第177話 12月―ひとりではどうしても答えを出せない問題


 最初に異変に気づいたのは十二月の中頃だった。

 それまでにもサインは出ていたのかもしれないが、見落としてしまっていたのだ。

 受験勉強で必死だったから、なんて言い訳にもならないけれど。




 この頃には最後の定期テストも終わり、ほぼすべての授業時間が試験勉強のための自習にあてられる。僕と乙姫は空き教室の一角で勉強をするのが習慣になっていた。


 窓辺の席は午後になると温かい日差しに包まれて、居眠りに最適の場所になる。睡眠時間を削りぎみだった僕は、昼寝の誘惑に逆らえずに、ちょっと休憩するだけだからと、よく机に突っ伏していた。


 それでも寝過ごしがなかったのは乙姫のおかげだ。

 いつの間にか耳元にキッチンタイマーが置かれていて、きっかり十分後にセットされたそいつが、僕の安眠を容赦なく妨害してくれた。


 そういう気遣いをしてくれる彼女が、居眠りしているところを見たことがない。2年生で同じクラスになったときから一度もだ。午前中に体育があった日でも、5限目が退屈な古典の日でも、例外はなかった。


 睡眠不足はあらゆる能力を低下させる――それが乙姫の持論で、実際に彼女は夜更かしや一夜漬けのたぐいを一切しなかった。する必要がないほど自己管理が万全だったからでもあるが。睡眠時間を削ってまで何かに打ち込んだのは、僕の知る限りでは去年の文化祭のときだけだ。


 だから、向かいの席で乙姫がうつらうつらと舟をこぎ始めたときは、寝不足を心配するよりも先に、何かの罠なのではないかと警戒してしまった。


「大丈夫?」

「――えっ? ……ええ、ちょっと根を詰めすぎたのかもしれません」


 こちらが声をかけると、乙姫は苦笑いをしつつ姿勢を正し、勉強に集中するふりをする。だけど、数分後には、頭が動かないよう頬杖をついて、目を閉じていた。


 しばらく放置してみても、目を覚ます気配はない。


 顔を支えている左腕を引っ張ってみた。


「――ひゃっ!?」


 かくん、と乙姫の頭が急降下して、長い黒髪が参考書をおおう。


 数秒ほどの沈黙のあと、顔を上げた乙姫の恨めしそうな瞳が、黒髪の滝のすき間からこちらをにらみつける。その光景はちょっとしたホラーだ。


「大丈夫?」

「……ちょっと隙を見せたらすぐ悪戯ですか」

「えぇ……、そういう受け取り方?」

「自制心が足りてませんね。勉強の休憩中に、つい長編マンガに手が伸びているのではないですか?」

「そうなることがわかってるから、最近は割り切って家では勉強してないからね」

「確かに、そうでしたね」

「乙姫こそ、集中できないなら仮眠をとった方が効率的だと思うけど」

「寝顔を見られるのは、ちょっと……」

「今さら恥ずかしがらなくても」

「あ、それ、オレたちはお互いの寝顔を見られる関係なんだぜアピールですね」

「いや、そんなこと、人前では言わないし……たぶん……」

「どうだか。自分を大きく見せたがるのは男のサガじゃないですか」


 他愛ないやり取りをしているうちに、乙姫は普段の調子を取り戻していった。

 だから、このときはちょっとした違和感を見過ごしてしまった。

 彼女の何かが変調しているとは思わなかったのだ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「ねえキョウ君」


 数日後の休み時間、一人で廊下を歩いていると、百代に声をかけられた。


「最近、ヒメとはどう?」

「どうって、別にいつもどおりだけど――」


 そう返事をしている途中で、百代の表情の暗さが気になった。

 百代がこの手の質問をするのは、決まって僕と乙姫の仲をからかうためだ。そこには決して悪意はなく、いつも楽しそうな顔をしている。


 だけど、今の百代は不安を抱えているようだ。それがはっきりわかった。


「ホントに?」

「……百代?」

「ホントにヒメは、キョウ君といるときはいつもと同じなの?」


 縋りついてくる一歩手前の距離で、百代はこちらを見上げて問いかけてくる。まるで、いつも帰りの遅い父親に向かって、明日のお誕生日会には必ず早く帰ってきてとせがむ子供みたいに。


 不安が伝染する。


「……百代は、乙姫の何を心配してるの」


「ここ何日か、ヒメってばぜんぜん食欲がないみたいなの。新しいお母さんの作った弁当、すごくおいしいって言って、今までは必ずぜんぶ食べてたのに。最近は半分以上残すこともあって」


 百代の近況報告に、僕は少し安心していた。体調不良や何やらで、少しばかり食欲が落ちているだけなのだろうと、軽く見てしまった。


「そうか。僕も乙姫の様子は気にかけておく――」

「それだけじゃないよ。気づいてる? 最近、ヒメが化粧してるの」


 顔が強張るのを感じる。

 まったく、気づかなかった。


「化粧? 学校に? なんのために?」


 立て続けに疑問が浮かぶ。

 というか、そもそも。

 今まで僕は乙姫が化粧をしているのを見たことがない。メイクが自然すぎて見抜けなかったということではなく、触れた唇にその手の違和感を感じたことがなかった。


「……っていうか百代はどうして気づいたの」

「ヒメのほっぺたをさわったとき、いつもと違ってて、あれっ? って」

「へえ……」


 違いが分かるほど乙姫の頬をさわっているのはうらやましかったが、今はその感情は置いておく。


 乙姫は化粧で飾った自分を誰に見せるつもりだったのだろう。

 その疑問は僕をひどく動揺させた。


「……わからないな。化粧なんて、する必要ないのに」

「キョウ君。女の子が化粧するのって、自分を盛る・・ためだけとは限らないんだよ」

「どういう意味」

「キョウ君には、ヒメがいつもどおりに見えてたんだよね」

「うん。化粧には気づかなかった」


 今でも半信半疑だ。百代の勘違いではないのか。


「なら、それが理由なんじゃないかなぁ」

「だからどういう――」

 いつもどおりの自分を、僕に見せる理由。

「――ああ、僕をかすってことか」

「相変わらず人聞きが悪いなぁ、心配させたくないってことじゃん」


 仮に、乙姫が化粧をしていたとして。

 その目的が、顔色の悪さを隠すためだったとして。

 こちらが心配するほどに、乙姫の顔色が悪かったとして。


 顔色が悪い理由はなんなのだろう。

 なぜそれを隠さなければならないのだろう。


「ね、キョウ君。受験で大変だと思うけど、ヒメのこと助けてあげてね」

「……わかってるよ」


 そんなの、誰かに言われるまでもない。


 しかし、その日のうちに話をしようと思っていたのに、乙姫を捕まえることはできなかった。向こうは明らかに僕を避けていた。一縷の望みを抱いて向かった予備校にも来ていなかった。


 まったく集中できないまま講義を終えた帰り際、講師に声をかけられた。


「おお、阿山君。繭墨さんはどうしているか知らないか?」

「ちょっと体調が悪いみたいです」

「そうか……、ここ数日、点数を落としているから気になっていたんだ。まあ、本番で体調を崩すよりはよっぽどマシか。あの子は実力さえ発揮できればどこでも問題ないからな」

「はい。そう思います」


 予備校の講師でさえも乙姫の変調に気づいていた。

 それも、誰にでもわかる数字という指標によって。

 僕だけが見落としていたのだ。


 予備校を出ると外は真っ暗で、クリスマスのイルミネーションが激しく自己主張をしている。そのキラキラした光が、僕にはひどく目ざわりだった。自分たちが世界でいちばん幸せだと信じているかのような、手をつないで歩く恋人たちの姿も。


 乙姫に体調を気遣うメッセージを送ってみても、返信どころか既読すらつかない。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 翌日、乙姫はとうとう学校に来なかった。

 朝のHRで担任が「繭墨は風邪で休みだ」と告げ、みんなも気をつけるようにと注意をうながす。そんな当たり前の話にすら、受験生を注意するためのネタに乙姫を使うなよ、と反感を覚えてしまう。


 放課後になっても、昨日のメッセージへの返信はいまだ無く、そのせいで直に乙姫へ連絡するのがためらわれた。なんど送っても無視されてしまうのではないか。


 もういっそ、直接、繭墨邸へ乗り込んでしまおうか。それを実行する前に、次善の策で明君に電話をかけてみる。無事につながった。


『……はい、もしもし。何すか?』

「お義姉さんの具合はどう?」

『へ? 具合って、別にいつもと変わらないすけど』

「でも、風邪で休んで――」

『朝、普通に家、出ましたけど』




 乙姫の居場所がわかった。

 学校をサボって、どうしてそんなところに。

 戸惑いはしたが、そこを避難場所に選んでくれたことはうれしかった。


 アパートの階段を駆け上がりながらキーホルダーを取り出す。焦りのせいか鍵がうまく入らない。よく見ると、ねじ込もうとしていたのは実家の鍵だった。


 ドアを開けると案の定、女性用のローファーがつま先をこちらに向けている。


「乙姫?」


 呼びかけながら中へ。


 ベッドの上に制服姿の乙姫がいた。


 壁にもたれて膝を抱えている。こちらに気づいた彼女は、のろのろとした動きで顔を上げた。眼鏡の奥の、焦点が合っていないかのように虚ろな瞳。


「……きょういちろうさん」

「いたのなら返事してよ……」


 その場にしゃがみ込みそうになるのをこらえてベッドに上がる。乙姫の隣へ。手をつないで抱きしめて、そして、不安があるならすべて打ち明けてほしいと告げるつもりで。


 しかしその手は届かない。


 乙姫は素早い動きで立ち上がると、窓辺まで遠ざかってしまう。


 風邪が仮病だとしても、ここ数日、乙姫の体調がよくないのは事実のはずだ。


「……急に立ち上がったりして大丈夫?」


 逃げられたショックを表に出さないように、平静をよそおって尋ねる。


「今は、ええ、だいぶ落ち着きました」


 乙姫は乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、ゆっくりとうなずいた。もう一方の手は身を守るように胸元を押さえている。ボールペンらしきものを握っているが体温計だろうか。


「それならよかった。……でも、どうしてここへ?」

「相談に来ました」

「相談?」

「はい。わたしひとりではどうしても答えを出せない問題に直面したので」


 胸元を押さえていた手が伸ばされる。

 そして、指先にはさんだ体温計が、まっすぐに差し向けられる。


 髪の毛を整えていた手が下ろされる。

 ――そして、いたわるように下腹部に触れた。


「陽性でした」


 その言葉でようやく気づいた。

 差し出されたそれ・・は体温計ではなく――


「妊娠しています」


 太陽を隠していた雲が流れて、一年でいちばん昼間が短い日の夕焼けが、室内を赤橙せきとうに染め上げる。


「言うまでもありませんが、わたしと、あなたの子供です」


 乙姫の表情は逆光でよく見えない。

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