終章
第176話 11月―終わりに向かう漠然とした区切り
「すばらしいね、繭墨さん。このまま調子を落とさなければ、まず大丈夫だよ」
二十代後半の男性講師は、模試の結果票を見ながら、満足げにうなずきました。その顔には笑顔が張りついています。受験生の緊張をほぐすためにはまず表情から、とでも社員教育を受けているのでしょう。
「ありがとうございます」
しかし、この講師のように見え見えの作り笑いでは逆効果です。かえって警戒心を強めてしまいます。こっちはただでさえ、これから何を言われるのかが予想できてしまい、うんざりしているのですから。
「○○大学の法学部が第一志望というのはずっと変わっていないようだが、大学か、それとも学部か、何かこだわりがるのかな?」
ああ、やっぱり。
わたしは無表情を崩さずに答えます。
「学部は法律関係の仕事に興味があるからです。大学は偏差値的に無理のない範囲で――」
こちらの話が終わるか終わらないかのところで、講師は前がかりにうなずきます。
「そうか、うん、確かに○○大はいい大学だけど、繭墨さんにとっては――こういう言い方は変かもしれないが――背伸びをせずに入れる大学といえるだろうね。いつもどおりの勉強を続けていれば大丈夫なレベルの」
「はい」
「だけどそれは、繭墨さんの可能性を、狭めてしまうことにならないだろうか?」
講師はゆっくりと芝居がかったセリフを口にします。生徒に大きな気づきを与える名言であるかのように、こちらの目をじっと見つめながら。どうせ何かのマニュアルか、ビジネス書に書いてあることなんでしょうね、それ。
わたしは無表情を崩さずに答えます。
「広がりすぎた可能性は、迷いを生むと思います。あれもこれもと欲張って手を伸ばしたあげく、結局どれにも届かずに、モノにならずに終わってしまうくらいなら、一所懸命に取り組んだ方が、結果につながるのではないでしょうか」
「……あ、ああ、じゃあ、このままの調子で頑張っていこう!」
講師はぎこちない笑顔を引きつらせながら、グッとこぶしを握ります。コミュニケーションは言葉だけでなくボディランゲージも用いて視覚的に、といったところでしょうか。
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
わたしはこの瞬間だけは物分かりのよい生徒をよそおい、ていねいに頭を下げて、進路指導室を退出します。
◆◇◆◇◆◇◆◇
文化祭が終わると時間の流れが一気に早くなりました。
11月下旬の夕方ともなると気温がぐっと下がります。寒さで身がすくみますし、夕飯の献立で思い浮かぶのは鍋物ばかりです。
「今夜はおでんにしましょうか」
予備校の帰り道に鏡一朗さんと一緒にスーパーに立ち寄りました。
わたしの提案に彼もうなずきを返します。
「いいね、大根とがんもどきは外さないでよ」
「えっ、大根はともかく、がんもどきですか」
「嫌いなの?」
「あんな得体の知れないスポンジのような練り物はちょっと……」
「汁が染み込んでおいしいと思うけど。そっちはどんな具が好みなのさ」
「牛串とはんぺんです」
「えっ、牛串はともかく、はんぺんかぁ……」
「はんぺんに何か不満が?」
「白くてぶよぶよで味気ない印象しかないよ」
「これだからはんぺん素人は」
「はんぺん素人!?」
嫌そうな顔をする鏡一朗さんを無視してはんぺんをかごに入れます。続けてこんにゃくに厚揚げ、牛串にちくわ、なるとに大根、それから気は進みませんが、がんもどきも。それらの具材でにぎやかに煮立つ土鍋を想像するだけで、気分が盛り上がってきます。冬のしあわせはきっとあたたかい鍋物の形をしているのでしょう。
さらに、だし用の昆布やかつお節などを取ってからレジへ向かいます。
「いらっしゃいませぇ、お客様、今夜はおでんですか?」
かごの中身を見て、レジの店員がそんな風に声をかけてきました。少し馴れ馴れしい態度です。そういう接客を喜ぶ人もいるのでしょうが、わたしとしては距離の近さをわずらわしく感じてしまいます。
表情を作るのも忘れて店員を見ると、そこには見慣れた顔が立っていました。
「……ヨーコ?」
馴れ馴れしい女性レジ店員あらため百代曜子は、してやったりのニヤニヤ笑い。
「もうすぐ休憩だから、裏で待ってて」
買い物を終えて店を出て、言われたとおり裏手へ回ると、ちょうど通用口からエプロン姿の曜子が出てきました。
曜子は一週間ほど前からアルバイトをしていたようです。文化祭が終わってからは一緒に放課後を過ごす機会がなかったせいか、まったく気がつきませんでした。
「教えてくれればよかったのに」
「えー、偶然ばったり、っていうのが面白いんでしょー」
「でもどうしたの、今までバイトとかしてなかったのに。どういう心境の変化?」
と鏡一朗さんの問いかけ。確かにそれは気になります。わたしの知るかぎり曜子にアルバイトの経験はなかったはずです。
「よくぞ聞いてくれました」
曜子が胸を張ると、エプロンにプリントされている店のロゴが起伏に合わせてゆがみました。それにつられて鏡一朗さんの視線も動きました。あとで少し相談が必要ですね。
「実はね、卒業したら家を出ようと思ってるの。お父さんは実家から通えるじゃないかって言うんだけど、あたし的には自立した大人の女性になるための第一歩として、やっぱり自分の力で生活してみたくて」
「自立した大人の女性……」
そのフレーズが今ひとつ曜子と結びつきません。
「百代の口から将来についての話を聞くとなんか不思議な気分になるな……」
と鏡一朗さんも首をかしげています。
「二人そろって失礼な……、あたしだって、これでもいろいろ考えてるのに」
曜子は唇をとがらせます。確かに、文化祭を境にして、落ち着いてきているなと感じてはいました。受験組に気を遣っているだけかと思っていましたが……。曜子なりにあの一件で思うことがあったのでしょう。
「そういえば、模試の結果でてたんでしょ? どうだったの?」
「わたしは今までどおりよ」
「なんとか勝負できるところまで来たって感じだよ」
「じゃあ順調なんだ、よかった」
模試の結果を伝えると、曜子は我がことのように喜んでくれました。しかし、その笑顔が一転して、不吉を伝える魔女のようにニヤリと口元を上げます。
「……でも、順調なときほど、落とし穴に気をつけないといけないんだよ?」
「ちゃんと気を引き締めてるよ」
「落ちるところまで落ちたらあとは上がるしかない、ってよく言うじゃん。でもそれって逆に考えたら、順調なときは落ちるしかない、ってことじゃないかな?」
いつもポジティブな曜子らしからぬ発言に、わたしと鏡一朗さんは思わず顔を見合わせます。文化祭の一件は曜子の人生観にまで影響を与えてしまったのでしょうか。
困惑するわたしたちと、得意顔の曜子。
そこに通用口の奥からあきれ気味の声が聞こえてきます。
「百代さん、いくら自分が言われてショックだったからって、それをほかの人にも伝染させてはいけないよ」
出てきたのはこの店の副店長さんでした。いつも穏やかな表情で温和なイメージなのですが、曜子はなぜか顔を引きつらせて背筋を伸ばしています。
「それと、お友達が来ているからと言って、あまりレジではしゃがないように。ほかのお客様の目もあるんだから」
「は、は~い……、ごめんなさい……」
「あと、そろそろ休憩時間おしまいだからね」
「わ、わかってますよぅ……」
曜子は肩をすくめてうなずいてから、こちらを向いて苦笑いを浮かべます。
「じゃ、そういうことだから、またね~」
そそくさと奥へ引っ込む曜子を苦笑まじりに見送って、副店長さんがこちらへ向き直ります。
「やれやれ……、二人とも追い込みの時期だろうけど、根を詰めすぎないようにね」
「はい」と素直に返事をする鏡一朗さん。
「お気遣いありがとうございます」わたしも礼を言って店を後にします。
◆◇◆◇◆◇◆◇
アパートへ帰ると、わたしは台所で夕食の準備に取りかかりました。鏡一朗さんはパソコンデスクに座るなり英単語帳を開いてじっと見入っています。その熱心さはいいのですが、今くらいはひかえてほしい、とも思ってしまいます。
文化祭が終わってからというもの、わたしたちは多くの時間を受験勉強に費やしています。放課後の寄り道などもまったくありません。唯一の例外は金曜日の夕方。彼の部屋に立ち寄って夕食をともにする、この時間だけがささやかな息抜きなのです。
ですが、それすらも今回が最後。十二月に入ると、あとは本試験までわき目もふらずに勉強漬けの毎日になってしまう。そういう意味でも貴重な時間です。
「ヨーコがすっかり従順になっていましたね」
おでんの具材を切り分けながら、わたしは彼の気を逸らすために雑談を持ちかけました。
「長谷川さん、僕にはあんなに厳しい感じじゃなかったんだけどね」
鏡一朗さんは単語帳をめくりながらも会話に応じます。
「それは鏡一朗さんが真面目だからでしょう」
「百代は……、いろいろと調子に乗っちゃったんだろうね」
「順調なときほど、落とし穴に気をつけないといけない――ですか」
わたしは曜子の言葉を――厳密には曜子が副店長に言われたであろう言葉を――繰り返します。ある程度仕事に慣れてきたころに、調子に乗ってポカをやらかしたのでしょう。その様子が容易に想像できました。
「でも……、確かに、調子のいいときほど足元に気をつけないと」
鏡一朗さんは自分に言い聞かせるように頷きます。
「ありきたりな忠告をずいぶん素直に聞くんですね」
「そりゃ長谷川さんの言葉だから」
「そうですか」
短い返事で会話を切って、調理に戻ります。
おでんの具材には投入する順序があります。こんにゃくや卵といった味を染み込ませたい具材は最初からじっくりと。ちくわやさつま揚げなど、もともと味がついている具材はあとからサッと。素材の特性によって時間差をつけるのは、あらゆる料理の基本です。
だし汁の味も満足いくものになり、残りの具材を投入しようとしたところで、うっかり箸をすべらせて、具材を落としてしまいました。汁が跳ねてコンロにこぼれ、大きな蒸発音があがり、鏡一朗さんがなにごとかと振り返ります。
「大丈夫です、大した量じゃありませんから」
気を遣わせないようにそう言ったのですが、鏡一朗さんは英単語帳を閉じて立ち上がり、こちらへ近づいてきます。来るなとも言えません。
「……何か、嫌なことでもあった?」
「えっ?」
てっきりやけどの心配をされると思っていたので、予想外の問いかけに戸惑ってしまいます。
「ちょっとピリピリしてるような気がして」
「そんなこと――」
否定の言葉を途中で止めて、おたまで土鍋の中身をゆっくりかき回します。
「――予備校の講師に言われたんです。もっと上の大学を狙ってみないか、と」
「ああ、それで」
「四月にも学校で同じようなことを言われたのに、また感情的になってしまいました。進歩がないですよね」
わたしはため息をつきながら、おたまで土鍋の中身をゆっくりかき回します。
「いや、前とは違うよ。あのときはお互いギクシャクしちゃって打ち明けるのが遅れたけど、今回はその日のうちに話ができたじゃないか」
鏡一朗さんはわたしたちが前進していると言います。
しかし、それはこちらの変化に気づいた鏡一朗さんの進歩であって、話すつもりのなかったわたしは相変わらず、というのが実情です。
「……鏡一朗さん」
「何?」
「わたしをおでん種に喩えてみてください」
「どうしたのいきなり」
「いいですから」ペースを握られているみたいで
「んー、じゃあ、こんにゃく、かな」
「よりにもよって、おでん界において最も女性的ではない具材を……」
「そう? まあ、仮におでんがアニメ化したとしても、こんにゃくがヒロインに選ばれることはないと思うけど」
「途中で裏切るキザな味方タイプですよ絶対」
「大丈夫、実は敵を油断させるために寝返ったふりをしてただけだから」
「でも最終決戦で主人公をかばって死ぬんでしょう?」
「へっ、馴れ合いの嫌いな俺も、いつの間にか、お前らの味に染まっちまってたみたいだ……」
おでんだけに、とでも言いたげに口元を上げて、主人公の腕の中で息絶えるこんにゃくの演技をする鏡一朗さん。しかしこちらが無反応でいると、恥ずかしくなったのか、あわてて話を変えます。
「……じゃあ僕は?」
「がんもどき、でしょうか」
「あれ、さっきがんもどきは嫌いって」
「嫌いとは言っていません。苦手なだけです」
最初は本当に、そう思っていたんですよ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、ふたりで簡単な朝食をとって、コーヒーを飲んで、テレビのニュースに文句を言い合って、それから昼前にはアパートを出ます。
ドアを開けると晴れの空。
振り返ると、わたしについてきてくれると宣言し、それを鋭意実行中の恋人の姿。
「帰り、気をつけて」
「はい。鏡一朗さんはここからラストスパートですね」
「なんか上から目線だけど、それはお互い様だから」
「仕方ないじゃないですか、模試の順位的に」
悔しがる鏡一朗さんをひとしきりからかって、また学校で、と気安く別れました。
ドアの閉じる音を背に聞きながら、終わりに向かう漠然とした区切りを感じます。
これからは受験勉強がいっそう多忙になる――
そのていどの区切りだと考えていました。
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