第178話 12月―僕の言葉を頼りないと感じるのなら
こういうとき最高の男前なら『俺の子供を産んでくれ』『結婚しよう』と即断するのだろう。最低のゲス野郎なら『本当に俺の子か?』『さっさと堕ろせよ』あたりが妥当なセリフだろうか。
はたして、最高の男前でも最低のゲス野郎でもない僕は、乙姫の言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になっていた。
子供ができかねない行為をしたのは事実だが、同時に対策は取っていた。僕たちはまだ、親になるつもりも、その心構えもなかった。だから二人そろって、こんなにも途方に暮れている。
どれくらいの間、呆然としていたのだろう。
まだ夕陽は落ちきっていないので、たいした時間ではないはずだ。
「病院で診てもらおう」
今すべきは、現状を確定させることだ。
乙姫の申告を疑うわけじゃないが、色々なことをはっきりさせてからでなければ、先のことなど考えられない。
僕はスマホを取り出して、地図アプリから近場の産婦人科に電話をかけた。ギリギリまだ診療時間内だったので予約を取り付ける。タクシーも手配した。
準備をしている間、乙姫は黙ってこちらを眺めていた。
タクシーに乗って行き先を告げると、「えっ」と運転手に二度見されてしまう。
当たり前の反応である。
僕たちは制服のままだった。
冷静に行動していたつもりが、何も見えてはいなかった。しかし着替えるのも億劫だったので、そのまま向かってもらう。運転手が何も話しかけてこないのはありがたかった。
到着するまでの間、僕たちはずっと手をつないでいた。
乙姫は開いたほうの手で下腹部に触れている。
その姿は、そこに宿った生命を意識して、母性に目覚めつつある女性――にはとても見えなかった。ただ腹痛を気にする女子高生にしか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
診断の結果、乙姫は妊娠六週目とのことだった。
女性医師は、おめでとうございます、とは言わなかった。僕たちの表情から判断したのだろう。ご両親とよく話し合って決めてください、と穏やかな口調で告げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
再びタクシーに乗り込み、車中無言のままアパートへ戻ってきた。
僕が先に降りても、乙姫は座席に座ったままだ。
「乙姫?」
短く問いかけると、乙姫はこちらを見ずに言う。
「少し距離を取って、この先どうするのか、どちらを選ぶのか、冷静になって考えましょう。
――その提案の、なんと魅力的なことか。
僕たちに共通しているのは、まだ親になる心構えができていない点だ。
逆に、異なっているのは、具体的な目標の有無。
乙姫には将来のビジョンがある。漠然と、ただ高校の次に行くところとして大学進学を考えていた僕とは違うのだ。
もちろん、性別による違いだってとても大きい。
女と男。
身重と身軽。
産む側と待つ側。
子供の存在が重荷になる度合いもまた段違いだ。
この負い目を抱えたまま、こんがらがった頭のままで、今後についての話し合いができるだろうか。乙姫の言うとおり、距離を取って冷静になって、自分の考えをまとめてからの方が、スムーズに話が進むのではないか。
「すいません、香々美台まで――」
乙姫が運転手に行き先を告げようとする。
「待った」
「鏡一朗さん?」
誘惑を振り切る。
僕は後部座席に乗り込んで、乙姫の腕を取った。
「乙姫を一人にしておけない」
「一緒に居たくないと言っても?」
冷たく突き放す切り返しの言葉。
北風のようなそれに押し返されないように、彼女の腕を握り直す。
「――ごめん、おためごかしだった」
そして、こちらを向いてくれない横顔をまっすぐに見つめながら、情けない本心を吐き出した。
「格好をつける相手がいないと、冷静に考えることすらできそうにないんだ。だから一緒にいてほしい。僕のために。一晩だけ、なんなら一時間でもいい。その間に話をしよう」
「正直ですね」
乙姫の声が少しだけ弾んだ気がした。
「すいません、やっぱりここで降ります」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「それで、どうしますか」
部屋へ戻るなり、乙姫は僕の背中に問いかけてくる。
お互いコートも脱いでいないし、乙姫はまだ短い廊下に立ったまま、部屋の中へ踏み込んでこない。
数メートルの空白。これが今の二人の距離だと突き放されているようだった。
振り向いて乙姫と対面する。
「……乙姫の考えが最優先だ。それを前提として、僕は産んでほしいと思ってる」
「なぜですか?」
「自分の心は自分でもわかっていない――よく聞く話だし、実際そのとおりだと思うけど、それでも、はっきりと自覚していることがあるんだ」
「それは?」
「もし堕ろしてしまえば、きっといつまで経っても罪悪感から逃れられない」
「重すぎる荷物を抱えて生きていくのだって、大変なことだと思いますが」
「そんなに重いかな、
軽い口調で強がってみる。しかし乙姫は首を横に振った。
「少なくとも、同じ子供の身にとっては」
子供に子供を育てられるのですか?
そう問われているかのようだった。
「わたしたちは守られている立場です。社会的に自立できる力はまだありません」
「わかってる。正直言って、経済的な問題についてはまだ何も考えられない。まずは、どうしたいかをはっきりさせる。どちらへ進むかを2人で決めてから、その方法を考えるんだ」
「少し、頼りないですね」
軽い口調で容赦ない言葉が飛んできた。右手で握手をしているさなかに、左手に持ったナイフで腹を刺されたかのような、想定していなかった衝撃。
だけどここで倒れるわけにはいかない。
「僕の言葉を頼りないと感じるのなら、それは僕がまだ子供だからだ」
そう思われているのは情けないが、現実だ。認めるしかない。
乙姫の言うとおり、僕たちはまだ子供なのだ。
「――だから、成長するよ。
乙姫を安心させられる男に。
周りを納得させられる大人に。
生まれてくる子供を守れる父親に」
「……大きく出ましたね」
乙姫の平坦な表情は変わらない。かすかに眉が動いただけだ。
自分の言葉が相手に届いている手ごたえのないまま、虚勢を張り続けるのはあまりにも心細い。
「大丈夫だよ」
それでも平静を
君に僕の言葉を伝えきる、その間だけは。
「僕たちは事故で相手の記憶を失ってしまったわけじゃないし、何百回くり返しても悲劇的な結末をたどるループに巻き込まれたわけでもない。先に進むのが、他人より少しばかり早いだけだよ」
僕がしゃべっている間、乙姫はずっと僕の目を見ていた。言葉の真意を確かめるように。そして、瞳を通じてこちらの心の奥底までも探ろうとするかのように。
両方が黙ってしまうと、室内は一気に静かになった。
冷蔵庫の駆動音や、隣の部屋のテレビの音などを意識してしまう。
時計の秒針がうるさいくらいだ。
こちらも乙姫を見つめ返す。
目を逸らしたら、自分の言葉がすべて嘘になってしまう気がした。大好きな女の子と目を合わせ続けるのが、こんなにも精神力を要するなんて――
「わかりました。それならわたしも、母親になります」
見つめ合ったまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
何の前触れもなく、乙姫はあっさりうなずいてそう言った。
「……え? いいの?」
「もっとゴネると思っていましたか?」
乙姫は眼鏡を持ち上げつつ、にらむような上目遣いで聞いてくる。
「いや……、ほら、乙姫は将来の目的も僕よりはっきりしてたし、出産や育児となれば、その目標を曲げることになるんじゃないかと」
「はぁ……」
乙姫は心の底からの呆れを吐き出すようなため息をついた。
「わたしにとってのいちばんが何なのかは、前に話したはずですけど」
「でも、しばらく時間を空けようって、さっき下で……」
「吹けば飛びそうなくらい動揺していた誰かさんのために気を遣ったんです」
「……申し訳ない」
「いいですよ。自力で立て直してくれたから」
確かに、揺らぎっぱなしの僕と違って、乙姫は落ち着いているように見える。
「乙姫はもう、親になる自覚、みたいなものができてるの?」
「自覚どころか実感も今ひとつです。鏡一朗さんと同じ段階ですよ」
「つまり、親の自覚や子供への責任以前に、自分のために産むべきだと思っている?」
乙姫は苦笑いを浮かべてうなずいた。
「わたしとあなたの間に生まれたものを、自ら手放してしまったら、わたしたちは一緒にいられなくなる。罪悪感という傷は、わたしたちの関係性を引き裂きかねない、一生ものの深手になるでしょう」
罪悪感。それは僕の急所だ。
さすが、繭墨乙姫はよくわかっている。
「産むほうが楽だなんて言うつもりはありません。まだほんの六週間目で……、ああ、思い出しただけでもまた気持ちが悪くなってきた……、あんなにつらかったんですから。でも、どれだけ大変でも、こちらの道のりなら、あなたはきっと、ついてきてくれるでしょう? ――だったら、答えは決まってるじゃないですか」
こともなげに乙姫は言うが、その決断の根底にあるのは僕への信頼だ。
「……ごめん。今度こそ期待に応えてみせるから」
心からの謝罪と決意をもって、そう告げたのだけれど、乙姫はきょとんとした顔で首をかしげた。
「え? 前に何か、期待を裏切られたことがありましたか?」
「前にというか今まさに、将来設計の大幅な見直しを強いているわけであって……」
きょとんと、ほんの一瞬だけあどけない顔をしていた乙姫は、またすぐに鋭い表情を取り戻す。
「怒りますよ」
「ごめん」
「だからそうではなくて……」乙姫は首を左右に一往復させる。「鏡一朗さんは、わたしを強姦したんですか?」
「え」
過激な単語で問われて言葉に詰まる。
「それともわたしを使って自慰をしていたんですか?」
「ちょ、何を言って……」
「違いますよね。それだったら、自分だけが悪いみたいに、申し訳なさそうにしないでください。二人でやったことです。できないように注意してきましたけど、できてしまったものは仕方ないじゃないですか。責任感を持つのはかまいませんが、罪悪感に囚われるのはおかしいですよね?」
早口でまくしたてられ、僕は胸の前で両の手のひらを乙姫に向ける。
「ごめ――あ、いや、違うか」
両手を下ろして、苦笑い。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
乙姫は見とれるような笑顔を浮かべ――唐突にその場にしゃがみ込んだ。
「乙姫? 大丈夫!?」
慌てて駆け寄るが、乙姫の表情は笑顔のまま。痛みをこらえているわけではなさそうだ。
「ずっと緊張していたので……、腰が抜けるって、こういう状態になるんですね。初めてなのでびっくりです」
びっくりです、という言い方がかわいらしくて、こちらもつい笑ってしまう。
乙姫が伸ばしてきた手を取って、立ち上がるのを助け、肩を貸してベッドまで運ぶ。肩が触れ合った距離のまま、ふたり並んで腰かけた。
「本当なら、もっと早くに気づいていたらよかったんだけど。自習のときの居眠りとか、あれも妊娠の兆候だったんだよね」
「体調不良それ自体よりも、体調がおかしくなる理由に心当たりがないことの方が不安で、勉強どころではありませんでした――ああ」
話している途中で、乙姫は何かに気づいたようにゆっくり二度うなずいた。
「今はまだ、子供のことはあまり考えられませんが……、ひとつ、出産を望む理由が見つかりました」
「何?」
乙姫が下腹部に手をそえる。
「まだ小さいのに、わたしたちをこんなに揺さぶってくれた相手ですよ。どんな顔をしているか、興味深いじゃないですか」
まつ毛の一本一本が見えるほどの至近距離で、乙姫はこちらを向くとニヤリと口元を上げた。
その表情に釘づけになる。
さきほどの、花の咲くようなおだやかな笑顔もいいが、それよりもずっと、今の鋭利な微笑みの方が、僕の目には魅力的に映ってしまう。
「今日は自制してくださいよ?」
そうささやいて目を閉じる彼女。
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