第182話 1月―わたしを叱る人


「ごめんなさい」


 わたしは今、鏡一朗さんの部屋のベッドで横になっています。時刻は朝の10時を回ったところ。色っぽい話ではなく、つわりがひどくて動けないのです。


「いいよ、気にしないで」

「今日がいちばんつらいです」

「そういうこともあるよ。今の時期くらいがピークだっていうし」

「迷惑をかけてしますよね」

「妊娠悪阻おそっていうの? 脱水症状や栄養失調で入院するほどじゃないから大丈夫だよ。乙姫の症状は身体がだるいのと、頭痛だっけ」

「吐き気もあります」

「そっか……」


 鏡一朗さんはベッドのかたわらに膝立ちになって、すぐ近くで話を聞いてくれています。こちらをいたわるような眼差しで、こまめに相槌を打ちながら。ここ最近、彼はよく、そういう優しい表情をするようになりました。


 責任感の芽生えや心境の変化があったのかもしれませんが、優しさの理由はそれだけではないでしょう。日ごろから彼に心配されるような弱みを見せてこなかった、素直ではないわたしにも原因はあるのだと思います。


 相手の変化は、自分の変化を教えてくれます。

 鏡と向き合っているみたいに、自分の状態がよくわかるのです。


「手を握ってもいい?」

「そういうのは黙ってやる方が男らしいですよ」


 苦笑しつつわたしの手を取る鏡一朗さん。草食系だの優男だのと散々に言われながらもしっかり男性である彼の両手に、わたしの左手が包み込まれます。


「相変わらず、手、冷たいね」

「でも平熱なんですよ」

「わかってるけど」

「こういう風にしていると、末期まつごの別れのシーンみたいですね」

「その冗談ぜんぜん笑えないから」


 鏡一朗さんの片手が離れて、わたしの頭をそっと撫でます。寝乱れた髪の毛に指をとおして、ゆっくりと梳かれる感覚。


「ん……、急に髪をさわらないでください」


 髪が引っかからないよう身じろぎをします。


「あ、ごめん、嫌だった?」


 申し訳なさそうに謝られると、調子が狂ってしまいます。こちらとしては『黙ってやる方が男らしいんじゃなかったっけ?』という切り返しを想定していたのですが。


「いえ……、かまいませんが」


 確かにわたしはあまり髪をいじられるのが好きではありません。もっとも、他人に髪を触れられてうれしいという人はあまりいないでしょうが。


 ただ、わたしのそれには、精神的な忌避感だけではない理由があります。母のせいです。


 わたしの髪型は小学生のころからほとんど変わらずストレートロングでした。散髪が苦手だった、というのがひとつ。それと、テレビで見た女優さんの、長い黒髪が風にたなびくシーンにあこがれたという、子供じみた理由からです。


 小さなころは、よく母に髪をケアしてもらっていました。櫛を入れて乱れを整え、跳ねた髪を切りそろえて。そうやって髪がきれいになるのがうれしい反面、自力でそれができないことが不満でもありました。


 身体が不調だと、そんな懐かしい記憶でさえも、否定的なものになってしまうようです。


「……よりによって、この日を狙ったかのように具合が悪くなるなんて」


 実は今日、母に妊娠の報告をする予定でした。

 本来ならもう会っている時間なのですが、外を歩くのもつらいほどに症状が悪化してしまい、急遽キャンセルしたのです。


「本心では、母に会いたくなかったのかもしれません」

「またそんなネガティブなこと言って……。病は気からっていうなら、すべての病気は仮病になるよ」

「じゃあ仮病はこの世で最も重い病気ですね」


 そう返すと、鏡一朗さんは困ったように目を細めて、それきり黙り込んでしまいます。先ほどもそうでしたが、やはり言葉にいつものキレがありません。優しいというより、わたしへの接し方を迷っているかのよう。


 部屋にただよう沈黙を不快に感じはじめたころ、唐突に呼び鈴が鳴って、鏡一朗さんが慌てて立ち上がります。まるでノックアウト寸前のボクサーがゴングに救われるかのようなタイミングでした。


 訪問販売でも宗教の勧誘でも、この空気をリセットしてくれるのならなんでもいい。そんな投げやりな気分は、来訪者の顔を見ると吹き飛んでしまいました。


 ココア色のトレンチコートを脱ぎながら部屋に入ってきたのは――


「――お母さん?」


「急用ができたなんて嘘をついて……、こんなことだろうと思ったわ」


 母はこちらを見下ろしながらため息をつきます。身体はまだつらいのですが、この人の前で弱っている姿を見せるのが嫌で、わたしは上半身を起こしました。


「どうして、来たの」

「妊娠した娘の顔を見るのに理由が必要? それに、明日からは仕事なのよ」


 そう言って母は挑発的に口元を上げます。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 鏡一朗さんには席を外してもらいました。

 今はわたしがせがんだ白桃のゼリーを買いに行っています。つわりで吐き気があるときでも、なぜかそれだけは食べられるのです。


「だいぶ参っているみたいね」

「……寝起きだからそう見えるだけ」


「どうして阿山君を追い出したの?」

 母は鏡一朗さんが出ていったドアをちらりと見やり、続けざまに問うてきます。

「私が彼を叱るとでも思った?」


「……鏡一朗さんをかばって逃がしたと言いたいの?」

「あるいは、自分が叱られるところを見られたくなかったのかしら」


 わたしは思わず母の顔を凝視します。

 こちらの質問が本命だったのでしょう。


 相変わらずこの人は、わたしが考えるのを避けてきた核心を、容赦なく暴き立てるのがとても上手です。


 父はわたしを叱りません。晶さんも同様です。鏡一朗さんのご両親は、祝意の中にときどき申し訳なさそうな感情が見え隠れしています。


 だから現状、わたしを叱る人がいるとすれば、それは母だけなのです。


 そんな相手とどうして一対一になってしまったのか。


 わたしは、自分が叱られるところを鏡一朗さんに見られたくなかったのでしょうか。それとも、わたしが叱られているのを見た彼が、自責の念を感じないようにと、ここから遠ざけたのでしょうか。よくわかりません。


「大丈夫よ」


 母はベッド脇に腰かけて、わたしの髪に手を伸ばします。撫でつける所作は鏡一朗さんのそれよりも手馴れていて――悔しいことに、とても落ち着くのです。


「どうせ阿山君はあちらのご両親にいろいろ言われたんでしょう?」


「お父さんも……、基本的には喜んでいたけど、しっかり釘も刺していたわ」


「だったらそれで十分。体調が悪いと心まで打たれ弱くなるんだから、そういうときに説教したってなんの効果も望めないわ」


「……お母さんも、わたしを産むときはこんな風になったの?」


「私はあまり具合が悪くはならなかったから、この時期の大変さはあまりわからないけど。そのぶんは彼にぶつけてあげなさい。あなたと阿山君は、年齢のわりには気持ちを言葉にするのが上手いけど、まだ遠慮があるでしょう」


「そんなこと」


「あります。さっき私が入ってきたとき、2人ともホッとしてたでしょう。助かった、って顔してたわ」


 そこを突かれるとぐうの音も出ません。


「……だって鏡一朗さん、わたしが弱っているからって遠慮ぎみだし」


 つわりは誰もが通る道。お医者さまも、両方の家のお義母さんもそう言っていました。本当に危険なときはすぐに連絡が必要ですが、それ以外の症状は、過ぎ去るまで無理をせずに耐えるしかないのだと。


 その話は鏡一朗さんも聞いていたのですが、実際に弱っているわたしを目の当たりにすると、ずいぶん動揺していました。


「辛そうにしている人を見て、ちゃんとそれを感じられる、やさしい感性の持ち主ということでしょう。……でも、それならいい手があるわ」


「……いい手? どんな?」


「彼が戸惑っているのは、つらそうにしているあなたに、何をしてやればいいのかわからないからよ。そういう人には、なんでもいいから頼みごとをしてあげるのよ」


「なんでも、って言われても……」


「どんな簡単な雑用でもかまわないの。要は役割を持たせること。そうすれば人ってあんがい落ち着くものよ。阿山君はどちらかというと、使われて喜ぶ側の人間でしょう? 今のうちからお願いに慣れておきなさい。結婚したらそのあとが長いんだから――って、私が言っても説得力がないわね」


 順調に持論を述べていた母ですが、ふっと言葉を切り、自嘲するような苦笑いを浮かべます。急に弱々しさを見せられても、反応に困ってしまいます。


 なので、さっそく母の教えを実践してみました。


「……じゃあ、わたし、コーヒーが飲みたいんだけど」

「大丈夫なの?」


 妊婦がひかえるべき成分の中でも、カフェインは特に有名なもの。どれくらいまでなら大丈夫なのかは、コーヒーを愛するわたしには重要な情報です。一日一杯程度なら神経質にならなくてもいいと、お医者様から了承を得ていました。


「今日はまだ一杯も飲んでいないから」

「そう。……だったら、たまには使われてあげましょうか」


 母は冗談めかしてそう言って、台所へ向かいます。しばらく食器棚や冷蔵庫などを見ていましたが、やがて小さなカゴを持って戻ってきました。


「どうしたの?」

「これを見て」


 母が差し出したカゴの中には、インスタントや個包装のドリップ式など、何種類ものコーヒーが入っていました。共通しているのは、どれもカフェインレスということです。


 しかし、わたしはそれらを飲んだことがありません。鏡一朗さんがわざわざ味で劣るカフェインレスコーヒーを飲む理由もないはずです。


「どうしてこんなものが……、あら?」


 カゴの隅っこに折りたたまれたメモ用紙を見つけ、反射的に手に取ります。


 そこには、コーヒーの銘柄と味の評価が書かれていました。苦味と酸味の強さや、香りの良し悪し、飲み口などの特徴をもとに、総合的な順位まで記されています。


「ふぅん、じゃあせっかくだし、一番いいコーヒーを淹れましょうか」

「待って、お母さん」

「なあに?」


 わかっているくせに、という言葉を飲み込んで、左右に首を振ります。


「……やっぱり、今はコーヒーはいらないわ」


 自分で淹れたものでも、母が淹れたものでもない。

 彼が淹れたコーヒーが飲みたいと、切実に思います。

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