第159話 陳腐な言葉


 父が帰ってくると、5人が居間に一堂に会することになった。


 上座には父さんと義母さんが並んで座っている。

 父さんは仕事帰りのワイシャツのまま、口を結んで険しい表情。

 義母さんは対照的に、すでに乙姫と話をしたからか、穏やかな顔つきだ。

 千都世さんは少し離れたところで椅子に座って、ニヤニヤ笑いを浮かべている。ビールと枝豆を準備しており、完全に観戦する者の態度だった。


 下座には僕と乙姫が並んで座っている。父の対面に僕、義母さんの対面に乙姫という配置だ。


「本日はわたしたちのためにお時間を割いていただき、ありがとうございます」


 乙姫が頭を下げるのにつられて僕もお辞儀をする。

 義母さんはパタパタと手を振って、


「いいのよ、大切な話なんだもの」

「ああ」とうなずく父さん。

「むしろ子供たちと話ができるのが親としてはうれしいことなの。気にしないで」

「うむ」とうなずく父さん。

 どうしたんだろう、傀儡政権みたいになってるけど。


「親同士で集まるとどうしてもそういう話になっちゃうのよね、スマホばっかりつついて親の顔を見ようともしないって。そのくせ顔も知らない相手の言うことにいちいち右往左往しちゃって、そういうところが幼いって気づいていないのは危ういわよねえ本当に。鏡一朗君はSNSぼっちみたいだから、その点は全然心配いらなかったんだけど」

「わかります。インスタ映えしませんよね」


 そして僕はどうしてナチュラルに貶されているのだろう。


「ふむ」とうなずく父さん。仕事帰りで疲れているのだろうか。それともインスタ映えという言葉が理解できなかったのだろうか。


 ともあれ、最初のやり取りで雰囲気が和んだところで、乙姫はA4のプリントが入ったフォルダを開いて、取り出した紙束を机の上に置いた。


「ではこちらの資料をご覧ください」


 ぶふぉっ、と千都世さんがむせた。


「どうしましたか」

「いや……、いきなりトバしてくるなぁオトヒメちゃんは。営業か」

乙姫いつきです。……そうですね、営業というお仕事のことはよくわかりませんが、新たな関係を築く業務だと認識しています。そこで大切なのは、誤解のないように説明を尽くすこと。その点ではこれも営業活動と言えるかもしれませんね」

「新たな関係か、確かになぁ。名字や戸籍が変わっちゃうかもしれないもんなぁ」

「気の早いことを言わないでくださいおねえさん」


 ちょっと今のどっち? お姉さん? お義姉さん?


 ニマニマとうなずく千都世さんと、うっすら口元を上げる乙姫。そのやり取りのおかげで、本題に入る前から僕の精神は疲弊していた。父さんも若干あっけに取られている。義母さんはニコニコ顔だ。


 これはいけない。性別間のパワーバランスが完全に崩壊していた。

 もともと僕も父さんもあまり主張する性格ではないのだ。それに比べて、この場にいる女性陣は押しが強すぎる。暴走トラックのごとく高威力の乙姫に、F1カーのごとく高速度の千都世さん、そして巨大タンカーのごとく高圧力の義母さん。三者三様にパワフルだ。


「……このデータは?」


 父さんがプリントを持ち上げながら問いかける。視線の鋭さがようやく戻ってきていた。

 僕たちはそろって姿勢を正すが、説明をするのはプリントを作成した乙姫だけだ。誠に不甲斐ないとは思いますが、資料一式、あっちが勝手に作ってきてたんだから仕方ないじゃないですか。


「あちらでの生活に必要と思われる諸経費についての試算と、それを異なる条件で比較をしたデータです」

「異なる条件、というと」

「一人暮らしをした場合と、二人で暮らした場合。そして、その差額を借金の補填にあてた場合、返却期日がどれだけ短縮できるのかという比較も添えています」


「ふむ……、わざわざあちらの相場まで調べているのか……」

「水道光熱費については、鏡一朗さんのアパートの数字を参考にしているので、実際の金額とは誤差が出てしまうと思われますが」


 と乙姫が補足する。どうして乙姫は僕のアパートの水道光熱費を把握しているのか、という疑問は差し置いておこう。あまり深く掘り下げると危険なものが出土しそうだ。そっと埋め戻したくなるようなものが。見て見ぬフリ、見て見ぬフリ。


 父さんと義母さんは時間をかけてプリントの内容をじっくり吟味したあと、顔を上げてこちらを見据えた。


「繭墨さん、君はデータでこちらを説得するつもりなのか?」


 それは、と言いつのろうとする乙姫を手のひらで制して、父さんは話を続ける。


「月並みな言い方になるが、二人の交際に反対しているわけじゃない。ただ、親の身としては、急ぎ過ぎてはいないかと感じている。君の言動はいささか盲目気味に思えるんだよ」


 頷くことはできないが、父さんの指摘は理解できた。

 日ごろ冗談めかして言っている、乙姫の〝重さ〟にかかわることだからだ。


「そう、まるで将来のすべてを決めてしまっているかのように。しかし、これから大学生、社会人と、世界が広がっていくうちに、いつか、鏡一朗よりも君にふさわしい男性が現れる――」


「そんなことはありません」


 父さんのたしなめる言葉を、そっと刃物で断ち切るように、乙姫はゆっくりと首を振った。


「お父さまは急ぎ過ぎているとおっしゃいましたが、それは誤解です。確かにわたしたちはまだ成人も迎えていない、若輩であることは否定できません。しかし、鏡一朗さんと出会って、もうすぐ2年になります。2年以上の付き合いの知人はほかにもいますが、こんなに近く深く親しい付き合いをしてきた異性は鏡一朗さんだけです」


「年齢は若くとも、過ごした時間の長さと深さが、鏡一朗それを信じるに足ると言いたいのかな」


「はい。交際を申し込まれるまでの1年間と、交際を始めてからの10か月あまり。この恋は盲目ではなく、わたしはわたしなりに、阿山鏡一朗という人物をじっくりと時間をかけて見極めてきました」


 え、そんな観察されてたの僕。

 戸惑うこちらをよそに、乙姫はさらに明け透けなことを言ってしまう。


「出会った当時はその……、正直に言いますが、利用するつもりでした。わたしは最初、鏡一朗さんの友達に好意を持っていたので――」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 最初は多少、口が回るだけの平凡な男子だと思っていました。

 しばらくすると、彼とのやり取りを楽しんでいる自分に気づきました。

 意外な優しさや誠実さを知りました。

 かと思うとこちらの事情に踏み込んでくる厚かましさに腹が立って、ついキツく当たってしまうこともありました。


 ヨーコからの告白を断ったと聞いたとき、安堵した自分の気持ちがよくわかりませんでした。


 文化祭で、フォークダンスの誘いを断ったのは、試す気持ちがあったからです。

 それと、迷いも。


 この人に決めていいのか? という疑問です。

 学生の付き合いで決めるも何もない、と一笑に付す人もいるかもしれませんが、少なくともわたしにとっては重い決断でした。


 それは当時の両親が不仲であったことと関係しているのでしょう。

 婚姻届けも結婚式も結婚指輪も、そして血を分けた子供でさえも、二人のつながりを保証してはくれません。


 そんなものは、きっとどこにも存在しないのでしょう。

 ですが、わたしはそれを欲していた。確かなものを求めていました。


 一度、ダンスの誘いを断ったのも、きっとそのせい。

 彼の本気を確かめたかったのです。

 あの時点でほかの女性へ向かうという選択肢もあったはずなのに、鏡一朗さんはわたしを選んでくれました。


 そして、文化祭の最終日。

 わたしは、この人は信用に値すると判断して、その手を取りました。


 そう、判断です。

 この時点でのわたしはまだまだ、相当に理性的だったと思います。

 容姿や収入で交際相手を吟味する、上から目線の嫌な女と大差のない思考です。


 付き合い始めた当初は、日常が一変することはありませんでした。

 ですが少しずつ、付き合っているという自覚が、彼との距離を近づけていきました。このくらいなら踏み込んでも大丈夫。では、次はこれならどうでしょうか、と相手の許容範囲を探っていく日々。……もっとも、思い返せばあまり手加減はしていませんでしたが、それもまた彼への信用の証ということで。


 はしゃぎ過ぎた修学旅行、

 曜子との仲違いを仲介してくれたこと、

 一緒に過ごせなかったクリスマス、

 駅のホームで連れ去られた大みそか、

 プライドを賭けたバレンタインと、

 過大な要求を突き付けたホワイトデー、


 それらを一つ一つ経ていくうちに、いつしか、彼の言動によって感情を大きく揺らしている自分に気づきました。滑稽なくらいに浮かれていて、それが心地よいのに少し悔しくて、だから、こちらと同じくらい彼を動揺させたくていろいろと策を弄する。そういう毎日が積み重なって、わたしに確信させたのです。


「――ですが、今は、わたしには鏡一朗さんが必要です」


 向かい側に座るお父さんとお義母さんへ交互に目を合わせ、一拍置いて、


「この結論は、この先どんな人と出会っても揺らぐことはありません。一流スポーツ選手であろうと有名大学卒の俊才であろうと大企業のCEOであろうと、です。能力や資産の高低などは関係ありません。陳腐な言葉ですが、オンリーワン、なんです」



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 乙姫にしては珍しく語尾を弱めながら話を終えると、居間に沈黙が流れる。


「あなた、もうわかってるでしょ?」


 口を開いたのは義母さんだった。


「この子たちは、わたしたちに助けを求めるためでも、許しを得るためでもなく、筋を通すために来たのよ。あんまりゴネていたら、きっと高校卒業と同時に駆け落ちしちゃうわ。それじゃあ、誰も幸せにならない」


 父さんは諦めたようにため息を一つ、


「こちらからは、以前に要求した以上のことを言うつもりはない。好きにしなさい。ただし、言うまでもないことだが、学生らしい節度は守るように。在学中も、進学してからもだ。いいな」


 話を締めて立ち上がるが、しかし、義母さんが笑顔でそれを呼び止める。


「あなた?」

「ん、どうした母さん」

「お話はまだ終わってないわよ」

「そうか?」


 義母さんは父が尻を置いていたソファのくぼみを手のひらでぽんぽんと叩いて、


「鏡一朗君へ送った仕送り箱の中に、コンドームが入っていたそうなんだけど、それについて、あなたの方から、若い二人に対して、何か言うことは?」


 義母さんはゆっくりとセリフを切って、意図的に、この場にいる全員の意識に染み込ませるようなしゃべり方をした。


 再び居間に沈黙が下りる。


 しばらく硬直していた父さんは、やがてその威厳と一緒に崩れ落ちるようにソファに腰を下ろした。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 阿山家の支配権は完全に女性のモノになってしまった。


 弁解と謝罪を終えた父さんは、タバコを吸ってくるといって早々に家の外へ脱出していた。僕は酔っぱらった千都世さんに絡まれて身動きが取れなかった。


 やがて義母さんが乙姫に、どういう風に告白されたのかと根掘り葉掘り聞き始めたあたりで、僕は強い精神の危険を感じた。


 乙姫は恥ずかしそうにうつむきながらも、嫌がることなくペラペラと僕たちの思い出を白状していく。一人で思い出しただけで未だに悶えてしまうアレを、乙姫の口から赤裸々に語られるのは、羞恥プレイを超えた羞恥地獄だ。死因になるレベルで羞恥心が燃え上がる。クーラーは無効。サウナのごとく汗をかいた僕は、新しいビールを持ってくるとウソをついて居間から逃げ出した。


「繭墨さんが家に来るのは確か3回目だったか、なかなか個性的な子だと思ってはいたが、想定をはるかに超えていたな」


 外でホタル族になっていた父さんは、タバコの吸い殻を携帯灰皿に押し込みながらそう言った。


「それに、自らの個性を大っぴらにしてはばからない」

「さっきのアレは聞かれたから答えただけで、普段はもっと自制してるよ」


 今日の乙姫はちょっと飛ばしすぎだったが、あれはきっと、ここが決めどきだと判断したからだろう。チャンスと見れば最大火力で勝負を決める。それが乙姫のやり方だ。

 もちろん、乙姫の個性というか存在感は、自制してもなお際立っているが。


「お前と一緒にいるために、本性を出したということか」

「乙姫はどうして僕がいいんだろう」


 この手の弱音をしょっちゅう吐いてしまうのは、もはや僕の癖のようなものだ。本気で卑屈になっているというより、僕と乙姫がどういう風に見えているのか、いろんな人から聞きたいのだと思う。


「それはわからん。親の私でさえ、お前とあの子が釣り合っているかと問われれば、首をかしげてしまうくらいだ」


 ひどい言いぐさとともに父さんは顔を上げた。僕もつられて空を見上げる。

 田舎だけあって夜空の星は鮮明だが、今夜は満月に近いせいか、それ以外の星の光はかき消されぎみだ。


「人と人との関係は――特に一対一のつながりというものは、簡単に説明できない。大は小を兼ねないし、損得の価値観もそれぞれだ。身長や収入といった数値化できるものだけでは、明確な判断基準にはならない。


 だからこそ、この手の疑問を解決するための、拠り所はひとつしかない。


 お前とあの子が釣り合っているかと問われれば、首をかしげる人間は多いかもしれんが……、そんな連中の雑言と、お前を必要だと言い切ったあの子の言葉の、どちらを現実にしたいのかと考えれば、答えはおのずと出るだろう」


 父さんの話を要約すると。

 お前を信じるあの子を信じろ、ということらしい。

 いつも冷静なところばかり見てきた父の、思いもよらなかった熱量のある言葉に、少し驚き、同時に、大いに心強さを感じた。



 気になる異性を指して『君は僕の太陽だ』などとのたまう、歯の浮くようなセリフがある。しかし、僕にとって繭墨乙姫は、夜空に浮かぶ月に等しい。……わかっている。それだって十分に歯の浮くセリフというか、歯で浮けるレベルだ。


 月は夜空に見える最大の天体だ。他の星々の光をかき消してしまうほどの圧倒的な存在感がある。だけどそのビジュアルイメージだけで言っているわけではない。


 月という天体は、はるか昔に地球から分離した物質で構成されている――そんな学説がある。その説に照らすと、月は地球の分身と言うことができる。


 姿かたちは違っていても、どこか似ている僕たちだから、大げさな喩えだって的外れではないと思えるのだ。こんなこっ恥ずかしい想像、誰にも言うつもりはないけど。


「いつ頃までこっちにいるんだ」


 話が途切れたがまだ家の中には戻りづらいらしい父さんが、そんなことを聞いてくる。


「オープンキャンパスの予定があるから、あと数日のつもりだけど」

「……それは、繭墨さんと一緒に行くのか?」

「その予定だけど」

「まさか、泊りがけでは、ないだろうな」


 僕は再び夜空を見上げてみたが、父さんはそれに釣られてはくれなかった。


「交際に口を挟むつもりはないが、親として、せめて高校を卒業するまでは、その辺りの線引きはしっかりしてもらうぞ」

避妊具あんなものを送ってきたくせに……」

「あれは自制を促すお守りのようなものだ」


 それがなんと免罪符になっちゃったんですよお父さん。

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