第168話 僕が彼女にそうされるように


「何をもって浮気とするのか、その定義が問題です」


 乙姫は白黒のチェック柄のエプロンを身に着けて、さっそく夕食の準備を始めた。


 メインディッシュはハンバーグ。材料と調理器具を並べると、まずは下ごしらえからだ。彼女はうちの台所のどこに何があるのかを、僕以上に把握している。


 テキパキと手を動かして料理を進める一方、ペラペラと口の動きもよどみない。


「人によっていろいろな線引きがあるでしょう。ベッドをともにしたら浮気。口づけを交わしたら浮気。二人きりで食事をしたら浮気――このあたりは、多くの人が認めるところだと思います。では」


 いったん言葉を切って、こちらに考える時間とプレッシャーを与える、乙姫特有の会話の間。


「――歳の近い異性と二人きりではあるものの、そういった親密な行為は一切なかった、という場合はどうでしょうか鏡一朗さん」


 乙姫は淡々とした口調で尋ねてくる。

 僕は床に正座をしていた。

 少し足がしびれてきている。


 決してこの姿勢を強要されたわけではないが、乙姫への負い目が、罪悪感が、自然とこの姿勢を取らせるのだ。膝をついて平身低頭、今の僕は床を這う虫である。


「……クロだと思います。一般的に見て」


「一般的。なるほど一般的。その言葉には、自分は違う、という言外の意図が含まれていますね。鏡一朗さんは、灰谷さんと二人きりで会うことを浮気とは考えていなかった、と」


「はい。勉強を教えるだけなので何も問題はないと」

「恋人に伝える必要もないと?」

「いま思えば、客観的な視点や、恋人への配慮が欠けていたと反省しております」

「そうですよ。どうして何も言ってくれないのか、ずっと不安だったんですから」


 感情の乗った声。


 ずっと、という言葉が引っかかる。灰谷の名前を知っていたこともそうだが、乙姫は今日よりも前から、僕と灰谷が会っていたことを知っていたのではないか。


「前から知ってたってこと?」

「情報源は秘密です」


 乙姫は顔の前で人指し指を立てる。その手の甲に赤い肉片が付着しているのを見つけて顔が引きつる。いやいや、アレはただのひき肉だ、ハンバーグの材料だ、何も焦ることはない、と言い聞かせる。


「最初から、本気で疑っていたわけではないんです。鏡一朗さんは浮気ができるような性格ではありませんし、さきほどスーパーで二人を見つけたときも、やましいことをしているとは思いませんでした。灰谷さんが「アンタ、アタシのことが好きなのか」と問い詰めるのを聞いてさえも、2人の間には何もないと確信していたんです。――ですが」


 ぺちゃ、という粘っこい音がした。


 乙姫は丸めた挽き肉をお手玉のように軽く放って、空気抜きをしていた。その挽き肉をキャッチする音だった。


 ぺち、ぺち、と一定の間隔で聞こえる音が、妙な緊張感をあおる。

 何かの競技のスタートの秒読みのような。

 あるいは、夜道で背後から少しずつ足音が近づいてくるような。

 そんな、徐々に追い詰められているような感覚だ。


 やがて粘着質な音がとぎれて、ホッとひと息ついた瞬間――

 今度は、ジュウッ、と油の跳ねる音に背筋が伸びる。


「それなのに、自分でも驚くくらい頭に血がのぼって、攻撃的になっていました。理性よりも本能がまさってしまったんでしょうね」


 乙姫はそんな自分を恥じているらしく、フライパンを見下ろす横顔には陰りがあった。理性より本能が勝った状態であんな芝居を打てるのはさすがと言うしかないが、そもそも、


「僕が黙っていたのが悪いんだから」

「そうですよ、猛省してください」

「ごめん」

「では罰として大根をすりおろしてください」

「え?」

「ひとつはデミグラスソースで、もうひとつは和風の味付けにします。半分こ・・・ですよ」


 乙姫のいたずらめかした言い方に、詰問の終わりを感じる。

 足の痺れに耐えながら立ち上がって、狭い台所の、乙姫の隣に並んだ。


「……どうして鏡一朗さんは、彼女の要求に応じたんですか。先に言っておきますが、人に教えるのは自分の勉強にもなるから、なんていうありきたりな理由では納得できませんから」


 乙姫が菜箸を動かしながら問うてくる。

 すぐ隣にいなければ聞こえないような、静かな声だった。


「好きな人と同じ大学へ行くために頑張るっていうのが、自分の今の状況と重なったから、つい感情移入してしまって、放っておけなかったというか」


 僕は皮をむいた大根をおろし金に当てて、ゆっくりと動かし始める。


「そうですか、あの子の身体に惑わされたわけじゃなかったんですね」


 大根を押さえていた手が滑っておろし金にすり下ろされる。


「ぐぁ……! 指が……、大根おろしが、赤く……」


「誰がもみじおろしにしてと言いましたか」


「そっちがいきなり妙なことを言うからじゃないか……」


 大根汁が傷に染みてズキズキ痛む。蛇口を上げて傷口を洗い流した。


「灰谷さんの服装、胸元がずいぶん開いていましたけど」

「あの子みたいなキャラが制服を着崩すのって普通じゃないの」

「何をのん気なことを」

 ため息をついて、乙姫は調理する手を止めた。

「男子の前であんな格好をするなんて、誘っているか攻めているかのどちらかですよ。もう少し自覚してください。鏡一朗さんは無防備なんですよ」


 乙姫はエプロンで手を拭きつつ、ベッド脇に置いてある自分のかばんのところへ歩いていく。そして、カットバンを持って戻ってきた。


「はい、指を出してください」


 素っ気なく言いながら、擦りむいた指を介抱してくれる。

 乙姫の冷たい手が、熱を持った指に心地よい。


 カットバンを貼ったあとも、その手はすぐに離れずに、僕の右手は乙姫の両手にそっと包まれている。


 その行動に違和感を覚える。


 それは恋人同士のスキンシップというよりも、どこか、親にすがる子供のようで、僕は彼女がどんな表情をしているのかが心配になった。


 だけど、顔をのぞき込むよりも早く、乙姫は手を放してしまう。


「焼き上がりまでの手持ち無沙汰にはちょうどいいヒマつぶしでしたね」


 菜箸とフライパンを持ち直しながらそんなことを言うのだ。



 僕は大根おろしをやり終えると、あとの調理は乙姫に任せてテーブルへ戻る。


 あぐらを組んで座ってから、乙姫の様子について考えた。


 威圧的な態度や素っ気ない物言いは、いつもの彼女とそう違いはない。だけど、それらがどこか、全体的に安定を欠いているように感じるのだ。


 ここ数日、乙姫はずっと不安だったのかもしれない。


 僕が彼女の立場だったらどうだろうか。


 僕の知らないところで、乙姫が知らない男子と二人きりで会っていたとしたら。当人にそのつもりがなくても、僕は浮気を疑うだろうか。


 それはない、と思う。

 浮気ではない、乙姫はそんなことはしない、と言い切れる。

 それくらいには彼女を信じている。


 だけど、乙姫が異性と二人きりでいる状況を想像するだけで、堪らなく不快になるのもまた事実。それは恋人への信用とはまったく別の感情だ。


 だったら、想像ではなく現実に、恋人が異性と二人きりでいるのを知ってしまった乙姫が、どういう気持ちになるのかはわかりきっている。


 だというのに、この期に及んで僕は、乙姫が女々しさや弱々しさとは無縁の女の子のように思っていた。彼女を特別扱いをしていたのだ。


 タフと鈍感はまったく違うものだけど、表面上は、同じように見せることができる。乙姫はその演技がとても上手な子だと、知っているのに。



『――わたしは自分に自信がありません』



 忘れるはずもない、去年の文化祭の最終日。

 僕の告白に対する返事の、最初のセリフがそれだった。


 僕は乙姫の言葉や仕草に一喜一憂している。

 ただそこにいるだけの彼女にさえ、心を乱されてしまう。


 乙姫も僕に対してそう・・なのだということを、自覚していなかったのかもしれない。僕の言動が彼女を喜ばせたり楽しませたり、時には不安がらせたり惑わせたりすることを。彼女を良くも悪くも揺さぶってしまうことを。


 僕が彼女にそうされるように、僕も彼女をそうしているということを。


 僕と乙姫は、影響しあう人間関係の、その最たる間柄にあるのだ。

 だというのに、その自覚が足りていなかった。だから不用意に、女の子と二人きりで会ったりしてしまったのだ。人助けという、さも正当な理由を言い訳にして。


「乙姫」

「なんですか浮気者の鏡一朗さん」

「不安にさせてごめん」


 付き合う前の乙姫なら、もしかしたら、「不安なんて感じてません」という強がった台詞が返ってきたかもしれない。だけど今は。


 乙姫は手元に向けていた視線を上げて、感心したような顔でこちらを見ていた。


「許します。今度からは気をつけてくださいね?」

「……ああ、うん」

「生返事ですね」

「いや……、ずいぶんあっさりしてるから」


「わたしが何に怒っているのか、ちゃんとわかってくれたんですよね。だったら、これ以上はただの嫌味になってしまいます。受験が近づくにつれて、こういう機会はどんどん減っていきますから。大切な時間は、楽しく過ごしたいじゃないですか」


 なんでもないような口調で、そんなことを言う。


 時間が止まったと感じるくらい素直な言葉だった。乙姫はときどき、こういうまっすぐな台詞を使う。普段の素直ではない言葉とのあまりのギャップに、僕は気の利いた返事ができなくなる。


 肉の焼ける音と、換気扇の音が室内に響くなか、乙姫はどこか上機嫌で料理を続けている。


 大切な時間というやつを意識すると、もう二年半以上も過ごしてきて、目新しさのなくなってしまったこの部屋が、まったく違う見え方をする。


 実家の使い古しをゆずってもらった薄型テレビ。このところ座る時間が増えた勉強机。細かな傷が幾重にも重なるローテーブル。2人で横になるには少々せまいシングルベッド――かたわらに飾り気のない学校指定のかばん。乙姫のものだ。かけがえのない変化のしるし。


 ふと、その隣で紙袋が倒れているのが気になった。

 カットバンを取ったときに倒したのだろうか。

 袋の口がこちらを向いて、中身が見えている。


 それは洋服のようだった。黒い生地の上に薄手の白いレースが重なっている。折りたたまれているのでよくわからないが、スカート、だけではないような……っていうか、メイド服じゃないかアレ?


 乙姫たちは文化祭の出し物でメイド喫茶をやることになっている。その衣装だろう。だからメイド服を持っていても不思議じゃない。不思議じゃないが、意識せずにはいられない。あれはただの布だ。繊維のかたまりに過ぎないのだ。気にしてはいけない。無理だ。


 恋人が、メイド服を持参して、部屋にやってきている。

 この事実をどう受け取ればいいのか。



『――わたしは自分に自信がありません』


 僕の告白に対する、乙姫の返事。

 あれには続きがあった。曰く、


『――自信がないから、策をろうしたりもします』と。

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