第169話 クーデレ眼鏡ドSメイド(現実)
「腹立たしい思いもしましたが、こういうことを早めに体験できてよかったのかもしれませんね」
歯応えばっちり、肉汁たっぷりのハンバーグを食べ終えてひと息ついていると、乙姫がそんなふうに今回の一件を振り返った。
「進学や就職ともなれば、異性と二人きりになる機会は、間違いなく増えるでしょうから」
「特に仕事だと、そういうこともあるかもしれないね」
「いつも上目遣いの小生意気な後輩や、友達感覚で距離の近い同期、タイトスカートの似合うキツめの女上司――鏡一朗さんは優しいですから、そういった方々に下心なしで力を貸すこともあるでしょう。
そして、彼女たちの中で何かが変わっていくんです。
小生意気な後輩は、きちんと叱ってくれたあなたを慕うようになり、
友達感覚の同輩は、いつの間にかあなたを異性として意識しはじめ、
キツめの女上司は、あなたの前でだけ素の自分を見せるようになる――」
「
「夢を見せ、夢を与え、夢を奪う……、古くから使われてきた、人の心を操るテクニックでしょう」
「乙姫の得意なやつだね」
「おもしろい冗談ですね」
口元を押さえる乙姫だが目が笑っていない。
僕はすみやかに話を変えた。
「メイド喫茶で乙姫はフロア係をやるんだよね」
「はい」
「メイド服を着て」
「そうですね」
「その姿をほかの男に見られたくないって言ったけど、あれは撤回するよ。あまりに大人げないから」
「理性的ですね、見直しました」
「ただし条件がある」
「見直し損ないました」
「つまりメイド服を着てほしい、今ここで」
「脈絡がありませんね」
乙姫は戸惑いの表情を浮かべる。いや、むしろ憐れみに近かったが、しかしひるんではいけない。ここは勢いが大切だ。
「以心伝心とか、目は口ほどにものを言うとか、その手の〝はっきりさせなくても伝わる想い〟ばかりが持て囃される風潮は、危険だと僕は思う。あいまいな態度が誤解やすれ違いを生んでしまうことは多くて、ときに致命的な決裂へと至ってしまう。そうならないように僕たちは、素直な言葉で相手の心にこまめに触れて、その距離を確かめるべきなんだよ」
「思わず遠ざかってしまう言葉だってありますよ」
乙姫はメイド服の入った手さげの紙袋を見やり、深々とため息をつく。
「あれは、家で裾直しや微調整をするために持ち帰っているだけです」
「この前学校で、メイド服を着るから見ていきませんかって誘ってたじゃないか」
「……仮に、何かの気の迷いによってわたしがそんな意図を持っていたとしても、鏡一朗さんはあっさり振り切ってあの女のところへ行ってしまったじゃないですか」
乙姫の目つきが冷ややかになる。
典型的なヤブヘビだった。しかし、今の僕はその恐るべき蛇を迎え撃つだけの勇気と覚悟を持っている。傷つくこと――そして傷つけることを、恐れていては何もできないのだ。
「あのときは必死で自制していたけど本当は見たくて見たくて仕方なかったんだ」
「は、はあ……」
「メイド服を着た乙姫の淹れてくれたコーヒーが飲みたい」
「毎朝おれの味噌汁を作ってくれ、みたいに言われても……」
「ダメだろうか」
「あのときと、今とでは、状況が違いますし」
「状況って」
「教室で学校行事の一環として着るのと、プライベートな空間で
乙姫がそっと目を逸らすが、僕はじっと彼女を見続ける。ここで引き下がっては何も得られない。
「意味合いって?」
返事はなく、沈黙が下りる。
乙姫の瞳がせわしなく動くが、僕はじっと彼女を見続ける。
「……ああ、もう! わかったわよ! 着ればいいんでしょ? 着れば!」
◆◇◆◇◆◇◆◇
脱衣所から戻ってきた乙姫は不機嫌そうに口元を結んでいたが、それでも約束どおりメイド服を着用してくれていた。
「……お待たせしました」
「おおおおおお……」
身にまとっているのは、黒地のワンピースに白いレースのエプロンを重ねただけのシンプルなエプロンドレス。
胸元のボタンはすべて閉じられ、腕は長袖、スカートは床すれすれのロングと、肌の露出が極めて少ない服装だ。
だが、それがいい。
真に美しいものに過剰な装飾は不要。モノトーンのメイド服こそが、素材の魅力を最大限に活かす服装といえるだろう。乙姫の清楚さ、綺麗さ、鋭さが、素っ気なささえ感させるクラシックタイプのメイド服に包まれることで相乗効果を生んでいる。鞘に収められた日本刀を見ているかのよう。――この手の比喩は〝中身〟への欲求と勘違いされてしまいそうだが、けっしてそんなつもりはない。内包された魅力は外へ向けて光を放つのだ。実際、乙姫が入ってきた瞬間、室内の明度が上がったかのように錯覚した。メイド服だけに。
「……おおおおおお」
「小刻みに震えないでください」
服装だけではなく仕草もパーフェクトだった。
不機嫌そうに目を細めつつも、頬を染めて視線をそらしている。照れ隠しのようにメガネを持ち上げる仕草が良い。身を守るように身体の前で腕を組んだ、その恥じらいの仕草が良い。しかし、あえて――あえて、重箱の隅をつつくような苦言をていするならば、銀色の
「おおお……おおお……」
「涙目で
遺さなければ、と声がした。自分の声だったかもしれないし、違っていたかもしれない。あるいは世界の意思の声なき声だったのかもしれない。僕の手はいつの間にかスマホを取り出し、カメラ機能を立ち上げていた。
ところが、カメラを向けた次の瞬間、スマホは僕の手から奪い取られていた。
「写真撮影はお断りさせていただいております」
ほんの少し前までの恥じらいの気配が完全に消えて、そこにはこちらを
「……あ、ご、ごめん。僕はいったい何を……」
「無意識だったんですか、まったく……、シスターコンプレックスだけでは飽き足らず、まだこんな異常偏愛を隠し持っていたなんて」
乙姫は深々とため息をついて台所に立つ。彼女がコーヒーを淹れているあいだ、僕は決して妙な動きはしなかった。台所には飛び道具がいくらでもあるのだから。
それに、乙姫の所作は見ていて飽きない。
電動ミルで豆を挽き、その粉をドリッパーに盛りつけ、沸かしたお湯を注いでいく、一連の動作はよどみなく手馴れている。ただでさえ気品のあるそれらの動きが、メイド服という完全なる衣装でおこなわれることによって、さらに一段階クオリティが引き上げられている。祈りを捧げる神父に向かってひと筋の光が差し込むような、それはとても象徴的なシーンだった。『メイド・イン・ヘブン』という英語の成句が思い起こされる。理想的、という意味だ。乙姫のメイド姿はあまりに神々しくて、その直訳のごとく、天国で作られたものであるかのよう。
「お待たせしましたご主人さま」
平坦すぎる定型文とともに、淹れたてのコーヒーがそっとテーブルに置かれた。
理想的なメイドは、背筋を伸ばして直立不動でこちらを見下ろしている。
「座らないの?」
「本来、使用人は主人と一緒にくつろいだりしないものです」
そのとおりかもしれないが、直立不動の乙姫に見下ろされていると、女主人と従者――否、女王様と下僕の構図を連想してしまう。
「もちろん、主人の許しがあればその限りではありませんが」
乙姫はそっと表情をゆるめて、自分のぶんのコーヒーを持ってくる。そして僕のすぐ隣に腰を下ろした。
「あまりにグイグイくるので不信感しかなかったのですが、鏡一朗さんのアレは、純然たるメイド服への欲求だったんですね」
「純然たる欲求?」
「メイドといえば奉仕者であり、奉仕という言葉に
そう言って口元をゆるめる乙姫。その安心ゆえの距離感だろうか。
座ったときわずかに広がったスカートの裾が、こちらの足に触れるほどの――その距離が、否応なく異性を意識させる。
確かに、純粋といえば純粋だった。
ついさっきまでは、乙姫のメイド服姿が見たいという一点突破の感情だけで突っ走ってしまったので、それ以外の邪まな気持ちは抱いていなかった。忘れていたというべきか。
だが、それはあくまで一時的なことだ。感情というやつは御しがたい。思い出した途端に、いくらでも湧き上がってくる。
「……鏡一朗さん? ちょっと目が怖いんです、けど――」
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日はメイド喫茶の模擬店のリハーサルが予定されていたらしい。
HR前の教室はその話題で持ちきりだった。特に女子のフロア係は、サイズ合わせのためにメイド服をいちど持ち帰っており、雑談の内容も試着したメイド服のことばかり。
そんななか、乙姫だけは素知らぬ顔で文庫本を開いていたが、百代の魔手からは逃れられなかった。
「あ、ヒメ! メイド服どうだった? あたし、家族に見せても反応がビミョーだったんだけど。弟に似合ってないとか媚びすぎとかディスられてさぁ、ひどいと思わない?」
「え、ええ……、それは反抗期というものじゃないかしら」
「そうかも。あーあ、昔はかわいかったのに……。ヒメはどうだったの?」
「……おおむね、好評だったわ」
「だよねー、ヒメは何を着ても似合うよねぇ。明君とか素直にほめてくれそうだし」
「……あの子からは特にコメントはなかったけれど」
「学校で着るのって家と違って緊張するね、男子の視線とかヤバそうだし」
「……え、ええ、確かにそれはあるかもしれないわね」
「って、あれ? メイド服はどうしたの?」
「……申し訳ないけど、忘れてしまったの。だから放課後のリハーサルは――」
「ヒメが忘れ物なんてめずらしいね。大事なものは前の日のうちにちゃんと準備して枕元に置いてるって言ってたのに」
「……恥ずかしいかぎりだけど」
「もしかして……、メイド服ってあんまり大事じゃなかった?」
「……そんなことはないわ。わ、忘れたというか、その、洗濯をしたんだけど、乾かすのが間に合わなくて……」
「ふーん、そっか。……あ、メイド服を着たらなんかテンション上がっちゃって、コーヒーとか淹れちゃったんでしょ。それで汚れたとか?」
「……ま、まあ、そんな感じかしら」
「あの服着たらなんかそういう気分になるよねぇ、あたしもついつい料理運ぶの手伝ったりしちゃったもん。……でも、あれ? ヒメの家って乾燥機なかったっけ」
「……よく覚えているわね。あ、あれはちょっと、修理中で……」
百代が無自覚に乙姫を追い詰めていく。
乙姫の言い訳は、普段からは考えられないショボさだった。追及すればするほど新事実が転がり出てくる、隙だらけの国会答弁のようだ。
質問をしている当の百代はわかっていない様子だが、周りで二人のやり取りに耳をかたむけていたクラスメイトどもは、乙姫が下手なうそで隠そうとしている事実に気づきつつあった。
「
赤木のつぶやきを号令にして、教室内の視線が僕へと集中する。
「リア充死すべし……」
「バカップルは爆ぜろ……」
「許すまじ……、マジ許すまじ……」
男子生徒たちは生ける屍と化した。地の底から響くようなうめき声をあげ、ノロノロとした動きで近づいてくる。
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