナンバーも買いそろえるのに。
「ん……、なんの話をしてるの……」
返事に詰まっていると、乙姫がゆっくりと身体を起こしてこちらを向いた。寝起きの上に眼鏡をかけていないせいか視線が定まっていない。
「阿山君が乙姫にぞっこんだっていう話よ」
「……もっと目新しい情報はないの」
「からかい甲斐のない子たちね……」
春香さんは呆れた声で言いながら、荷物を手に立ち上がった。
僕は玄関口まで同行して春香さんを見送る。
「今日は本当にありがとうございました」
「いいのよ。立場上、あまり頻繁には来られないけど、何かあったら声をかけてちょうだい」
「はい」
「それと、手に負えないことが起こったら、迷わず大人を頼ること」
「……はい」
「あの子のこと、お願いね」
「はい……!」
颯爽とした大人の女性の後ろ姿を見送って部屋に戻る。
乙姫がぼんやりとした顔で声をかけてきた。
「鏡一朗さん……、わたし……」
寝ぼけまなこで枕元をまさぐっていたが、眼鏡を見つけて装着すると、シャキッとしたいつもの表情を取り戻す。
「――コーヒーが飲みたいです」
「ん、よしきた」
待ちに待ったご要望だった。
妊娠中の女性はカフェインを控えるべきとされている。カフェインは紅茶にも緑茶にも含まれているので、それを踏まえれば、普通のコーヒーは一日一杯まで。コーヒー狂の乙姫にとってなかなかハードな制限といえる。
実は、そんな彼女のためにこっそりとカフェインレスコーヒーを用意していたのだ。普通のものと比べて風味が弱いカフェインレスコーヒーだが、僕はいくつもの銘柄を試し飲みして、最も普通のコーヒーに近い一品を絞り込んでいた。
「……イマイチですね。これ、カフェインレスですか?」
しかし、苦労もむなしくあっさり見破られてしまう。
「やっぱり違いがわかってしまうか……」
「当然です」
乙姫は得意げに口元を上げる。が、ふっと表情をゆるめて、
「でも……、あたたかいです」
そう言ってカップを両手で包み込む。
まるで大切な贈り物のかたちを確かめるように。
ホット飲料のコマーシャルでよく見る仕草だ。しかし乙姫はふだん、コーヒーカップをそんな風に持ったりしない。片手で取っ手の部分を保持し、優雅にカップをかたむけるのが彼女のスタイルだ。
「……どうかしましたか?」
「こっちのセリフだよ。どうしたの、そんなあざとい仕草をして」
「このくらいで異変を感じないでください。そういう気分だっただけです」
唇をとがらせる乙姫をほほえましく思いつつも、僕の意識は切り替わっている。彼女がこのコーヒーを飲み終えたら、これからの話をしなければならない。
3学期の始まりは数日後に迫っている。
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