第181話 1月―今より幸せなイフは存在しない

 再び、12月24日。


 繭墨邸の玄関で僕たちを出迎えた秋浩さんに向かって、父さんはあいさつもそこそこに謝罪の言葉を述べ、深く頭を下げた。


 厳格な父さんのへりくだった姿を後ろから見ていると、胸が締め付けられる思いがした。


 2日前に秋浩さんと会って、僕と乙姫の関係への許しはもらってる。だからといって、親が謝罪をする必要はなくなった、などと父さんが考えるわけがなかった。


 悪いことをしたとは思っていないが、それでも頭を下げなければいけない場面はあって、その役目を親に代わってもらわなければならない自分がふがいなかった。


 お前では話にならない、責任者を呼べ、というやつだ。


 せめて自分の人生の責任者は自分でありたい。父さんの背中を見ながらそう思った。そうでなければ乙姫との約束も守れない。


 秋浩さんは〝二人の意思を尊重しましょう〟〝彼を責めるつもりはありません〟という意味のセリフを、父さんが首を縦に振るまで、言葉を変えて何回も繰り返した。


 両家の父親の十数分にわたる押し問答のすえに、僕たちはようやく屋敷に上がる。


 応接室には夕食が用意されていた。大皿に盛りつけられた料理を、各々が自由に取り分けて食べるという、バイキングに近い形式だった。


 歓待を受けるとは思っていなかったのか、父さんも義母さんも戸惑っていたが、それじゃありがたく、と千都世さんが先陣を切ると、なし崩し的に晩餐が始まった。


 始めはぎこちない雰囲気だったが、千都世さんや秋浩さん、義母さんなど社交的サイドの人たちが積極的に話しかけてくれて、だんだん打ち解けていった。


 料理は順調に減っていき、やがて食べるよりもしゃべる時間の方が増えていく。


 父さんと秋浩さんが酒を酌み交わしている。最初は仕事の付き合いのように硬かった二人も、酒が進むとそれぞれ子供の思い出を語りだして饒舌になっていった。こっちに来て酌をしなさい、と絡まれたりした。


 乙姫は義母さんと晶さんのところで話し込んでいた。ときどき視線を感じたので、僕のことが話題にされていたのかもしれない。何を話していたのか、聞いてみたいような、スルーしたいような。


 年上ばかりで所在なさげにしている明君に、千都世さんが姉力あねりょくを発揮して声をかけていた。明君の目が泳いでいたので、千都世さんには彼氏がいるのだと、あとで教えてやらなければならないだろう。


「鏡一朗さん」

 お腹いっぱいになってぼんやりしていると、乙姫に声をかけられた。

「ちょっとキッチンへ来てください」


 冷蔵庫の中にケーキがあった。ロールケーキがココアクリームでデコレーションされたそれは、


「ブッシュドノエル?」

「午前中に作っておきました」

「いそがしかったんじゃないの?」


 夕食の準備もそうだし、乙姫はいちど僕のアパートにも来ていたのだから、だいぶバタついていたはずだ。


「ほとんど義母が作ったものです」

「それはそれは」

「恩返しだと言っていました」

「怨返し……」よくもうちの娘を的な意味だろうか。

「そっちじゃないです」

「恩返しって、誰に?」

「鏡一朗さん以外にいないでしょう」

「身に覚えがない」

「恋人との初めての聖夜だったのに、新しい家族と過ごした方がいいと言ってわたしを袖にした、去年のクリスマスを覚えていますか?」


 眼鏡の奥で乙姫の目が細められる。


「まだ根に持っていらっしゃる?」

「いつまでも色あせない大切な記憶です」


 乙姫のジト目が続いているので、僕はその視線から逃れるべく手を動かす。ブッシュドノエルの大皿を持って冷蔵庫からゆっくり取り出した。そのフランスの伝統的なクリスマスケーキを見ていると、否応なしに二年前のクリスマスが思い起こされる。


「僕たちのクリスマスは平穏だったためしがないね」

「まったくです」


 乙姫が楽しげに口元を上げながら、食器棚から人数分の小皿を取っている。

 カチャリ、カチャリと静かに重ねていく。


 そのまま応接室へ戻ろうとしたが、乙姫はなぜか棚の方を向いたまま、その場から動かない。


「……乙姫?」


 具合が悪くなったのかと心配して呼びかけるが、


「大丈夫です。少しだけ、待ってください」


 乙姫は空いた方の手で自分の顔に触れた。後ろから見ていたのではっきりとはわからないが、目のあたりをこするような仕草だった。


「ここにいる人たちは、わたしたちの味方なんですね」


 僕はしばらく乙姫の肩を抱いて、彼女が落ち着くのを待った。

 向こうに戻ったとき、二人っきりで何してたんだ、と冷やかされても冗談でかわせるように。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 両家の夕食会を終えると、年の瀬は慌ただしく過ぎ去っていった。僕と乙姫はそれぞれの実家で年を越したあと、三学期が始まる前にいちど会う約束をしていた。いわゆる、関係者の皆様へのごあいさつのためだ。


 家族以外で最初に伝えるのは彼女で決まりだろう。

 乙姫の親友、僕にとっても友達である、百代曜子に。


 行きつけの喫茶店に呼び出された百代は、最初こそお年玉をがっぽりもらったためか陽気だったが、乙姫から妊娠の話を告げられると、目と口を丸くしていた。開いた口が塞がらない、の見本のような表情である。


「にん……、しん……」

「卒業後には婚姻届けを出して、一緒に住む予定よ」

「こん……、いん……」

「出産予定日は八月中ごろ。カレンダーどおりにいけば、だけど」

「しゅっ……、さん……」

「……ヨーコ? どうしたの? インコの方がまだ語彙が豊富よ?」


「びっくりしてるの! 頭真っ白だよもう……」


 百代はテーブルにうつぶせて、ぺたりと頬をつける。


「ごめんなさい。本当はもう少し早く伝えたかったんだけど」


 乙姫は猫をなでるようにそっと百代の髪の毛に手を伸ばすが、百代が急に顔を上げたので慌てて引っ込める。


「もしかして、ちょっと前に具合が悪いの隠してたのが、そうだったの?」

「ええ。食欲不振とか、いろいろよ」

「そっかぁ……、ものすごいびっくりしたし、今もまだ、ちょっとわけわかんないけど……、とりあえず、おめでとう、でいいんだよね?」


 おそるおそる尋ねる百代に、僕たちは自信をもってうなずきを返す。


「もちろん」

「ありがとうヨーコ」


 こちらの返事を聞いて、ようやく百代は表情をやわらげた。


「は~、なんかすごいなぁ……、あたしね、バイトを始めて、お給料をもらったとき、自分がすごく大人になった気がしたの。……でも、ヒメたちはそういうのすっ飛ばして、本当に大人になっちゃうんだね」


「大げさよ。わたしたちはまだ何者にもなっていないわ」

「腹はくくったけど、ぜんぶこれからだから」


「ふーん、でも、キョウ君ちょっと変わったよ。かっこ良くなった感じがする」

「え、そう?」


 ストレートに容姿を褒められることがあまりないので、つい口元が緩んでしまう。


「うん、顔つきが引き締まったっていうか」

「自分じゃよくわからないけどあイタ


 太ももにまるでフォークで刺されたかのような鋭い痛みが走った。


「どしたの?」

「いやなんでもないよ」


 と応じながらも、久しぶりの嫉妬につい口元がゆるんでしまう。


「……やっぱり引き締まってないかも」

「鏡一朗さんの顔なんてどうでもいいわ」


 乙姫は早口でずいぶんなことを言いながら、チーズケーキをフォークで乱暴に切り分けている。


 僕たちの様子をニコニコしながら見ていた百代だが、ふと何かを思いついたように「あっ」とつぶやき、テーブルに身を乗り出した。


「ねえねえ、ヘンなこと聞いていい?」

「何かしら」

できちゃった・・・・・・のって、もしかしてあのメイド服の日?」


 乙姫がフォークを取り落とした。カシャン、と床で跳ねる金属音を聞きつけて従業員がやってくる。新しいものと交換してもらい、咳ばらいをひとつ。


「……違います」

「そっかぁ、残念。いつか二人の子供が大きくなって、自分はどうやって生まれたの? みたいな疑問を持ったときに、おもしろい答えを聞かせてあげられると思ったのに」


「ずいぶんと潜伏期間の長い嫌がらせね……」


 それから、恐れおののく僕たちに、百代は次から次へと質問を投げかけてきた。


 その多くは、子供の性別や名前などの気の早い話だったり、二人そろって赤面してうつむいてしまうような答えにくい質問だったりした。


 本気で答えが知りたかった質問はたぶんほとんどなくて、ずっと百代は最後の質問のためのタイミングを見計らっていたのだと思う。



 店を出た別れ際だった。

 僕たちが曲がり角を折れる寸前、


「――ふたりは、後悔してないの?」


 足を止めて、振り返る。

 百代は口元をきつく結んで、にらみつけるような視線をぶつけてくる。それは彼女の興味を満たすためではなく、僕たちの決意を試すための問いかけ。


 答えは出ていた。

 すでに出ていた僕たちの答えを、百代に届ける。


「今より楽なイフはいくらでもあると思う。だけど……」


 うまい言葉が見つからなくて脳内の辞書を総ざらいしていると、


「――今よりしあわせなイフは存在しないわ」


 と、セリフの続きを乙姫がかっさらってしまう。

 シンプルに、颯爽と。

 立場がない。

 しかし、それ以上にしっくりくる言葉もなかった。


「……そっか、それならいいの。変なこと聞いてゴメンね?」

「そんなことない。聞いてくれてよかったわ」

「うん。……じゃあ、またね! 身体に気をつけてね!」


 百代はカラッとした笑顔でうなずくと、手を振って走り去っていった。

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